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ロッサ・ディ・マーレ 〜火山島に燻る魔女の罪〜  作者: 山城すな
第五章

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18話:萌芽

 チェネレの屋敷へ戻った頃には、澪はすっかり疲れ果てていた。


 市場で買った食材を抱えて戻り、アンナたちに指示されるまま野菜を切り、魚を捌き、皿を並べ、鍋をかき混ぜる。


「澪ちゃん、その玉ねぎ!」


「はい!」


「違う違う、そっちじゃない!」


「えっ!?」


「それはデザート!」


「ご、ごめんなさい!」


 厨房は戦場だった。教団やチェネレの争いよりも、ある意味では恐ろしい。ようやく一息ついた頃には、澪の足は棒のようになっていた。


「つ、疲れた……」


 椅子に腰を下ろした瞬間、アンナが笑う。


「何言ってんだい。まだ本番はこれからだよ」


 その言葉通りだった。


 夕方になると食堂は賑わい始める。


 ネッロの回復祝いという体裁ではあったが、チェネレの構成員たちだけでなく、その家族も顔を出してちょっとしたパーティになっていた。


 子供たちが走り回り、大人たちが酒を酌み交わし、誰かが大声で笑う。アジトというより、まるで親戚の集まりだった。


「エンリコのところのお嬢ちゃん、まだ熱が下がらないそうよ」


「かわいそうにねぇ」


「しばらく奥さんと実家に帰ってるそうよ」


「最近、エンリコも柄になく黙り込む時があって……」


「奥さんも心配だろうね……」


 食堂の片隅では、アンナたち女性陣が小声で話していた。


(エンリコさんも寂しいだろうな)


 以前エンリコから聞いた奥さん自慢を思い出す。あの愛妻家のエンリコのことだ。きっと早く帰ってきて欲しいに違いない。


 そんな噂話や世間話が飛び交う空気の中で、澪の胸の奥には、まだ重いものが残っていた。


 マヒト——あの焼印だらけの腕。名前を呼んだ時、揺れた瞳。首筋に突きつけられた冷たいナイフの感触。そして、思い出した幼い日の記憶——考えれば考えるほど分からなくなる。


「……なんでなのかな」


 ぼんやりと皿を見つめていると、


「理不尽だろ!!」


 突然、食堂中に響く声がした。


 澪は我にかえり、声の方を見るとネッロがテーブルを前に駄々をこねていた。


「こんなご馳走が目の前に並んでんだぞ!?」


 テーブルには肉料理、魚料理、煮込み料理がずらりと並んでいる。しかし、ネッロの前にあるのは、湯気の立つ薄味のリゾットだけだった。


「怪我人だから仕方ないでしょ」


 アンナが即答する。


「俺の回復祝いなのに!」


「消化にいいものだけ、ってレオに言われたでしょ」


「すっかり元気なんだぞ!」


「昨日まで安静だったじゃないか」


「昨日まではな!」


 食堂中から笑いが起こったが、ネッロは不満そうに頬を膨らませた。


 その数分後。誰も見ていないと思ったのか、ネッロがそっと隣の皿から肉を摘まみ上げたところを目撃した。


 ぱくり。すぐにネッロの目が見開かれる。


「うっま……」


 感動したような顔だった。


「ネッロ……?」


「っ!?」


 澪と目が合う。現行犯だった。


「食べていいの?」


「だって、回復祝いだぞ……!」


 ネッロは誤魔化すように咳払いをする。


「そういやこれ、お前味付けしたって本当か?」


「少しだけだけど」


「めちゃくちゃ美味いじゃん」


 少年みたいな笑顔だった。澪は思わず笑ってしまう。


「お腹痛くなるかもしれないよ」


「大丈夫だろ」


「レオ先生に怒られるよ」


「見つからなきゃ——」


 ネッロの表情が固まった。


「やばい」


「え?」


「レオが来る、なんでもいい気を逸らしてくれ!」


「待って」


「頼む」


 無理やり背中を押された。


「ちょっ」


 半ば追い出されるように歩かされる。その先にはレオがいた。いつもの無愛想な顔で食事をしている。


「……」


 二人の間が気まずい空気で満たされていく。しかし押し出された以上、戻るわけにもいかない。


「レ、レオ先生……?」


「なんだ」


「前に、処置の時に言ってましたよね。血が出たらまず圧迫しろって。……役に立ちました」


 レオはちらりとこちらを見る。


「そうか」


 それだけだった。再びフリットを口に放り込んでいる。


(会話終了!? 早い、早すぎる……!)


 澪は慌てて次の話題を探した。


「あ、そうだ」


 ちょうどいい話題があったことを思い出す。医者ならこの話題に食いつくかもしれない。


「今、調べてるグラツィアの研究ノートなんですけど、実は鉱山病の薬を作ってたみたいで……」


 レオの眉が僅かに動いた。


「もしよかったら見てもらえませんか?」


「断る」


 即答だった。


「えっ」


「俺は医者だ」


 レオはスープを口へ運ぶ。


「お前たちの厄介ごとには首を突っ込まない」


 あまりにも華麗な拒否だった。


 澪があわてて説得しようと次の言葉を探していると、レオの視線が横へ流れた。


 そして固まる。


 レオはネッロが肉料理を食べているのを見つけてしまった。


「おい」


 ドスの効いた低い声に、ネッロが凍り付く。


「げ」


「何を食ってる」


「いや、これは——」


「ネッロ」


「待て、話せば分かる」


「出せ」


「澪!! 助け——」


 悲鳴が食堂に響いた。周囲から大爆笑が起こる。澪が慌てていると、背後から聞き慣れた声で呼ばれた。


「澪!」


 振り向くとエンリコが立っていた。


「サルヴァトーレが呼んでる。調査の件を報告しろってさ」


 澪の胸が小さく波立った。整理しなければならないことが、山ほどある。


「……分かりました」


 賑やかな食堂を振り返る。

 その光景を胸に刻むように見つめてから、澪は静かに席を立った。


 *


 食堂を後にして、澪は一人、屋敷の執務室へと続く廊下を歩いていた。笑い声が遠ざかっていく。


 執務室の扉の前で一度、深呼吸をした。


 前回ここへ来た時のことを思い出した——トニオの件。感情のままサルヴァトーレを責めて、何も言い返せなくなった。正直、あまり良い思い出ではない。


 それでも今日は逃げるつもりはなかった。軽く扉を叩く。


「失礼します」


「どうぞ」


 静かな声が返ってくる。


 扉を一枚隔てるだけで、空気は別世界のようだった。


 室内に入ると、サルヴァトーレは机の奥で書類を広げていた。ランプの明かりに照らされた横顔は相変わらず隙がない。


 灰色の瞳が滑るように澪に向けられた。


「報告をお願いします」


「はい」


 澪はサルヴァトーレに促され向かいの椅子に腰掛けた。そして今まで調べてきたことを整理しながら話し始める。


 西地区で聞いた噂。

 市場で襲ってきた男の言葉。

 教団が自分を“魔女の再来”として恐れていること。

 そして処刑しようとしているらしいこと——


 サルヴァトーレは途中で一度も口を挟まない。ただ静かに聞いていた。


「その魔女は実在した人物のようです」


 澪は続ける。


「魔女の名前はグラツィア」


「グラツィア……ですか」


「研究者だったようで、鉱山病に効く薬を作ろうとしていたみたいなんです」


 そこでサルヴァトーレの視線が僅かに上がった。


「それで——」


 澪は研究ノートについても説明した。


 鉱山病。

 火山性物質。

 薬の実験。

 老化を抑制する効果。

 地熱を利用した神の炉——


 断片的な情報をひとつずつ繋いでいく。話し終わる頃には、自分でも驚くほど長い報告になっていた。


 しばらくして、サルヴァトーレはゆっくりと息を吐き、聞こえないほど小さな声でつぶやいた。


「まさか……ほんとうに……」


 口角がほんのわずかに上がった。だがそれは笑みというよりも、期待と驚きを孕んだ表情だった。しかし、それは一瞬のことで、すぐにいつもの薄い微笑みに変わる。


「よく調べましたね」


 穏やかな声色。


「正直、ここまで辿り着けるとは思っていませんでした」


 澪は眉をぴくりとさせた。


(それって、もしかして試されてたってこと?)


 どこまで知っていて、自分に調べさせていたのだろう。サルヴァトーレは気にした様子もなく続けた。


「それで、肝心の貴女と魔女の繋がりについて、何か心当たりは?」


 指を組む。


「ありません」


 澪は首を振った。


「魔女の話はおばあちゃんの遺言にありましたけど……」


 ふと考える。おばあちゃんの顔が浮かんだ。


「私、おばあちゃんの若い頃の話ってほとんど知らないんです」


 そう言ってから少しだけ苦笑した。


(穏やかそうに微笑んでいつもはぐらかされたっけ……)


「何が好きだったとか、どんな癖があったとかは知ってるんですけど」


「昔どこで何してたのかは最後まで教えてくれなかったな……」


 澪が話し終わるまで、サルヴァトーレは黙って話を聞いていた。


「そのお祖母様の名前は?」


白石(しらいし)礼奈(れな)です。神坂は私の父方の苗字で……」


 サルヴァトーレは少しだけ眉を寄せた。


「……レナ……シライシ」


 記憶を探るように、一度復唱する。しかし数秒後軽く頭を横に振りながら言った。


「少なくとも私の知る記録にはありませんね」


 サルヴァトーレは少し考え込んだ後、別の話題に切り替えた。


「では薬について思い当たる節は?」


 指先が、机の上でぴたりと止まった。その空気に澪の身体に力が入る。


「いえ、全然……」


 澪は不安を逃すように首元のペンダントに触れた。


「あ」


 その拍子に思い出す。

 ——赤い石のペンダント。


 細い鎖を引き出し、サルヴァトーレの方に差し出した。


「そういえば、研究ノートの近くにこれと同じ石がありました」


 サルヴァトーレが石を見つめる。


「これは……」


 細い指先が顎に触れ、少しだけ頭を傾げた。


「ロードナイト……いや」


 数秒考えた後、表情が僅かに変わった。


「……なるほど、辰砂ですか」


「辰砂……」


 澪は記憶の底を探るようにその言葉を繰り返した。


「たしか、古代中国では不老不死の霊薬に使われていましたよね。錬金術めいた伝承とも結びつけられていたはず……」


「ええ、硫化水銀の鉱物です。水銀ですから、強い毒性を持っています」


 澪はぎょっとしてペンダントを肌から離した。


「常温ではさほど問題ありません」


 澪はほっとしてペンダントを胸元に戻した。サルヴァトーレはしばらく考え込んでいたが、やがて視線を上げた。


「町で薬の噂は聞きましたね?」


(薬といえば、闇市で没収されてた違法薬物……それと巷で噂の——)


「『若返りの薬』……!!」


 澪の中でふたつのものが繋がり始めた。


「グラツィアの研究には細胞の老化を抑える効果の記載があった。つまり、若返りの効果……!?」


 サルヴァトーレがゆっくりと頷いた。


「ここからは推測ですが」


 淡々と続ける。


「魔女が研究していた薬と、教団周辺で囁かれている若返りの薬の噂が無関係とは思えません」


 その言葉に澪は息を飲んだ。


「少なくとも同じ系統の研究である可能性があります」


 彼はしばらく、答えそのものよりも、澪が何を隠しているかを測るように黙っていた。


「貴女が薬に関する秘密を握っている、と思われている可能性もあります」


 澪はサルヴァトーレを探るようにじっと見つめ返した。


(もしかして、チェネレも『若返りの薬』を狙ってる……?)


 しかし、サルヴァトーレは何事もなかったように話を締めた。


「今後はより深く教団側を探る必要がありそうですね」


 柔らかく微笑むと、灰色の瞳を鋭く光らせた。


「もうひとつ。『マヒト』という名でしたか」


 澪はどきりとした。


「貴女が接触した教団の刺客です」


 アンナから報告が上がったのだろうか。それにしても、名前まで。


「昔の知人か何かは知るところではありません。が、チェネレにいる以上、妙な真似をしないように」


 脅すような言葉に、思わずノートの角を握りしめる。サルヴァトーレは口元に笑みを浮かべていたがその目は笑っていなかった。


 トニオのことが頭をよぎる。サルヴァトーレが言っていることはそういうことだ。


「ですが、本当によくやっていますよ」


 サルヴァトーレは、背もたれに寄りかかると手を組んだ。話はこれで終わり、という合図だった。


「引き続き、良い取引が続けられるよう期待しています」


「……あの」


 澪は勇気を出して口を開いた。


「私からも、ひとつお願いがあります」


 サルヴァトーレが答える前に続ける。


「ネッロのことなんですけど」


 空気が少し変わった。


「私が甘かったせいで怪我をさせてしまいました」


 サルヴァトーレは特に驚かなかった。まるですべて想定内だとでもいうように言った。


「貴女が無事だったなら良いではないですか」


 そしてあっさりと続けた。


「それが彼の仕事です」


 澪は即座に答えた。


「良くないです」


 沈黙が執務室に落ちた。


「ネッロは道具じゃありません」


 サルヴァトーレの眉がほんの僅かに動く。


「人間です」


 再び静寂が落ちた。


 サルヴァトーレは視線を伏せる。まるで嘲笑するかのように、軽く息を吐いた。そしてゆっくり顔を上げる。


「それで?」


 低い声。静かな圧力。あの日と同じだ。また感情論を語るのか、と問うような声音。

 だが、澪は目を逸らさなかった。


「守られるだけは嫌なんです」


 サルヴァトーレを真っ直ぐ見据える。


「私にも銃の携帯を許可してください」


 一瞬だけ、サルヴァトーレの表情が揺れる。そして組んでいた手をほどいた。顎に指を添え、考えるような仕草をして見せる。


「なるほど、殊勝な心掛けですね」


 しかし、答えは明確だった。


「却下です、許可できません」


 少しだけ口角を上げ、困ったような顔を作る。しかし目は笑っていなかった。


「貴女がその銃を使って私やネッロを撃ち、逃亡しないという保証がありませんので」


 静かな声。言い返せない。事実だった。


 澪はしばらく黙っていたが、やがて小さく頭を下げた。


「……わかりました」


 それ以上は食い下がらない。立ち上がり、扉へ向かう。

 扉の取っ手に手をかけたところで足を止めた。澪は振り返り、少し迷ってから口を開く。


「あの……」


 サルヴァトーレが視線を向ける。


「あなたがネッロのことを道具だと思っていたとしても」


 澪はそこでほんの少しだけ微笑んだ。


「ネッロは、あなたのことすごく大切に思ってますよ」


 そこまで言い切って、返事を待たず扉を開いた。


「では失礼します」


 扉が閉まり、静寂が執務室に落ちる。部屋には時計の音だけが残った。


 サルヴァトーレはしばらく動かなかった。


 やがて椅子にもたれかかり、目を閉じる。そして誰にも聞こえないほど小さく、長い息を吐いた。


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