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ロッサ・ディ・マーレ 〜火山島に燻る魔女の罪〜  作者: 山城すな
第六章

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20話:蛇の罠

 澪は、鏡の前に立ち、落ち着かない気持ちで何度も振り返っていた。


 深い赤のドレスは灯りを受けるたびに滑らかな光をまとい、艶めいていた。


 身体に沿うように仕立てられた生地は細い腰のラインを引き立て、裾へ向かって優雅に流れている。露わになった肩から背中にかけての白い肌が、身体の曲線を際立てる。


 鏡の中にいるのは確かに自分なのに、どこか別人のようにも見える。見慣れたはずの顔さえ少し大人びて見えた。


 気恥ずかしさに、澪は思わず鏡に映った自分から視線を逸らした。


(やっぱり変じゃないかな……)


 もう何度目かも分からない確認をしていると、部屋の扉がノックされた。


「入りますよ」


 サルヴァトーレの声だった。


 続いて扉が開く。先に入ってきたのはネッロだった。


「おぉ……」


 ネッロは開口一番、言葉を失って、澪を眺めた。


 本人は、いつもの開襟シャツとはまるで違う、黒のタキシードを着ていた。けれど蝶ネクタイはすでに取り去られ、シャツの第一ボタンも外されている。


 きちんと着れば上品なはずなのに、ネッロが着るとどこか野性味が残る。それが不思議と似合っていて、澪は妙に感心してしまった。


 その後ろからサルヴァトーレも姿を見せた。


 艶を抑えた淡い銀灰色のタキシード。ウエストがわずかに絞られた無駄のないシルエットは、普段のスーツ姿よりもいっそう洗練されて見える。

 華やかなはずなのに、少しも浮ついていない。まるで、夜の灯りまで味方につけるために仕立てられたようだった。


「……」


 派手ではない。けれど、目を逸らせない。二人の存在感に澪は一瞬、言葉を忘れた。


 その視線に気付いたのか、サルヴァトーレが小さく首を傾げた。


「どうかしましたか?」


「い、いえ」


 慌てて目を逸らした。すると横からネッロが口を開く。


「いや、澪、おまえそのドレス……」


 澪は不安げに振り返る。着られている、と言われると思った。しかし、ネッロはどこか照れたように頭を掻いた。


「すごい似合ってる」


「ほんと?」


「ほんとほんと、なんか澪じゃないみたい」


「えっ」


 澪の顔が引きつる。


「どういう意味!?」


「いや、褒めてる!」


 ネッロが慌てて弁解する。その様子にサルヴァトーレが小さく微笑んだ。そして改めて澪へ視線を向ける。灰色の瞳が静かに細められる。


「本当に、よくお似合いですよ」


 サルヴァトーレが褒めるなんて、きっと何か裏がある、リップサービスに違いない、と澪は自分に言い聞かせた。


「そんな不安そうな顔をしていては勿体ない」


 澪はむず痒い気持ちがして、目を伏せた。


「こういう格好は慣れてなくて……」


「慣れている必要はありません」


 サルヴァトーレはさらりと言った。


「堂々としていれば良いのです。社交界など大抵はハッタリです」


 あっさり断言する。


「自信があるように振る舞う。それだけで案外、本物らしく見えるものです」


(そういうものかなぁ)


 澪は首を傾げる。


「いずれにせよ」


 サルヴァトーレは続ける。


「今夜の貴女は、まるで舞踏会に咲いた赤薔薇のように美しい」


「えっ……!?」


「会場中の視線を奪ってしまうでしょうね」


 その褒め言葉に、澪の鼓動が少しだけ早まる。まるで本当にそう思っているかのような素振りで何気なく言ったようにも聞こえた。


(うっかり信じてしまいそう)


 サルヴァトーレのことだ、裏があるに違いない——と、そう思っていても、勝手に頬が熱くなる。澪は冷静を装おうと、顔を背けた。


「……ありがとうございます」


 なんとかそれだけ返した。


 その姿を見てサルヴァトーレは、一層目を細めた。


「ええ、本当に……。その美しさは、蛇すら、見惚れるほどでしょう」


 *


 車は西地区の北へ向かう、海岸沿いの道を走っていた。


 窓の外には夜の港が見える。波間に浮かぶ灯りが、夜の海に星屑のように散っている。停泊する大型船の影は、闇の中に沈む城のようだった。


 その先で、巨大な建造物が煌々と明かりを灯していた。カジノだ。


「改めて説明しておきましょう」


 隣に座るサルヴァトーレが口を開いた。


「今夜の主催者はグレゴリオ・ヴィペラ」


「北の港を持っている人でしたよね…?」


「正確には支配している人です」


 サルヴァトーレは足を組む。


 グレゴリオ・ヴィペラ卿——かつて島の北西側一帯に領地を持ち、今は北の港を支配する旧家の当主。島では今も、半ば皮肉を込めて「卿」と呼ばれている男だった。


「教団が鉱山資源を輸出する重要拠点です」


「教団の人なんですか?」


「そうです。が、信仰心より金を愛する男です」


 サルヴァトーレは少しだけ肩を竦める。


「ギャンブル好きで有名ですね。このカジノも私財で建てたものです」


 窓の向こうの建物を眺める。確かに趣味が悪いほど豪華だった。


「今回は教団が欲しがっている貴女をどうにかして我々から奪おうと、企んでいるのでしょう」


「……私?」


「ええ」


 サルヴァトーレは平然と言った。


「最近は、教団上層部では随分高値が付いているようですから」


(言い方……!)


 澪は思わず顔をしかめた。ネッロが横で笑う。


「値上がりしてるらしいぞ」


「嬉しくないよ」


「そりゃそうだよな」


 少しだけ緊張がほぐれた。だが胸の奥の不安は消えない。


 教団の金の亡者——グレゴリオ。その男が仕掛けた罠かもしれない交渉。


 今夜は間違いなく危険だった。


 *


 カジノの正面入口に着き、車が止まる。係員がドアを開くと、夜風が肌を撫でた。


 澪は慣れないスカートが広がらないように気をつけながら一歩踏み出した。その瞬間、ヒールが石畳の継ぎ目に引っ掛かった。


「あっ」


 身体が傾いた。


(しまった、早速やらかした!)


 そう思った。しかし、隣から伸ばされた腕が素早く腰に回り、ぐっと引き寄せられる。


 澪は驚いて顔を上げると、目の前にサルヴァトーレがいた。


「お気を付けください」


「……す、すみません」


「ヒールは慣れていませんか?」


 低く穏やかな声。思ったよりもずっと近い距離に思わず身を硬くしながら、澪は小さく頷く。


「こんなに高いものは、ほとんど履いたことなくて」


「なるほど」


 サルヴァトーレは一度だけ頷くと、自然な動作で腕を差し出す。


「では今夜は転ばないように」


 澪はその腕を見つめる。


「エスコートしましょう」


 当たり前のような口調だった。断る理由など最初から存在しないかのように。澪はそっとその腕を取った。


(なんだろう、ちょっと情けない……)


 呑気にそんなことを考えている自分が少しだけ可笑しかった。


 建物に入ると、豪奢な会場で裕福そうな人々が会話や賭け事を楽しんでいる様子が目に入った。


 豪華なドレスのご婦人に、恰幅のいい男性。シャンパンを銀の盆に乗せたウェイターたちが歩き回っている。


 初めて見る社交界の光景に、澪は思わず尻込みをしてしまう。


「……あの、本当に……私、隣に立っているだけでいいんでしょうか?」


 澪は声を潜めてサルヴァトーレに尋ねた。サルヴァトーレは澪と腕を組み、視線は前方に向けたまま小さな声で答えた。


「ええ。ただ、私やネッロから離れないようにだけ——それだけは注意してください」


「……はい……」


 とは言え、ここは教団の本拠地。不安が胸の奥で広がっていく。


「あーあ、俺も澪のことエスコートしたかったなぁ」


 すぐ後ろを歩いていたネッロが、口を尖らせながら間に割り込もうとしたときだった。


 豪奢なシャンデリアの下、ざわめきと笑い声に満ちたホールが、一瞬で冷たい空気を孕む。


 黒服の護衛たちを従え、蛇というより、ガマガエルのようにべったりとした笑みを浮かべた男が姿を現した。


 サルヴァトーレは一歩前に出て、会釈した。その仕草は舞踏会の挨拶のように優雅で、しかし足取りには一分の隙もなかった。


「この度はご招待いただき、誠にありがとうございます——グレゴリオ卿」


 名を告げた声は穏やかだった。けれど、その奥には鋼のような緊張が潜んでいる。


(……この人が、グレゴリオ卿)


「……久しぶりだな。シニョール・スピネッリ」


 濁った声が喉を這い上がり、油のように耳にまとわりつく。口元の笑みは柔和だが、その目には一滴の温度もなかった。


「ええ。お変わりないようで、何よりです」


「まさか、慎重な貴殿に足を運んでいただけるとはな。これは光栄だ」


 互いに笑みを交わす二人。

 けれど、その間に流れるものは礼節ではない。薄い絹の下に毒針を隠したような、静かな探り合いだった。


 サルヴァトーレは、そばを通った給仕の盆からグラスをひとつ取る。


「ところで、卿」


 グラスを口元へ運ぶことはなく、揺れる赤を静かに眺めながら、何気ない調子で続けた。


「以前お会いした時よりも、いくらか若々しくいらっしゃる。巷では“若返りの薬”なるものが流行っているそうですが——まさか、卿もお試しに?」


 一瞬、グレゴリオの笑みが、わずかに強張った。だが次の瞬間には、喉の奥で濁った笑いを漏らす。


「ぬかせ。女どもなら、肌艶のひとつ戻っただけで涙を流して喜ぶだろうがな」


 湿った視線が、ホールに集う貴婦人たちを撫でるように流れた。


「我々のように、この島を動かす立場の者が、それだけで満足できると思うか?」


 サルヴァトーレは微笑を崩さない。


「では、卿がお望みなのは若さではなく——時間そのもの、ということでしょうか」


 グレゴリオの目が、ぬらりと光った。


「さすがはスピネッリ。言葉の選び方が上手い」


「恐れ入ります」


「だが、あいにく貴様ら灰の犬に語って聞かせるほど、私は親切ではない」


 その言葉に、ネッロの気配がわずかに尖った。だがサルヴァトーレは、変わらぬ様子でグラスを指先で弄んでいる。


「それは残念です。卿のご高説を伺えるものと、楽しみにしていたのですが」


「ふん」


 グレゴリオは鼻で笑う。


「今夜はせいぜい楽しんでいくといい。もっとも——」


 その濁った目が、澪の方へ滑った。


「この屋敷で何を見ても、後悔しないことだ」


 澪はぞくりとした。その時だった。


「——騒ぐな」


 いつの間にか背後に立っていた男が囁いた。


 冷たい声。背後に走る殺気。

 澪の背中に押し当てられた硬い感触に、血の気が引いていく。


(……銃……!?)


 振り返った瞬間、視界に飛び込んできたのは見覚えのある黒髪の青年。


「……マヒトくん!」


 マヒトは表情を変えぬまま銃を構え、他の黒服たちも一斉に三人へ銃口を向ける。


 きらびやかな光の下で、宴のざわめきが遠のいた。背後から突きつけられた銃口の冷たさに、澪の背筋が強張る。


 見ると、ネッロが険しい顔をしていた。

 今にも飛びかかろうと身を沈めた——が、サルヴァトーレの鋭い瞳が横から射抜いた。それだけで、ネッロは足を止める。


「……これは、どういうつもりですか、卿」


「わからぬほど愚鈍ではあるまい」


「ほう……これが招待客への“歓迎”とは。実に意表を突かれました」


「たわけ。その女を寄越せば、お前の命くらいは助けてやろう」


 サルヴァトーレは一歩も引かない。笑みを湛えたまま、だがその瞳は鋭さを増していく。


「……理解に苦しみますね。なぜ、たかが小娘一人に、卿がそこまで執着されるのか」


「くどいぞ、スピネッリ。渡さぬなら今ここで貴様らを殺して奪うまでだ」


 黒服たちの銃口が一斉にこちらを狙い定めた。ネッロが前に出る。重い空気が爆ぜる直前。


(……まずい。このままじゃ、全員殺される!)


 澪は、鋭く視線を走らせた。


 ——グレゴリオ卿。金の亡者、そして無類のギャンブル狂。

 車内で聞いたサルヴァトーレの言葉を、必死に頭の中で繋げる。


(だったら……いちかばちか!)


 黒服たちが引き金に指をかける音に、サルヴァトーレが口を開きかけた、その瞬間。


「あのっ——!!」


 響く声に、場の視線が一斉に集まる。


 澪は震え出しそうな脚に力を込めて一歩踏み出した。声を張り、堂々とグレゴリオの目を見た。


「……ここは、穏便に。いかがでしょう、卿。ゲームで決めるというのは」


 ざわり、と黒服たちが動揺する。状況からしても、場違いな提案だ。


 だが、澪の声と瞳は揺らがなかった。グレゴリオにさらに一歩近づいて、演技を続けた。


「ご自身のカジノで、客人を沸かせる大勝負。その賞品が“私”なら、格好の余興になるのではありませんか?」


(もう、こうなったら、このドレスを信じるしかない!)


 澪は羞恥心を投げ捨てて、グレゴリオに向かって挑発的に微笑んで見せた。


 スリットから覗く脚に、いくつもの視線が集まるのがわかった。恥ずかしさで逃げ出したくなる。それでも澪は、赤いドレスの裾を震える指で押さえ、挑発的に微笑んでみせた。


 一瞬、空気が固まった。

 澪の鼓動は今にも破裂しそうなほど速い。微笑んだ唇の端が引き攣らないように必死で耐える。


 しばらく澪を眺めていたあと、グレゴリオの口角がにやりと吊り上がる。


「ほぉ……面白い小娘だ」


 空気が変わった。


「だが——それでは私になんのメリットもない。面白い提案ではあるが、そのまま飲むわけにはいかない」


 低く笑うようなグレゴリオの言葉に、冷や汗が伝った。


(どうする、ここからどう切り返したら——)


「……では、これではいかがでしょう」


 隣から涼しい声が割り込んできた。サルヴァトーレだった。


「“東の港の裏の利権”——つまりチェネレの資金源を賭けるというのは」


 その声に、澪は驚いた。

 グレゴリオの目の色が変わる。


「いくらだ」


「ヴィペラ家から見たら微々たるものではありますが、東の港ではそれなりの額を納めていただいております」


 サルヴァトーレの瞳が銀色に光った。


「それに、今ここで私を殺すより後々の損失が少なくなるかと」


 低く、よどみなく言葉を続ける。


「チェネレは掟と忠義に厚い者が多くおりますので」


「……ふむ」


 一瞬、グレゴリオは顔を緩めた。

 その場にざわめきが走った。


 サルヴァトーレは微笑を崩さず、まっすぐ相手を見据える。


「貴方が勝てば、この娘も、そして実質チェネレをも潰すことができる。——それで、十分では?」


「……ふん。言ったな、スピネッリ?」


「ええ。無論、チェネレの頭領に二言はありません——嘘は掟を破ることになりますので」


「憎たらしい貴様に吠え面をかかせられる機会も、そうありはしまい」


 グレゴリオは頬の皺を一層歪めていやらしく笑った。


「いいだろう、その賭けに乗ってやる」


「ありがとうございます」


 澪の胸がどくんと高鳴る。


 自分の無茶な提案が、あの人の声に乗った瞬間——本当に、現実の“勝負”へと変わったのだ。


 ざわめく会場を見渡すと、横でネッロがおいおいと呆れた顔をしていた。


 澪は横目でサルヴァトーレを見ながら、小声で尋ねた。


「……勝算はあるんですか?」


 するとサルヴァトーレは、少しだけ驚いたような顔をしてみせた。


「勝算……?」


 とぼけたように薄く微笑む。


「このゲーム、貴女が提案してくれたのでしょう」


「……えっ!?」


 澪の不安そうな視線を置き去りにしたまま、彼の横顔はすぐにいつも通りの静かな色に戻る。


 澪の胸はまだざわついていたが、もう引き返せなかった。


(……本当に大丈夫かな……)


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