17話:余燼
朝から澪は市場へと連れ出されていた。横にはエンリコがいる。
「ネッロなしでも大丈夫なんですか?」
「大丈夫、大丈夫。アンナがいるから」
「アンナさんが、ですか……?」
思わず澪は隣のアンナを見上げた。アンナは肩をすくめる。
「なによ。ご不満かしら?」
「いえ、すごく頼もしいです……」
エンリコが笑う。
「まあ、今日はただの買い出しだ。野菜と魚とパン。路地にでも入らなきゃ大丈夫さ」
「それなら……少し安心しました」
市場は今日も賑わっていた。
潮風に混じる魚の匂い。露店から漂う焼きたてのパンの香り。威勢のいい呼び声が石畳の通りに響き渡る。
「おっ、今日は良い鯛が入ってるじゃないか」
「本当だ! 大きいですね」
澪が身を乗り出すと、魚屋の主人が得意げに笑った。
「だろう? 今朝揚がったばかりだ」
艶やかに光る魚の目を見た時、澪はふと祖母を思い出した。
『魚は目を見るのよ』
魚を買いに行くとき、いつもそう言っていた。そのくせ、なぜか肉料理の方が好きだったことも。脳裏に浮かんだ祖母の穏やかな横顔に、胸が温かくなる。
「じゃあ十匹ちょうだい」
アンナが横から顔を出した。
「アンナ、これ何人前だ?」
「適当だよ。食べたいなら運びな」
「雑!」
周囲から笑い声が上がる。女性陣に混じって荷物持ちをしているエンリコが肩をすくめた。
「だから言っただろ。ネッロがいない日は俺が犠牲になるって」
「ネッロは文句言わないよ」
「俺なら言うね」
エンリコが口を尖らせたので、澪は思わず笑ってしまった。
そんな何気ない時間が心地よかった。ここ最近は色々ありすぎた。だからこそ、こうして普通に買い物をしている時間が少しだけ嬉しかった。
いつの間にか、少しだけ肩の力が抜けていた。
澪は、物珍しい野菜が並んでいるのに目を取られ、しばし店先を眺めていた。
「……あれ?」
気づけば、周りにアンナもエンリコもいない。
人混みの流れが一気に変わっていた。どんどんと人の流れに押される。澪は足を止め、周囲を見回した。
「アンナさん?エンリコさん?」
アンナたちの姿が見えない。さっきまで聞こえていた声もない。
人波が行き交う。露店の布が風に揺れる。ほんの一瞬離れただけのはずなのに、急に心細さが込み上げた。
その時、視界の端に黒い影が映り、振り返る。そこに立っていた男を見て、澪の息が止まった。
黒髪。無機質な瞳。
初日に市場で出会った男だ。そして——思い出した少年。
「まひ——」
澪が声を出すより早かった。強く手首を掴まれる。次の瞬間には身体が引っ張られていた。
「……っ!」
人気のない細い路地に引き込まれる。
冷たい壁に肩がぶつかる。手を振り払おうとした瞬間、後ろから腕を押さえつけられた。首元にきらりと光る何かが突きつけられる——ナイフだった。
澪の喉が小さく鳴る。
男は低い声で言った。
「叫ぶな。大人しくついてこい」
強く押さえつけられた腕が痛む。男は憎しみを押し殺すように吐き捨てる。
「忌まわしい魔女め」
澪のことを言っているとわかった。
「神火の罰を受けろ」
「……なんで」
男は答えずに、ただナイフを突きつけたまま睨み続ける。澪は震える声で言った。
「なんでこんなことするの?」
返事はない。それでも、言わなければと思った。
この前、思い出した記憶——幼い頃の景色。少年が差し出してくれた手。あの時の救われた気持ち。
「あなた……」
震える喉をおさえ、はっきりと声に出す。
「マヒトくんだよね」
その瞬間、男の呼吸が止まった。ほんの一瞬だけ、確かに。
「私だよ……」
澪は必死に続ける。
「『神坂澪』だよ、覚えてる?」
胸の奥が熱くなる。
「小さい頃、一緒に——」
「黙れ」
鋭い声が遮った。マヒトは一歩近付くと、イラついた様子で言った。
「惑わそうとしても無駄だ」
手首が強く握られ体ごと壁へ押し付けられる。首元の刃がわずかに肌を掠めた。ひやりとした感触に息を呑む。
ふと、澪を押さえつける男の腕が視界に入った。そこに刻まれたものを見て、澪は目を見開く。
あの教団のマークの焼印——
幾重にも重なる痕。
古い傷。
そしてまだ赤く腫れた新しい火傷。
痛々しいほどだった。
「その火傷……何?」
マヒトは黙っている。
「何があったの?」
黒い瞳が揺れた。ほんの僅かに、なにかを振り払うように。
「……黙れ」
低い声、それは怒りというより。苦しんでいるような音に聞こえた。
澪の胸が締め付けられる。全部忘れてしまったのだろうか。幼い日のことも、自分のことも、全部。
「あなたは……」
澪は恐る恐る尋ねる。
「マヒトくんは、教団の刺客なの?」
男の表情が強張る。
その時、遠くから聞き慣れた声が響いた。
「おーい!!」
アンナだった。
「澪ー!?」
マヒトは反射的に振り返り、身を翻した。
——直後、乾いた銃声。壁に火花が散り、弾丸が石壁へめり込む。
振り返るとアンナが拳銃を構えていた。
「撃たないで!!」
澪は咄嗟に叫ぶ。その一瞬で、マヒトの身体が影のように、路地の奥へ消えた。
アンナが再び銃口を構え走り出そうとした。だが澪はその腕を掴んだ。
「待って!」
アンナが険しい顔で振り返った。
「昔の知り合いだったの」
澪は息を切らしながら言う。
「お願い、撃たないで」
「……」
「何か事情があるみたいで……」
アンナの表情がさらに険しくなった。
「事情?」
低い声だった。食堂で見せるいつもの顔ではない。この島で——チェネレで生き抜いてきた人間の顔だった。
「あんたを殺そうとしてた」
澪は言葉を失う。
「でも——」
「甘いこと言ってんじゃない」
ぴしゃりと言い切り、アンナは真っ直ぐ澪を見た。
「そんなんじゃ生き残れないよ」
その言葉は重かった。澪は俯くしかない。
「……ごめんなさい」
アンナは深いため息を吐いた。
「ったく」
周囲を見回し、素早く警戒してから、ようやく銃を下ろした。誰もいないことを確認すると、澪の手を掴む。
「行くよ」
路地を抜けると、市場の喧騒が戻ってきた。魚屋の声。笑い声。人々の足音。さっきまでの出来事が嘘のようだった。
けれど首筋にはまだ冷たい刃の感触が残っている。
アンナは前を向いたまま歩いていた。しばらくして、ふいに振り返る。そこには少し呆れたような、いつもの食堂の女将の顔があった。
「迷惑かけた貸し、この後、倒れるくらい働いて返してもらうからね」
澪は一瞬きょとんとして、そして、小さく笑った。
「はい……」
その返事を聞いて、アンナも笑う。だが澪の胸の奥には消えないものが残っていた。
逃げていった男の瞳。
焼印だらけの腕。
そして一瞬だけ揺れた表情。
あれは本当に刺客の目だったのだろうか。それとも——
市場の喧騒の向こうへ消えた背中を思い出しながら、澪はそっと拳を握りしめた。
まるで燃え尽きたはずの熾火が、灰の下でまだ燻り続けているようだった。




