16話:聖女の研究
その後、戻らない二人を不審に思ったエンリコが迎えを出していたらしい。気づけば澪は医務室の前に座っていた。
膝を抱えるでもなく、背を預けるでもなく、ただそこに“置かれている”ように。耳に入る足音や声は遠く、意味を持たない音に変わっていた。
(……終わった、のかな)
その実感すら、まだどこか他人事だった。
医務室の扉が開き、しわになった白衣を引っ掛けた男が面倒そうに髪をかき上げながら出てきた。隣に座っていたエンリコがすぐさま男に声をかけた。
「レオ、ネッロはどうだ……?」
「処置は済んでる。命に別状はない」
レオと呼ばれた無精髭の男が、表情ひとつ変えずに答えた。伸びっぱなしのブロンドを無造作に後ろで括っている。
その言葉だけが、澪の中に遅れて落ちてくる。
「……面会は?」
「今は無理だ。安静が必要だ」
(助かったんだ……)
澪はやっと自分がまともに呼吸すらできていなかったことに気づいた。
「おい、あんたももう休んどけ」
自分の腕にも包帯が巻かれている。幸い傷はすでに治りかけていたらしく、処置はすぐに終わった。昔から傷の治りが早いことだけは、澪の密かな自慢だった。けれど今は、そんな小さな自慢すら、少しも自分を元気づけてはくれなかった。
部屋に戻った澪は、ベッドに仰向けになった。
息を吸うたびに、礼拝堂での出来事が脳裏に蘇る。血の匂い。銃声。そして——ネッロの顔。
澪はぎゅっと拳を握った。
自室で何もせず待っていると、嫌なことばかり考えてしまう。
澪はバッグから礼拝堂で持ち帰ったものを取り出した。グラツィアの研究ノート。そして、赤と黒が混ざり合った小さな鉱石。ネッロと命懸けで持ち帰ったものだ。
(絶対、魔女の真実に近づかなきゃ……)
澪はじっくりとノートを眺めた。裏表紙の隅には、かすれたインクで年号が記されていた。
——一九三八年。
澪は思わず指を止めた。おとぎ話の魔女にしては、あまりにも新しい。
さらにページをめくると、そこに並んでいたのは呪文ではなかった。
薬品名、鉱物の成分、体温、脈拍、経過観察。その他にも数式や図表、実験記録が、黄ばんだ紙面を埋め尽くしている。
グラツィアは魔女ではない。少なくとも、このノートを書いていた彼女は、当時の科学者だった。
最初は解読に苦労した。だが読み進めるうちに、少しずつ内容が見えてきた。
専門用語は半分も理解できない。それでも、観察記録として書かれた部分なら追うことができた。グラツィアは教団の長である神火公から命じられ、鉱山で働く人々の病を研究していたらしい。
火山から採れる鉱石や成分を抽出し、それらを利用した新しい薬の開発。島の発展と、人々の生活を守るための研究。
そこに記されているのは、魔法でも奇跡でもない。地道な実験と失敗の積み重ねだった。
「……島のために、薬を作ろうとしていたんだ」
思わず小さく呟く。
魔女と呼ばれていた人物。だが、ここまでの記載には伝承にあったような邪悪な魔女らしき気配はなかった。
ノートから読み取れたのは、誰かを救うために知識を積み重ねた一人の人間の存在だった。
『あの人は聖女だよ——』
ロザンナの言葉を思い出す。
「そういうことか……」
少しだけ肩の力が抜ける。魔女なんて本当にいるはずがなかった。そんな当たり前のことに、なぜか安心した。
しかし、読み進めるうちに、ひとつの記述が澪の目を引いた。ページの端に走り書きされた短い文章。
『研究の過程で、細胞の老化に干渉する効果を確認』
澪は眉をひそめて、さらにページをめくる。
『特定サンプル由来のミトコンドリアとの反応でのみ著しい細胞活性化か』
『再現不能』
『反応を示した被験体の関連性について調査中』
『膨大なエネルギーが必要』
『地熱を利用した“神の炉”の製作を提言』
澪の指が止まった。
(“神の炉”って、おばあちゃんの手紙にあった“神から盗んだ炉”のこと……?)
グラツィアがしていたのは鉱山病の治療薬を作る研究ではなかったのか。
しかも、その後の記述になるほど文字は殴り書きに、内容は難解になり、筆跡は熱を帯びていく。まるで何かに取り憑かれたように。もはや、その文字はほとんど読み取ることができない。
『もっと先へ』
『可能性がある』
『完成すれば、島はもっと豊かになる』
『だが、こんなことが許されるのか?』
そこから先は、ノートごと破り取られていた。
「……どういうことなの?」
澪は無意識に、自分のペンダントへ触れる。そして机の上に置いた赤黒い鉱石へ視線を落とした。礼拝堂で見つけた石。ペンダントとよく似ている。
(偶然、じゃない気がする……)
答えはまだ見えない。ノートを読み進めるうちに昼が過ぎ、夜が過ぎていった。
翌日も澪は部屋に籠もった。三日目の朝——朝食を食べ終わり自室へ向かう途中でエンリコに声をかけられた。
「ネッロの面会の許可が出た」
その言葉に、澪は急ぎ足で医務室へ向かった。
医務室の扉を押し開けた瞬間、澪は思わず足を止めた。
「……あれ」
奥のベッドに、ネッロがいた。思っていたよりもずっと、普通に。
上半身を起こし、片手を軽く振りながら、何事もなかったように笑っている。その周囲にはアンナ、厨房の女性たち、若いファミリーの男たちが集まり、まるで見舞いというより宴会のような空気になっていた。
「まったく、あんたがいなくなったらどうしようかと思ったんだからね」
アンナが呆れ半分、安堵半分の声を漏らす。それを聞いてネッロは肩をすくめる。
「俺がここに運ばれるの、何回目だと思ってんだよ?」
「二千回目?」
「そんなにねぇよ!さすがに!」
そのやり取りに、医務室の中に笑いが広がった。
澪は、その場の空気に引き込まれるように、頬が緩んだ。
(……よかった)
「おい。笑うのはいいが、まだ寝てろ」
澪が安堵していると、低い声が横から飛ぶ。白衣のまま壁にもたれていたレオが、じろりとネッロを睨んでいた。
その言葉に、澪の視線が自然とネッロの体へ向いた。包帯の隙間から見える肌には、無数の傷跡が走っていた。浅いものもあれば、明らかに深く裂けた痕もある。
(……こんなに)
今まで戦ってきた時間の重みが、無言でそこに刻まれていた。胸の奥が、静かに沈んでいく。
「あ、澪!」
ネッロに呼ばれた声で我に返る。
「腕、大丈夫だったか?」
「……私は大丈夫。ネッロのほうが——」
言いかけて、言葉が詰まる。だが、ネッロは気にした様子もなく、笑う。
「これくらいどうってことねぇよ。俺、結構丈夫なんだ」
「大変だったのはこっちだ。何針縫ったと思ってる」
「はいはい、腕のいい仕立て屋だったぜ」
レオとの軽口の応酬に、また小さな笑いが起きる。
だが澪の胸には、別の感情が残っていた。
(私を……守るために)
その事実だけが、重く静かに沈んでいく。ネッロはその空気を振り払うように、わざと明るく声を上げた。
「あーでもよ、まともなもん食ってねぇから腹減ったな」
「ダメだ。今日までは安静」
レオは即答した。
「ちぇー」
そのやり取りの横で、澪は俯いたまま、言葉を失っていた。その肩に、ふと温かい手が乗る。アンナだった。
「……それじゃあ、明日の夕飯はネッロの回復祝いにしようかね」
優しい声だった。
「澪、手伝ってくれるね?」
一瞬だけ戸惑い、そして澪は顔を上げる。
「は、はい……!ぜひ!」
その返事に、アンナは満足そうに笑った。




