22話:カフェラテ
静まり返った部屋に、紙をめくる音だけが響いていた。
机いっぱいに広げられた帳簿と資料。
澪は頬杖をつきながら、何度目かになるページを睨みつける。
『北の港の出入記録』
『貨物の積荷一覧』
『教団関連企業の取引履歴』
数字と記号の羅列に目が霞みそうになる。それでも、昨夜、三人がそれぞれの役目を果たした末に手に入れた資料だった。簡単に諦めるわけにはいかない。
昨夜の出来事を思い返す。
グレゴリオとの賭け。
サルヴァトーレがポーカーで時間を稼いでいる間——ネッロは裏で港の管理棟へ侵入し、帳簿を盗み出していた。さらには追跡を防ぐため、倉庫の一部に爆薬まで仕掛けていたらしい。
そして、ネッロが澪を抱えて屋根を飛び回り、大立ち回りを演じている頃。サルヴァトーレは何事もなかったかのような顔で資料を受け取り、車で指定した合流地点へ向かっていた。
思い返しても無茶苦茶だ。普通なら映画の中の話でしかない。それなのに、二人はそれを当然のようにやってのけた。
「すごい人たちだな……」
思わず呟く。
昨夜の海風に、飛び込んだ冷たい海。響く爆発音。磯でのネッロの笑い声。ゲーム中のサルヴァトーレの余裕めいた微笑み。
思い出すだけで胸の奥が少し熱くなった。
気付けば口元が緩んでいる。慌てて首を振った。
「いやいや、浮かれてる場合じゃないでしょ」
資料へ視線を戻す。帳簿から見えてきた情報は少なくなかった。
教団は今もなお、グラツィアの研究を継続している気配があった。
硫化水銀粉末に精製硫黄、実験用に使うのか大量の医療用の備品——
それらが、莫大な予算と莫大な人員を割いて長い年月、取引されている。
どれも単体なら不自然ではない。けれど、同じ教団関連企業へ、何年も継続して運び込まれているとなると話は違った。
「もう完成してるんだろうか……」
澪は呟いた。
次に、祖母の遺したメモへ視線を落とす。
『魔女の罪』は、おそらく火口の魔女の伝承のことを示しているはずだ。“欲望が時を止めた”これは、若返りの薬のことかもしれない。
『神から盗んだ炉』これについては研究ノートにあったエネルギーを作る『神の炉』計画が関係しているようだが、まだそれ以上のことはわからない。
教団がおかしな薬を作っているからといって、なぜ自分の命が狙われるのか——肝心のそれがわからない。
「私が魔女の関係者で薬の秘密を知ってると思ってる?」
(でも私は本当に何も知らない——)
何か重要なことが隠されている気がする。けれど、その肝心な部分が見えてこない。
澪は紙の端を指でなぞった。何度も考えをめぐらせるも、答えは出ない。やがて肩が重くなってきた。
ふと時計を見る。思っていた以上に時間が過ぎていた。
「……もうこんな時間」
目を擦る。頭も少し熱い。一度離れた方がいいかもしれない。
澪は椅子から立ち上がると、軽く身体を伸ばし、部屋の外へ出る。
夜更けのアジトは静かだった。昼間の賑わいが嘘のように沈んでいる。見張り役の男たちがぽつりぽつりと配置されているだけで、廊下には人影も少ない。
足音が石畳へ落ちるたびに、小さく反響した。壁に掛けられたランプが揺れる。
硫黄の匂い。海から運ばれてくる湿った風。どこか懐かしいような、不思議な匂いだった。
何気なく窓の外へ目を向けた。
離れた建物の一角。執務室の窓にだけ、まだ灯りが残っているのに気づいた。
澪は足を止める。
「……まだ起きてるんだ」
こんな時間なのに。昨夜はあれだけ危険な目に遭って、昼間もずっと忙しそうだったのに。思わず苦笑する。
(人のことは言えないけど)
胸の奥に、ふわりと温かなものが灯った。
少しだけ。本当に少しだけ。その灯りの下にいる人の顔が見たくなった。
澪は踵を返す。向かった先は厨房だった。
「せっかくだし」
小さく呟き、慣れない手つきで準備を始める。眠気覚ましのエスプレッソに温めたミルクを注ぐ。
やがてふたつのカップから、甘く香ばしい香りが立ち上った。
澪はトレイにカップを乗せると、こぼさないように慎重に持ち上げた。そして静かな廊下を、執務室へ向かって歩き始めた。
*
「澪です」
ノックの後に声を掛けると、しばらくして扉が開く。
「こんな時間に、何か?」
サルヴァトーレが顔を覗かせる。ランプの灯りを受けて灰色の瞳が琥珀色に光っている。
「その……先日手に入れた取引帳簿と照らし合わせた仮説を聞いていただきたくて。明かりが見えたので、まだいらっしゃるかと」
それらしい言葉が先に出た。でも、本当は差し入れに来ただけだ。
「なるほど。それで、カフェラテを持って取引に来た……と?」
口角をわずかに上げ、盆の上のマグカップを見下ろす。
「ええと……夜の休憩は、少し優しい飲み物の方がいいかなと思って」
澪は自分の言葉に、急に心許なくなった。
(考えてみたら、こんな甘い飲み物、口にしないかも……)
——ふっ。
その瞬間、サルヴァトーレは少し呆れたような表情で微笑んだ。
「久しく飲んでいませんが……せっかくです。ありがたく頂戴しましょう」
いつもの作ったような表情とは少しだけ違う温度だった。
「……中へ、どうぞ」
安堵の息が、澪の胸から静かにこぼれた。
「いつもこんなに遅いんですか?」
カフェラテの湯気に、澪は視線を落とした。
彼はわずかに眉を寄せ、肩を竦める。
「普段はそれほどではありません。……ただ、先日はネッロが派手にやってくれたので、その後始末が、少々厄介で」
一呼吸置いてから、声を和らげた。
「ですが、それももうすぐ終わります」
言い終わり、カフェラテに口をつけた瞬間、少しだけ眉を上げた。
「これは……甘いですね」
「えっと、砂糖は入れてないんですけど……ミルクのせいかも」
サルヴァトーレはカップの中をじっと見つめる。
何とも言えない空気を変えようと、かねてから伝えたかった言葉を口にした。
「……この間は、無茶な提案に乗ってくれて、ありがとうございました」
澪は小さく頭を下げた。
「いえ。貴女こそ、よく機転を利かせて場を納めてくださいましたね」
サルヴァトーレは目元に薄い笑みを浮かべて答えた。
「ずっと気になっていたんですが……ドレスに赤を選んだのは囮として目立たせるためだったんですか?」
「ええ、そうです。多少グレゴリオの好みも考慮しました」
サルヴァトーレが少しの間もなく即答したので、澪は拍子抜けして思わず笑ってしまった。
「じゃあ、やっぱりサルヴァトーレさんの好みで選んだってわけじゃないんですね」
「……というと?」
「皆が、サルヴァトーレさんの好みについてちょっと盛り上がりまして」
「……なるほど。それは違いますね」
サルヴァトーレは、今度は少し考えてから言葉を続けた。
「あのドレスの方が、今回の目的を達成するために、より適していたというだけのことです」
「どうりで、私には赤は派手だと思ったんです。もっと大人っぽい人向けというか……」
ほっとしたような少し残念なような気持ちで、澪は苦笑した。
その様子を見てサルヴァトーレが少し意外そうな表情を見せた。
「そうでしょうか? 私に脅されても食ってかかるような女性なら、赤もお似合いかと思いますが」
(ん? どういう意味……?)
褒められているのか貶されているのか判別がつかず、釈然としない顔で首を傾げる。
「それに、あの場で埋もれてしまっては意味がありません」
サルヴァトーレはカフェラテを飲み干し、淡々と続ける。
「グレゴリオの目を引く必要がありましたから、その点については事実十分役目を果たすと判断しました」
(それって、目立ったってこと……? それとも……)
澪はその先を考えるのをやめた。
マグカップをことんとテーブルに置くと、サルヴァトーレは澪の資料に視線を向けた。
「ところで、私に何か聞きにきたのではないですか」
本題を思い出して、持ってきた資料を開きながら疑問について伝えた。
教団は今もグラツィアの研究を続けている。
サルヴァトーレは膝の上で手を組み、その報告と仮説を聞いていた。
「……でも若返りの薬や不老不死の薬なんて本当にあるのでしょうか」
澪はページを捲る手を止めて、つぶやいた。そんなおとぎ話のようなものが実在するなんてにわかには信じ難い。
「そう考えるのは当然です。しかし……実際、“彼”は不自然なほど歳を取らない」
サルヴァトーレは、しばらく沈黙した後に記憶を辿るように視線を遠くに移した。
「教団の長、神火公アレッサンドロは何十年もその姿がほぼ変わっていません」
「事実、あり得ないことですが、祖父の代から今まで、ずっとその座に居座り続けているのです」
サルヴァトーレは軽く眉を顰めた。
「それじゃあ、不老不死の薬は既に存在するということですか?」
「いえ、おそらく完成はしていないでしょう」
サルヴァトーレは頭を振った。
「製法がわかれば量産するはず。そうなれば、我々が抵抗できるような状況にはならないでしょうから」
確かに、教団が不老不死の薬なんてものを作れるとしたら、チェネレなどひとたまりもないのは想像に易い。
(完成していないとすると……)
「教団は魔女が作った不老不死の薬の足りない製法を知りたがってる?」
サルヴァトーレが頷く。
「ここまでの情報からすると、貴女が魔女と何らかの関連があり、薬の鍵を握っている——」
一拍置き、付け加えた。
「教団はそう考えているのでしょう」
「やっぱりそうなのかな……」
「まだ解明できていない点はありますが」
私が持っているものといえば、と思い、祖母の手紙を思い返してみる。
「時を止めた島……やっぱり不老不死の薬を指しているのかも、魔女の呪い……」
ふと、ある単語が目に留まった。
「この“『神の炉』……もしかして薬の生成に使うエネルギー源じゃないでしょうか」
「その線もありますね」
「つまり、神の炉の鍵を私が持ってる……のかなぁ……」
そこまで予測してみたが結局仮定の域を超えない。これ以上はまだ情報が足らない。手詰まりのようだ。
澪の様子を察したのか、サルヴァトーレが立ち上がり、扉の方へ向かう。
「今日はこれで十分です。もう遅い、部屋に戻りなさい」
扉を開けて、促されては、これ以上居座るわけにもいかない。澪も資料をまとめて立ち上がった。
「お時間いただき、ありがとうございます。おやすみなさい……」
「ええ、良い夢を」
静かに扉がしまった。
澪は小さな灯りが石壁を照らす薄暗い廊下を歩む。
胸には薄寒さとあたたかさが交互に巡っているような、不思議な心地がしていた。




