18話:萌芽
チェネレの屋敷へ戻った頃には、澪はすっかり疲れ果てていた。
市場で買った食材を抱えて戻り、アンナたちに指示されるまま野菜を切り、魚を捌き、皿を並べ、鍋をかき混ぜる。
「澪ちゃん、その玉ねぎ!」
「はい!」
「違う違う、そっちじゃない!」
「えっ!?」
「それはデザート!」
「ご、ごめんなさい!」
厨房は戦場だった。教団やチェネレの争いよりも、ある意味では恐ろしい。ようやく一息ついた頃には、澪の足は棒のようになっていた。
「つ、疲れた……」
椅子に腰を下ろした瞬間、アンナが笑う。
「何言ってんだい。まだ本番はこれからだよ」
その言葉通りだった。
夕方になると食堂は賑わい始める。
ネッロの回復祝いという体裁ではあったが、チェネレの構成員たちだけでなく、その家族も顔を出してちょっとしたパーティになっていた。
子供たちが走り回り、大人たちが酒を酌み交わし、誰かが大声で笑う。アジトというより、まるで親戚の集まりだった。
「エンリコのところのお嬢ちゃん、まだ熱が下がらないそうよ」
「かわいそうにねぇ」
「しばらく奥さんと実家に帰ってるそうよ」
「最近、エンリコも柄になく黙り込む時があって……」
「奥さんも心配だろうね……」
食堂の片隅では、アンナたち女性陣が小声で話していた。
(エンリコさんも寂しいだろうな)
以前エンリコから聞いた奥さん自慢を思い出す。あの愛妻家のエンリコのことだ。きっと早く帰ってきて欲しいに違いない。
そんな噂話や世間話が飛び交う空気の中で、澪の胸の奥には、まだ重いものが残っていた。
マヒト——あの焼印だらけの腕。名前を呼んだ時、揺れた瞳。首筋に突きつけられた冷たいナイフの感触。そして、思い出した幼い日の記憶——考えれば考えるほど分からなくなる。
「……なんでなのかな」
ぼんやりと皿を見つめていると、
「理不尽だろ!!」
突然、食堂中に響く声がした。
澪は我にかえり、声の方を見るとネッロがテーブルを前に駄々をこねていた。
「こんなご馳走が目の前に並んでんだぞ!?」
テーブルには肉料理、魚料理、煮込み料理がずらりと並んでいる。しかし、ネッロの前にあるのは、湯気の立つ薄味のリゾットだけだった。
「怪我人だから仕方ないでしょ」
アンナが即答する。
「俺の回復祝いなのに!」
「消化にいいものだけ、ってレオに言われたでしょ」
「すっかり元気なんだぞ!」
「昨日まで安静だったじゃないか」
「昨日まではな!」
食堂中から笑いが起こったが、ネッロは不満そうに頬を膨らませた。
その数分後。誰も見ていないと思ったのか、ネッロがそっと隣の皿から肉を摘まみ上げたところを目撃した。
ぱくり。すぐにネッロの目が見開かれる。
「うっま……」
感動したような顔だった。
「ネッロ……?」
「っ!?」
澪と目が合う。現行犯だった。
「食べていいの?」
「だって、回復祝いだぞ……!」
ネッロは誤魔化すように咳払いをする。
「そういやこれ、お前味付けしたって本当か?」
「少しだけだけど」
「めちゃくちゃ美味いじゃん」
少年みたいな笑顔だった。澪は思わず笑ってしまう。
「お腹痛くなるかもしれないよ」
「大丈夫だろ」
「レオ先生に怒られるよ」
「見つからなきゃ——」
ネッロの表情が固まった。
「やばい」
「え?」
「レオが来る、なんでもいい気を逸らしてくれ!」
「待って」
「頼む」
無理やり背中を押された。
「ちょっ」
半ば追い出されるように歩かされる。その先にはレオがいた。いつもの無愛想な顔で食事をしている。
「……」
二人の間が気まずい空気で満たされていく。しかし押し出された以上、戻るわけにもいかない。
「レ、レオ先生……?」
「なんだ」
「前に、処置の時に言ってましたよね。血が出たらまず圧迫しろって。……役に立ちました」
レオはちらりとこちらを見る。
「そうか」
それだけだった。再びフリットを口に放り込んでいる。
(会話終了!? 早い、早すぎる……!)
澪は慌てて次の話題を探した。
「あ、そうだ」
ちょうどいい話題があったことを思い出す。医者ならこの話題に食いつくかもしれない。
「今、調べてるグラツィアの研究ノートなんですけど、実は鉱山病の薬を作ってたみたいで……」
レオの眉が僅かに動いた。
「もしよかったら見てもらえませんか?」
「断る」
即答だった。
「えっ」
「俺は医者だ」
レオはスープを口へ運ぶ。
「お前たちの厄介ごとには首を突っ込まない」
あまりにも華麗な拒否だった。
澪があわてて説得しようと次の言葉を探していると、レオの視線が横へ流れた。
そして固まる。
レオはネッロが肉料理を食べているのを見つけてしまった。
「おい」
ドスの効いた低い声に、ネッロが凍り付く。
「げ」
「何を食ってる」
「いや、これは——」
「ネッロ」
「待て、話せば分かる」
「出せ」
「澪!! 助け——」
悲鳴が食堂に響いた。周囲から大爆笑が起こる。澪が慌てていると、背後から聞き慣れた声で呼ばれた。
「澪!」
振り向くとエンリコが立っていた。
「サルヴァトーレが呼んでる。調査の件を報告しろってさ」
澪の胸が小さく波立った。整理しなければならないことが、山ほどある。
「……分かりました」
賑やかな食堂を振り返る。
その光景を胸に刻むように見つめてから、澪は静かに席を立った。
*
食堂を後にして、澪は一人、屋敷の執務室へと続く廊下を歩いていた。笑い声が遠ざかっていく。
執務室の扉の前で一度、深呼吸をした。
前回ここへ来た時のことを思い出した——トニオの件。感情のままサルヴァトーレを責めて、何も言い返せなくなった。正直、あまり良い思い出ではない。
それでも今日は逃げるつもりはなかった。軽く扉を叩く。
「失礼します」
「どうぞ」
静かな声が返ってくる。
扉を一枚隔てるだけで、空気は別世界のようだった。
室内に入ると、サルヴァトーレは机の奥で書類を広げていた。ランプの明かりに照らされた横顔は相変わらず隙がない。
灰色の瞳が滑るように澪に向けられた。
「報告をお願いします」
「はい」
澪はサルヴァトーレに促され向かいの椅子に腰掛けた。そして今まで調べてきたことを整理しながら話し始める。
西地区で聞いた噂。
市場で襲ってきた男の言葉。
教団が自分を“魔女の再来”として恐れていること。
そして処刑しようとしているらしいこと——
サルヴァトーレは途中で一度も口を挟まない。ただ静かに聞いていた。
「その魔女は実在した人物のようです」
澪は続ける。
「魔女の名前はグラツィア」
「グラツィア……ですか」
「研究者だったようで、鉱山病に効く薬を作ろうとしていたみたいなんです」
そこでサルヴァトーレの視線が僅かに上がった。
「それで——」
澪は研究ノートについても説明した。
鉱山病。
火山性物質。
薬の実験。
老化を抑制する効果。
地熱を利用した神の炉——
断片的な情報をひとつずつ繋いでいく。話し終わる頃には、自分でも驚くほど長い報告になっていた。
しばらくして、サルヴァトーレはゆっくりと息を吐き、聞こえないほど小さな声でつぶやいた。
「まさか……ほんとうに……」
口角がほんのわずかに上がった。だがそれは笑みというよりも、期待と驚きを孕んだ表情だった。しかし、それは一瞬のことで、すぐにいつもの薄い微笑みに変わる。
「よく調べましたね」
穏やかな声色。
「正直、ここまで辿り着けるとは思っていませんでした」
澪は眉をぴくりとさせた。
(それって、もしかして試されてたってこと?)
どこまで知っていて、自分に調べさせていたのだろう。サルヴァトーレは気にした様子もなく続けた。
「それで、肝心の貴女と魔女の繋がりについて、何か心当たりは?」
指を組む。
「ありません」
澪は首を振った。
「魔女の話はおばあちゃんの遺言にありましたけど……」
ふと考える。おばあちゃんの顔が浮かんだ。
「私、おばあちゃんの若い頃の話ってほとんど知らないんです」
そう言ってから少しだけ苦笑した。
(穏やかそうに微笑んでいつもはぐらかされたっけ……)
「何が好きだったとか、どんな癖があったとかは知ってるんですけど」
「昔どこで何してたのかは最後まで教えてくれなかったな……」
澪が話し終わるまで、サルヴァトーレは黙って話を聞いていた。
「そのお祖母様の名前は?」
「白石礼奈です。神坂は私の父方の苗字で……」
サルヴァトーレは少しだけ眉を寄せた。
「……レナ……シライシ」
記憶を探るように、一度復唱する。しかし数秒後軽く頭を横に振りながら言った。
「少なくとも私の知る記録にはありませんね」
サルヴァトーレは少し考え込んだ後、別の話題に切り替えた。
「では薬について思い当たる節は?」
指先が、机の上でぴたりと止まった。その空気に澪の身体に力が入る。
「いえ、全然……」
澪は不安を逃すように首元のペンダントに触れた。
「あ」
その拍子に思い出す。
——赤い石のペンダント。
細い鎖を引き出し、サルヴァトーレの方に差し出した。
「そういえば、研究ノートの近くにこれと同じ石がありました」
サルヴァトーレが石を見つめる。
「これは……」
細い指先が顎に触れ、少しだけ頭を傾げた。
「ロードナイト……いや」
数秒考えた後、表情が僅かに変わった。
「……なるほど、辰砂ですか」
「辰砂……」
澪は記憶の底を探るようにその言葉を繰り返した。
「たしか、古代中国では不老不死の霊薬に使われていましたよね。錬金術めいた伝承とも結びつけられていたはず……」
「ええ、硫化水銀の鉱物です。水銀ですから、強い毒性を持っています」
澪はぎょっとしてペンダントを肌から離した。
「常温ではさほど問題ありません」
澪はほっとしてペンダントを胸元に戻した。サルヴァトーレはしばらく考え込んでいたが、やがて視線を上げた。
「町で薬の噂は聞きましたね?」
(薬といえば、闇市で没収されてた違法薬物……それと巷で噂の——)
「『若返りの薬』……!!」
澪の中でふたつのものが繋がり始めた。
「グラツィアの研究には細胞の老化を抑える効果の記載があった。つまり、若返りの効果……!?」
サルヴァトーレがゆっくりと頷いた。
「ここからは推測ですが」
淡々と続ける。
「魔女が研究していた薬と、教団周辺で囁かれている若返りの薬の噂が無関係とは思えません」
その言葉に澪は息を飲んだ。
「少なくとも同じ系統の研究である可能性があります」
彼はしばらく、答えそのものよりも、澪が何を隠しているかを測るように黙っていた。
「貴女が薬に関する秘密を握っている、と思われている可能性もあります」
澪はサルヴァトーレを探るようにじっと見つめ返した。
(もしかして、チェネレも『若返りの薬』を狙ってる……?)
しかし、サルヴァトーレは何事もなかったように話を締めた。
「今後はより深く教団側を探る必要がありそうですね」
柔らかく微笑むと、灰色の瞳を鋭く光らせた。
「もうひとつ。『マヒト』という名でしたか」
澪はどきりとした。
「貴女が接触した教団の刺客です」
アンナから報告が上がったのだろうか。それにしても、名前まで。
「昔の知人か何かは知るところではありません。が、チェネレにいる以上、妙な真似をしないように」
脅すような言葉に、思わずノートの角を握りしめる。サルヴァトーレは口元に笑みを浮かべていたがその目は笑っていなかった。
トニオのことが頭をよぎる。サルヴァトーレが言っていることはそういうことだ。
「ですが、本当によくやっていますよ」
サルヴァトーレは、背もたれに寄りかかると手を組んだ。話はこれで終わり、という合図だった。
「引き続き、良い取引が続けられるよう期待しています」
「……あの」
澪は勇気を出して口を開いた。
「私からも、ひとつお願いがあります」
サルヴァトーレが答える前に続ける。
「ネッロのことなんですけど」
空気が少し変わった。
「私が甘かったせいで怪我をさせてしまいました」
サルヴァトーレは特に驚かなかった。まるですべて想定内だとでもいうように言った。
「貴女が無事だったなら良いではないですか」
そしてあっさりと続けた。
「それが彼の仕事です」
澪は即座に答えた。
「良くないです」
沈黙が執務室に落ちた。
「ネッロは道具じゃありません」
サルヴァトーレの眉がほんの僅かに動く。
「人間です」
再び静寂が落ちた。
サルヴァトーレは視線を伏せる。まるで嘲笑するかのように、軽く息を吐いた。そしてゆっくり顔を上げる。
「それで?」
低い声。静かな圧力。あの日と同じだ。また感情論を語るのか、と問うような声音。
だが、澪は目を逸らさなかった。
「守られるだけは嫌なんです」
サルヴァトーレを真っ直ぐ見据える。
「私にも銃の携帯を許可してください」
一瞬だけ、サルヴァトーレの表情が揺れる。そして組んでいた手をほどいた。顎に指を添え、考えるような仕草をして見せる。
「なるほど、殊勝な心掛けですね」
しかし、答えは明確だった。
「却下です、許可できません」
少しだけ口角を上げ、困ったような顔を作る。しかし目は笑っていなかった。
「貴女がその銃を使って私やネッロを撃ち、逃亡しないという保証がありませんので」
静かな声。言い返せない。事実だった。
澪はしばらく黙っていたが、やがて小さく頭を下げた。
「……わかりました」
それ以上は食い下がらない。立ち上がり、扉へ向かう。
扉の取っ手に手をかけたところで足を止めた。澪は振り返り、少し迷ってから口を開く。
「あの……」
サルヴァトーレが視線を向ける。
「あなたがネッロのことを道具だと思っていたとしても」
澪はそこでほんの少しだけ微笑んだ。
「ネッロは、あなたのことすごく大切に思ってますよ」
そこまで言い切って、返事を待たず扉を開いた。
「では失礼します」
扉が閉まり、静寂が執務室に落ちる。部屋には時計の音だけが残った。
サルヴァトーレはしばらく動かなかった。
やがて椅子にもたれかかり、目を閉じる。そして誰にも聞こえないほど小さく、長い息を吐いた。




