21話:甘美なる宴
グラスの縁で弾けた柑橘の皮の香り、磨かれた真鍮のランプ、微かに揺れるシャンデリア。
海辺から、夜の波が砕ける音がかすかに届く。
黒いベルベットのトレイが運ばれてくる。上には契約書。
『東の港の裏利権』——つまりチェネレの資金源がこの夜の賞品。
澪はそのトレイの横にもうひとつの賞品として立っていた。
後ろからは、逃げられないようにマヒトの銃口が背中に突きつけられている。澪は胸元のペンダントをそっと指で押さえた。
(サルヴァトーレさん……どうかお願いします……!!)
グレゴリオは口角を吊り上げて顔を歪ませるように笑った。
「カードは嘘をつかん……が、人間は別だ。さあ、踊ろうじゃないか。若き頭領」
「ええ。リズムはお任せを」
白い手袋をつけたディーラーが淡々とゲーム開始を告げた。
「それでは、ノーリミット・テキサスホールデムを開始いたします。アンティを」
カードがフェルトを滑る音は、潮の匂いに混じってやけに冷たく耳に触れた。
——カードが三枚、花弁のように開かれていく。
グレゴリオが重くチップを落とすたび、金属の音が蛇の舌のように床を撫でた。
サルヴァトーレは時に即座にフォールドし、時に沈黙のまま長い間を置く。
カードが切られるたび、テーブルを囲む空気は重くなっていった。観客たちのグラスの氷が小さく鳴る音さえ、やけに大きく響く。
サルヴァトーレは背筋を伸ばし、涼やかな灰色の瞳を一切揺らさない。
グレゴリオは太い指でカードを弄びながら、口角を吊り上げていた。
「……慎重だな、スピネッリ」
「機を待つのが定石かと……」
そう答えるとサルヴァトーレはウェイターに目配せした。
「水を一杯いただきたい」
それを聞いて、グレゴリオはワイングラスを揺らしながら下品な笑い声を上げた。
「ははっ、酒も飲めないのか? チェネレのボスとあろうものが、ずいぶん臆病じゃないか」
「……チェネレの存続が掛かっている以上、酔って判断が鈍っては困りますので」
「はっ……情けない男だ! ボスがこれではチェネレもたかが知れているな」
明らかな挑発だったが、サルヴァトーレは薄い微笑みを一切崩さない。
二人の前に積み上げられていくチップ。
観客たちは囁き合い、熱に浮かされた視線をテーブルに注ぐ。
そのすぐ背後で——冷たい銃口が澪の背中に押し付けられていた。
恐る恐る振り向くと、マヒトの黒い瞳が澪を射抜く。有無を言わさぬ、暗く冷たい眼差しに寒気を覚えた。
(……マヒトくん……どうしてこんなこと……)
視線を戻すと、サルヴァトーレの後ろで同じように黒服に捉えられていたはずのネッロがいつの間にか姿を消していた。
(……あれ、ネッロ? どこに……?)
背後のマヒトはまだ気付いていないようだ。
(もしかして何か裏で動いてる……のかな)
マヒトに悟られないように自然に視線を戻すと、澪はテーブルでグレゴリオと対峙するサルヴァトーレの様子を伺った。
再びカードが切られる。
グレゴリオの太い指がチップを押し出す。
サルヴァトーレは一瞥しただけで、カードを伏せた。
(……また……!)
そのたびに、サルヴァトーレの前のチップは少しずつ削られていく。
逆に、グレゴリオの前には赤と黒のチップの塔が積み上がっていった。
観客たちがざわめく。
「おいおい、あの坊や、腰が引けてんじゃないか?」
「大物かと思ったが、大したことないな」
(あのサルヴァトーレさんに限ってそんなわけ……。きっと何か策があるんだ)
そう信じようとするも、胸の奥が冷たく縮む。
背後のマヒトの銃口が冷たい。
逃げ道はどこにもなかった。
「スピネッリ。そろそろ怖くなってきたか?」
「ここで勝負を放棄してはどうだ。——お前の命くらいは助けてやらんこともないぞ?」
サルヴァトーレはグラスの水を一口、飲むと、淡く笑みを浮かべ、涼やかに答えた。
「ご忠告、感謝します。しかし——」
伏せられたカードの上に指を添え、彼は静かに目を細める。
「急いで踊っては脚がもつれてしまいます。まだ曲は続いているのですから、今は存分にお楽しみを」
余裕を装う声音。
澪は唇を噛み、必死に祈るように両手を握りしめた。
けれど、チップの差は歴然だった。
サルヴァトーレの前には、頼りないほど小さな山。一方で、グレゴリオの塔は山のように聳えている。
観客たちは興奮に浮かされ、ひそひそと囁き合っていた。
「もう終わりだな」
「スピネッリの負けだ」
グレゴリオは勝った気でいるのか、余裕な表情で手元のグラスを揺らした。
「ははは……最後に喝采を浴びるのは俺だ、坊や」
(……このゲームで負けたら……!)
喉が渇いてひりついていた。心臓の鼓動だけが耳の奥で爆ぜていた。
「——プレイスユアベット」
グレゴリオは大きく息を吐きながら、グラスに口をつけ、グラスの脚を指でなぞる。乱暴にチップを鷲掴みにし、テーブルへ叩きつけた。
勝負を決めに来た。観客が一斉にどよめく。
「コール」
テーブルを挟んだ空気は、いまにも裂けそうに張り詰めていた。
ディーラーが無言でカードをめくる。
——フロップ。三枚のカードが並んだ。
——ターン。四枚目。
観客のざわめきが一段と高くなった。再び、賭け金が卓上でせり上がる。
澪が両手を握りしめながら必死で祈っていると、サルヴァトーレがちらりと澪を見て灰色の目を細めた。
(……え、なに?)
グラスに残った透明な水を、最後の一滴まで飲み干すと、少しだけ乱暴な手つきでグラスを置いた。
「——全く、このままでは終われませんね……」
サルヴァトーレの眼鏡が鈍く光る。
「少々チップが少なすぎるようです。ここで退けば全てを失う。ならば……」
そういうと、スーツのポケットから黒いカードを取り出し、残るチップの前に静かに差し出した。
「どういうつもりだ」
「残りのチップと、現在あるチェネレの資金すべてを賭けさせていただきたい」
「サルヴァトーレさん……!?」
思わず大きな声が出た。冷たい銃口が気にならないくらいに冷や汗が出ている。
「それは……通常、この場では——」
「胴元のご承認があれば、チップと同等の担保として扱えるはず」
「足りなければ、私自身を担保にしていただいても構いません。それとも——」
グレゴリオを睨みつけるように不敵に笑った。
「ここで勝負を降りられますか?」
サルヴァトーレにしては珍しく、感情を滲ませるような挑発だった。
「はっ、大した自信だな、スピネッリ。本気か?」
「二言はないと、先ほど申し上げたはずですよ」
グレゴリオは顔を醜く歪めながら笑った。
「構わん。受けてやる。……だが、逃げ道などないぞ」
獰猛に目を光らせ、目の前にあるチップをすべて押し出した。
「オールインだ」
誰もが息を潜めていた。
ディーラーが最後の一枚を捲る。
——リバー。
シャンデリアの光がカードを照らし、テーブルの上に影を落とす。
グレゴリオは勝ちを確信したように、分厚い手でカードを叩きつけた。
「さあ、これより強い手があるか?」
「ショーダウン——フルハウス」
観客が一斉に沸き立った。
「キングスフルか……!」
「これは強いぞ」
「どう出る、スピネッリ」
「……っ!!」
ルールに疎い澪ですら、観客たちのざわめきから、それが相当強い役なのだとわかった。
恐怖に喉が塞がる。
本当に、ここで終わってしまうのか——
当のサルヴァトーレは空のグラスを指先で弄んでいた。そしてゆっくりと袖口を整えながら腕時計を見た。
その横顔からは何も読み取れない。
焦っているのか。まだ勝算があるのか。あるいは——本当に追い詰められているのか。
澪には分からなかった。
「なんだ。今更、死ぬのが怖くて時間稼ぎとは往生際が悪いぞ」
「いえ……。せっかくなので、スリリングなダンスをクライマックスまで楽しんでいるのです」
相変わらずの涼やかな声音。
「……では、ご期待に添えて——」
そして、サルヴァトーレは静かにカードを広げた。
「——ストレートフラッシュ……!」
ディーラーの声が震えた。
会場が静まり返る。
赤いハートの絵札が揃い、まるで運命の糸を織り上げたかのような美しい並び。
「嘘だろ!?」
「ストレートフラッシュだ!!」
「ありえん!!」
(……嘘!? 勝ったんだ……!)
澪も思わず前のめりになる。
運だけでは説明できない。けれど澪には単なるイカサマとも思えなかった。
グレゴリオの顔から血の気が引いていく。
サルヴァトーレはカードを揃えながら穏やかに微笑んだ。
「お見事でした、卿」
その一言に、グレゴリオの額に青筋が浮いた。
「最後まで楽しませていただきました」
静かな声だった。
灰色の瞳が細められる。
澪はただ、その横顔を見つめ——胸の奥で燃え上がるような熱を、抑えることができなかった。
「……貴様、謀ったな!?」
グレゴリオの厚い指が、握っていたグラスを震わせ、甲高い音を立てて砕け散った。
「いえ、運が良かっただけですよ」
サルヴァトーレは薄く微笑んだ。
「幸運の女神は、どうやら私に微笑んでくれたようです」
「とぼけるな!! こんなふざけた勝負があるものか!!」
「カードは嘘をつきません。そう仰ったのは——貴方です」
グレゴリオが手をあげると黒服の男が二歩、サルヴァトーレの方に近づいた。
同時にマヒトが強く澪を引いた。
「……!?」
慌てて探すも、ネッロの気配は、いまだホールのどこにもない。
「離して!! サルヴァトーレさんが勝ったのに!!」
「ふん……! さすがチェネレの薄汚い蝙蝠男だ。まんまと嵌められるところだった」
額に血管を浮かばせながら、顔を真っ赤にして叫んだ。
「この女はいただく! お前は死ね!!」
グレゴリオは懐から銃を取り出しサルヴァトーレに向けた。
しかし、サルヴァトーレの灰色の瞳は静かだった。
少しだけ憐れむように眉をひそめて、微笑んだ。
「……紳士の遊戯に、無粋は似合わないですよ、グレゴリオ卿」
その瞬間だった。
——ドォォォォォン!!!
突如、背後で爆発音が轟いた。
シャンデリアが揺れ、悲鳴が上がる。
煙と火花が、会場を覆った。
「な、何だ!?」
グレゴリオ、そして幹部たちが狼狽する。
サルヴァトーレは、席から立ち上がると契約書を手に取り破り捨てた。
「では、残念ながら交渉は決裂ということで」
淡々と告げ、踵を返した。
「すぐに迎えが来ます」
そう澪に目配せすると、サルヴァトーレは崩れた天井から落ちる土煙と瓦礫の中を歩み去った。
(えっ、どういう——)
澪が困惑する間も無く、黒い影がよぎった。
煙の中から誰よりも早く飛び出してきたのは、ネッロだった。
——黒服を蹴散らし、混乱する群衆を切り裂くように疾走する。
「澪!!」
焦茶の髪が閃いた。
ネッロは一瞬でマヒトに肉薄し、銃を弾き飛ばす。
その隙に、澪の手首を掴んだ。
「クソっ! 待てっ!!」
マヒトがすぐさま、鋭いナイフ捌きで切りかかる。その動きは素早く、洗練されていて澪を庇うネッロでは防戦一方だった。
「ちっ、やるじゃねえか……」
片腕で澪を庇い、もう片方でナイフを捌きながらでは銃を抜けない。澪を守るため、あえて不利な戦いを選んでいる。
(また私が足手まといになってる……)
澪は唇を噛む。
マヒトの刃は、じわじわとネッロを追い詰めていた。
「大人しく——その女を渡せ」
一瞬、空気が張り詰める。ネッロの動きが止まり、マヒトを睨みつけたその目に、獣のような光が宿る。
「……渡さねえよ」
声は低く、掠れていた。
澪をつかむ腕に、より強く力が込められたのを感じた。
(このままじゃ二人とも怪我じゃ済まない、なんとかしなきゃ)
澪は必死にマヒトに向かって叫びかけた。
「マヒトくん、もうやめて! なんであなたがこんなことしなきゃいけないの!?」
マヒトがハッとして目を見開いた。その一瞬、動きが鈍る。
「澪、ナイス!!」
そう叫ぶや否や——ネッロは澪をぐっと抱き上げる。
「きゃっ!?」
気づいた時には、澪はネッロの腕の中にいた。
(——お姫様抱っこ!?)
後ろから、マヒトの叫び声が響いた。
「しっかり捕まってろよ!!」
瓦礫と混乱の中、バルコニーを飛び出すと、ネッロは力強く地面を蹴り——隣の屋根へと跳躍した。
「っ——!!」
夜の空気が、肌を切った。
ネッロの腕は、恐ろしく強く、温かかった。
「……手ぇ離すなよ」
耳元で、低く響く、柔らかい声。
「……は、はいっ!」
澪は、必死でしがみついた。
ネッロは、屋根伝いに飛び、海を望む崖の端まで辿り着いた。
後ろから、追っ手たちの怒声と銃声が聞こえた。
「行き止まり!? どうしよう……!」
ネッロには一片の迷いもなかった。
「息止めてろ、飛び込むぞ!!」
そう言ってニヤリと笑いかける。
「……!!」
(……この人たちは、本当に……)
無敵だ、と思った。
*
——海に飛び込んだ後、二人は暗い波間をしばらく泳ぎ、磯に上がった。
先に岸壁によじ登ると、ネッロは澪の腕を掴み引っ張り上げた。胸がバクバクして、足もまだ震えている。
岩の上に腰を下ろし二人は上がった息を整えた。
「あーあ、作ってもらったドレスがびしょびしょになっちゃった」
「まったくだ——ん、おい、これ羽織っとけ」
そう言って澪から目を逸らしながらネッロがびしょ濡れのジャケットを差し出した。
「え、それも濡れてるけど」
「ちがう。濡れたドレスじゃ、目のやり場に困るんだよ」
「あ……ごめん!」
ドレスの薄い布が肌に張り付いていることに気づき、慌ててジャケットを受け取り袖を通した。
雲から月が顔を出し、辺りが少し明るくなった。
対岸に先ほどまで、暴れていたカジノの明かりと、煙が見えた。
「はっ、あっちは今頃てんやわんやだろうな」
ネッロが対岸を眺めながら笑った。
「……ふっ、あはは!」
澪は高ぶる気持ちを抑えきれずに、笑い出した。
「すごかった!サルヴァトーレさんもネッロも本当に強いんだね……」
興奮を露わにする。
「そうだろ!」
誇らしげな表情で、ネッロが笑う。
「しかも、今日は澪も最高にカッコよかった」
「え、そうかなぁ……」
「ああ、グレゴリオに啖呵切った時は見惚れたぜ」
「えへへ、あれは必死だっただけ……」
澪は嬉しいような恥ずかしいような気持ちで、ジャケットの裾を絞る。
「なあ、澪。俺たちさ……」
月の光に照らされて、彼の顔が陰影の中に浮かぶ。少しだけ静かな笑み。その意外と端正な横顔に澪の鼓動が妙に速まる。
「うん……?」
「俺たちって——」
そう言って、少し恥ずかしそうに口を尖らせた後、ネッロはニカっと太陽のように明るく笑った。
「最高の友達になれそうだな!」
「……うん」
澪は一瞬だけ遅れて、応えた。
「そうだね!」
つられて笑顔になる。けれど——
(あぁ、私、今、何を期待しちゃったんだろう……)
急に自分が恥ずかしくなり頬に手を当てた。
「……これからもよろしくな!」
そう言って、歯を見せて笑い、澪の肩を軽く叩いた。
「うん、よろしくね」
夜風の中、はにかむ彼の横顔に月の影が落ちてきた。
磯を登り、海岸沿いの道路に出た。
しばらくして、一台の黒い車が二人の前に滑るように停まった。ウインドウが下がる。運転席から、サルヴァトーレが涼しい顔を覗かせた。
「よお、お互い無事だったな」
ネッロがそう言って笑った。
サルヴァトーレは二人を一瞥すると、彼にしては珍しく、心底嫌そうに眉をしかめた。
「……貴方たち、まさかびしょ濡れで私の車に乗るつもりではありませんよね」
澪とネッロは互いに顔を見合わせると、サルヴァトーレに肩をすくめてみせた。




