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ロッサ・ディ・マーレ 〜火山島に燻る魔女の罪〜  作者: 山城すな
第五章

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17話:余燼

 朝から澪は市場へと連れ出されていた。横にはエンリコがいる。


「ネッロなしでも大丈夫なんですか?」


「大丈夫、大丈夫。アンナがいるから」


「アンナさんが、ですか……?」


 思わず澪は隣のアンナを見上げた。アンナは肩をすくめる。


「なによ。ご不満かしら?」


「いえ、すごく頼もしいです……」


 エンリコが笑う。


「まあ、今日はただの買い出しだ。野菜と魚とパン。路地にでも入らなきゃ大丈夫さ」


「それなら……少し安心しました」


 市場は今日も賑わっていた。


 潮風に混じる魚の匂い。露店から漂う焼きたてのパンの香り。威勢のいい呼び声が石畳の通りに響き渡る。


「おっ、今日は良い鯛が入ってるじゃないか」


「本当だ! 大きいですね」


 澪が身を乗り出すと、魚屋の主人が得意げに笑った。 


「だろう? 今朝揚がったばかりだ」


 艶やかに光る魚の目を見た時、澪はふと祖母を思い出した。


『魚は目を見るのよ』


 魚を買いに行くとき、いつもそう言っていた。そのくせ、なぜか肉料理の方が好きだったことも。脳裏に浮かんだ祖母の穏やかな横顔に、胸が温かくなる。


「じゃあ十匹ちょうだい」


 アンナが横から顔を出した。


「アンナ、これ何人前だ?」


「適当だよ。食べたいなら運びな」


「雑!」


 周囲から笑い声が上がる。女性陣に混じって荷物持ちをしているエンリコが肩をすくめた。


「だから言っただろ。ネッロがいない日は俺が犠牲になるって」


「ネッロは文句言わないよ」


「俺なら言うね」


 エンリコが口を尖らせたので、澪は思わず笑ってしまった。


 そんな何気ない時間が心地よかった。ここ最近は色々ありすぎた。だからこそ、こうして普通に買い物をしている時間が少しだけ嬉しかった。


 いつの間にか、少しだけ肩の力が抜けていた。


 澪は、物珍しい野菜が並んでいるのに目を取られ、しばし店先を眺めていた。


「……あれ?」


 気づけば、周りにアンナもエンリコもいない。


 人混みの流れが一気に変わっていた。どんどんと人の流れに押される。澪は足を止め、周囲を見回した。


「アンナさん?エンリコさん?」


 アンナたちの姿が見えない。さっきまで聞こえていた声もない。


 人波が行き交う。露店の布が風に揺れる。ほんの一瞬離れただけのはずなのに、急に心細さが込み上げた。


 その時、視界の端に黒い影が映り、振り返る。そこに立っていた男を見て、澪の息が止まった。

 黒髪。無機質な瞳。


 初日に市場で出会った男だ。そして——思い出した少年。


「まひ——」


 澪が声を出すより早かった。強く手首を掴まれる。次の瞬間には身体が引っ張られていた。


「……っ!」


 人気のない細い路地に引き込まれる。


 冷たい壁に肩がぶつかる。手を振り払おうとした瞬間、後ろから腕を押さえつけられた。首元にきらりと光る何かが突きつけられる——ナイフだった。


 澪の喉が小さく鳴る。

 男は低い声で言った。


「叫ぶな。大人しくついてこい」


 強く押さえつけられた腕が痛む。男は憎しみを押し殺すように吐き捨てる。


「忌まわしい魔女め」


 澪のことを言っているとわかった。


「神火の罰を受けろ」


「……なんで」


 男は答えずに、ただナイフを突きつけたまま睨み続ける。澪は震える声で言った。


「なんでこんなことするの?」


 返事はない。それでも、言わなければと思った。


 この前、思い出した記憶——幼い頃の景色。少年が差し出してくれた手。あの時の救われた気持ち。


「あなた……」


 震える喉をおさえ、はっきりと声に出す。


「マヒトくんだよね」


 その瞬間、男の呼吸が止まった。ほんの一瞬だけ、確かに。


「私だよ……」


 澪は必死に続ける。


「『神坂澪』だよ、覚えてる?」


 胸の奥が熱くなる。


「小さい頃、一緒に——」


「黙れ」


 鋭い声が遮った。マヒトは一歩近付くと、イラついた様子で言った。


「惑わそうとしても無駄だ」


 手首が強く握られ体ごと壁へ押し付けられる。首元の刃がわずかに肌を掠めた。ひやりとした感触に息を呑む。


 ふと、澪を押さえつける男の腕が視界に入った。そこに刻まれたものを見て、澪は目を見開く。

 あの教団のマークの焼印——


 幾重にも重なる痕。

 古い傷。

 そしてまだ赤く腫れた新しい火傷。


 痛々しいほどだった。


「その火傷……何?」


 マヒトは黙っている。


「何があったの?」


 黒い瞳が揺れた。ほんの僅かに、なにかを振り払うように。


「……黙れ」


 低い声、それは怒りというより。苦しんでいるような音に聞こえた。


 澪の胸が締め付けられる。全部忘れてしまったのだろうか。幼い日のことも、自分のことも、全部。


「あなたは……」


 澪は恐る恐る尋ねる。


「マヒトくんは、教団の刺客なの?」


 男の表情が強張る。


 その時、遠くから聞き慣れた声が響いた。


「おーい!!」


 アンナだった。


「澪ー!?」


 マヒトは反射的に振り返り、身を翻した。

 ——直後、乾いた銃声。壁に火花が散り、弾丸が石壁へめり込む。


 振り返るとアンナが拳銃を構えていた。


「撃たないで!!」


 澪は咄嗟に叫ぶ。その一瞬で、マヒトの身体が影のように、路地の奥へ消えた。


 アンナが再び銃口を構え走り出そうとした。だが澪はその腕を掴んだ。


「待って!」


 アンナが険しい顔で振り返った。


「昔の知り合いだったの」


 澪は息を切らしながら言う。


「お願い、撃たないで」


「……」


「何か事情があるみたいで……」


 アンナの表情がさらに険しくなった。


「事情?」


 低い声だった。食堂で見せるいつもの顔ではない。この島で——チェネレで生き抜いてきた人間の顔だった。


「あんたを殺そうとしてた」


 澪は言葉を失う。


「でも——」


「甘いこと言ってんじゃない」


 ぴしゃりと言い切り、アンナは真っ直ぐ澪を見た。


「そんなんじゃ生き残れないよ」


 その言葉は重かった。澪は俯くしかない。


「……ごめんなさい」


 アンナは深いため息を吐いた。


「ったく」


 周囲を見回し、素早く警戒してから、ようやく銃を下ろした。誰もいないことを確認すると、澪の手を掴む。


「行くよ」


 路地を抜けると、市場の喧騒が戻ってきた。魚屋の声。笑い声。人々の足音。さっきまでの出来事が嘘のようだった。


 けれど首筋にはまだ冷たい刃の感触が残っている。


 アンナは前を向いたまま歩いていた。しばらくして、ふいに振り返る。そこには少し呆れたような、いつもの食堂の女将の顔があった。


「迷惑かけた貸し、この後、倒れるくらい働いて返してもらうからね」


 澪は一瞬きょとんとして、そして、小さく笑った。


「はい……」


 その返事を聞いて、アンナも笑う。だが澪の胸の奥には消えないものが残っていた。


 逃げていった男の瞳。

 焼印だらけの腕。

 そして一瞬だけ揺れた表情。


 あれは本当に刺客の目だったのだろうか。それとも——


 市場の喧騒の向こうへ消えた背中を思い出しながら、澪はそっと拳を握りしめた。


 まるで燃え尽きたはずの熾火が、灰の下でまだ燻り続けているようだった。


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