15話:獣と引き金
「これ、大丈夫なの……?」
弱音が口からこぼれるほど、澪は脚がすくんでいた。
二人は西地区を南側に抜け出して、しばらく歩いた後、岬から小島につながる吊り橋の前に立っていた。
岬の岸壁から、小島の岩場まで、潮風を受けて揺れる吊り橋。覗き込むと遥か下のほうで、波が岩に当たって白く砕けているのが見えた。
「……本当に、ここを渡るの?」
澪が引きつった声で尋ねると、ネッロはにやっと笑った。
「大丈夫。意外としっかりした素材でできてる」
「でも……」
「そんなに怖いなら、手繋いでやろうか?」
ネッロに揶揄われたのが悔しくて、澪はぎゅっと拳を握った。前を見据え、吊り橋へと足を踏み出す。
足元から吹き上がる風に煽られながら一歩一歩板に足を乗せていく。その度にギシッ、ギシッ、と古くなった木の板が心許ない音を立てた。場所によっては、板くずが割れ、白波の立つ遙か下へと消えていった。
澪は金属を巻きつけた丈夫なロープに縋り付くようにして進んだ。それも所々錆びて脆くなっていて、後ろから聞こえるネッロの励ましの声だけが、微かな支えになっていた。
ようやく渡りきったとき、膝が笑っていた。
子鹿のように震える脚を落ち着かせようと、岩にしがみつく澪を見て、ネッロが少し意地悪そうに言った。
「ほら、やっぱ手繋いだ方が良かったんじゃないか?」
「いや、でも一人で渡りきれたから……」
「でも、脚が震えてるぞ」
「これは揺れる足場でバランス取るのが難しかったからで……」
「……澪って、結構負けず嫌いだよな」
ネッロはおかしそうに笑って、澪の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「どうも……お騒がせしました」
澪は言い訳をしたみたいで、バツが悪くなり少しだけ口を尖らせた。
さらに進むと、偶然、岩の割れ目に広がる洞窟に行き当たった。
洞窟の入り口は大人の背丈くらいの高さがあった。岩肌には礼拝堂が洞窟の先にあることを示す、朽ちた案内板がかかっていた。
しばらく暗く狭い洞窟を進むと、天井の高い空間に出た。そこに広がる光景を目にした時、澪は思わず感嘆の声を漏らした。
「すごい……綺麗……」
洞窟は海に繋がっているようだった。小さな湖には岩の間から細い光が差し込み、サファイアブルーに輝く海水が、何層もの色彩を生み出し、神秘的な光景を描き出していた。白んだ岩の壁に、青い光が反射して万華鏡のように揺れている。
「島にまだこんな場所があったのか……」
ネッロもため息を漏らした。そして、ふと澪の顔を覗き込んだ。
「……あの深いところの青、なんか澪の目に似てるな」
「えっ……」
ネッロは自分の言葉がどう取られたかなど気にも留めずに、すぐに視線を海へ戻した。ただ、揺れる青い光を眺めながら、無邪気に目を輝かせている。
澪はなんだか気恥ずかしくなって、目をそらすしかなかった。
洞窟を出ると、二人はしばらくひび割れた石畳の上を歩いた。
手入れされていない木々の間を抜けていくと、その先の開けた場所に古びた——しかし、小さく美しい礼拝堂が島の人々から逃げてきたようにひっそりと立っていた。
「これが、ロザンナさんが言っていた礼拝堂……」
つる草が窓も含め、壁中を覆っている。その姿はあまりに長い間、魔女が島民に忘却された存在だったと示していた。
(それか、守るために隠していたのかも)
蝶番が外れかけている扉を押したり引いたりして、なんとか中に入る。礼拝堂の横に小部屋があった。部屋には本が置かれていない崩れかけた本棚と、がっしりとした袖机、硝子張りの戸棚などが置かれていた。
(ここが、魔女——グラツィアが暮らしていた場所……)
澪はゆっくりと部屋を歩いて回る。
本棚は全ての棚を覗いてみるも、埃ばかりが積もっていた。実験室にあるような硝子張りの戸棚は硝子が所々割れていた。手を切らないように気をつけて覗いてみたところ、特に目ぼしいものは見つからなかった。
最後に、袖机のところにやってきた。いくつか引き出しを開けるも何も入っていない。
(資料になるようなものは、残っていないのかもしれない)
澪が諦めかけた時、フィアンマ山を表現したステンドグラスの窓から差し込んだ赤い光が机の縁に細い影を落としていた。
よく見ると、天板と引き出しの間に不自然な隙間がある。澪は指を差し入れてみた。ガタリと動く。
(ここにも引き出しがあったのか!)
手をかけて引き出そうとするが、鍵がかかっているようだ。
「開かない……」
「ちょっと、どいてみな」
そう言ってネッロが、机に手をかける。
「ちょっ、無理やりは——」
駄目——という前に、ガタガタバキッと大きな音を立てて、ネッロは引き出しを力づくで開けてしまった。
「や、鍵が緩んでたからいけるかなって。駄目だった?」
「いや、ありがとう……」
その力任せっぷりに引いて、思わず逸らした澪の目に一冊の手帳が飛び込んできた。
手のひらより一回りくらい大きな、小ぶりのノート。黄ばんで古くなったそれを、ぱらぱらとめくると何やら科学の数式や、日誌のような文字列が並んでいる。
「これは記録……グラツィアは何かを研究していたみたい」
食い入るように見つめていると、ネッロが澪の肩に手を置いた。
「収穫あり、だな。そろそろ日も傾き始めた。中身は帰って確認しよう」
「そうだね」
澪は手帳をカバンにしまった。何か他にないかと引き出しの奥を覗く。
奥に何かの影があり、手を入れてみると、掴んだのは小さな鉱石だった——赤と黒が混ざった色はどこかで見た色だった。
「この石、私のペンダントと同じだ」
思わず、驚きの言葉が漏れた。何の石かはわからなかったがその色や特徴から同じものだと推測できた。
澪は首元のペンダントを握りしめた。祖母が肌身離さず持っていた赤い石。そして、グラツィアの机に残されていた赤い石。
おばあちゃんは、私にここへ辿り着いてほしかったのだろうか。この石と、グラツィアの残した記録に。
「おい、何してんだー?」
「ごめん、今行く!」
石をカバンに滑り込ませると、澪はネッロの後を追いかけて礼拝堂を出た。
*
古びた礼拝堂を出て、しばらく歩いていた時だった。
ふいに気配を感じた。それは、静かに、しかし確実に澪たちへ迫っていた。
「隠れろ!」
ネッロが澪の手を引き、急いで崩れかけた石壁の陰へと身を隠す。
次の瞬間、ざっ、と靴音が砂を蹴る音がした。黒いマントを纏った教団の刺客と思われる男たちが、ぞろぞろと姿を現した。
(待ち伏せ——!?)
澪の心臓が高鳴る。呼吸が速くなるのを、自分でも抑えられなかった。
ネッロは腰の後ろから小型の護身用銃を引き抜き、そっと澪に渡す。
「これ、持ってろ。いざとなったら迷わず撃て」
澪は震える手でそれを受け取った。
(私が、自分で撃つ……?)
そんな思考を押し殺して、澪は必死に頷いた。ネッロは、安心させるようにニッと笑って、ぽんと澪の頭に手を置いた。
「俺がやる。……お前は、自分を守れ。」
言い終わると同時に、彼は遮蔽物から飛び出した。目にも止まらぬ速さで、敵の懐に飛び込み、ひとり、またひとりと仕留めていく。
相手はナイフや銃を持っているにも関わらず、ネッロは拳ひとつで男たちと渡り合っている。その様は、まるで圧倒的に強い獣が獲物を蹂躙するようだった。
澪は壁にもたれながら、護身用銃を胸に抱くようにして、震える息を吐いた。
(撃つ。自分の命を、自分で守る)
必死に自分に言い聞かせる。そのときだった——
「そこか」
鋭い声。物陰に隠れていたはずの澪に、一人の暗部が気づいた。
男は容赦なく、澪に向かって銃を構えながら近づいてくる。
澪は咄嗟に護身用銃を両手で構えた。こちらの方が早い、銃口も確かに男を捉えていた。それなのに——
(動かない……)
指が、引き金にかかったまま、動かない。
(撃てないっ——)
戸惑い、ためらう澪に、男は嘲るようににやりと笑った。
「魔女といっても所詮は小娘か」
薄ら笑いを浮かべたまま、男が引き金を引こうとした、その瞬間。
「澪っ!!」
疾風のように飛び込んできたのは、ネッロだった。
彼は澪を抱きかかえるように押しのけた。乾いた発砲音が響き、同時に、鉄と汗と血が混ざったような匂いが鼻につく。
「っぐ……!」
ネッロの横腹から、鮮血が噴き出す。澪の頬に、熱いしぶきが飛んだ。
傷は深く、シャツがほとんど血の色に染まっている。それでも立ち上がり、ネッロはこちらを振り向いた。
「澪!!」
ネッロは叫んだ。
(私が……撃てていれば——)
ネッロが血を流すのを見て、喉が締め付けられる。すぐ後ろで、先ほどの男がネッロに狙いを定めているのが目に入った。
「だめっ——!!」
考える前に体が動いていた。
澪は男に飛びかかった。
もつれ合う。石畳が迫る。
銃声——
腕に、焼けた鉄を押し当てられたような痛みが走った。声にならない悲鳴が喉を裂く。
激しい痛みに思わず声が漏れた。
その瞬間、ネッロの動きが、ピタリと止まった。
血まみれの顔でこちらを見た。
その目は虚ろな光を孕んで、焦点は定かではなくなっていた。
「なにした」
かすれた声だった。
「許さねぇ……」
静かな、そして狂気に満ちた咆哮。
次の瞬間、ネッロはポケットから取り出したナイフを振るって敵に飛びかかる。
返り血を浴びながら、ひとり、またひとりと渾身の力で突き刺すたびに——
短い悲鳴が、いくつも重なった。
肉を裂く音。石畳を指先が掻く音。
誰かが許しを乞う声。
そのすべてを、ネッロは聞いていないようだった。
倒れた男の腕を踏みつける。骨の砕ける音が響いた。それでもネッロは止まらない。
(やめて……ネッロ……)
口に出せない叫び。
立ちのぼる血の匂い。ぬるりとした手のひら。それはまるで地獄のような光景だった。
背中を焼かれるような戦慄。
澪はただ、自分の痛みも忘れ、震えながらその光景を呆然と見つめることしかできなかった。
*
(…………ネッロ……!?)
しばらくして澪が我に返った時、あたりには倒れた教団の暗部たちの影だけが転がっていた。
血だまりの中、立ち尽くしていたネッロが、ふらりとこちらを振り返る。その体には深い傷があり、血は止まっていなかった。
澪は、地面に座り込んだまま震えていた。何も言えず、息すらまともに吸えず、ただその姿を見つめていた。
ネッロが、ゆっくりと膝をついた。苦しげな呼吸の合間から、かすれた声が漏れる。
「……ごめん、怖かったよな……」
泣きそうな、壊れそうな顔だった。
その瞬間、澪の中で張り詰めていたものが一気に崩れた。
「——怖かった……!」
堰を切ったように言葉と涙が溢れ出た。
「怖かったよ、何もかも……!!」
喉が焼けるようで、言葉にならない感情が、次々にあふれ出す。ネッロが悲しそうに目を伏せた。
「ネッロまで死んじゃうんじゃないかって、それが一番……怖かった!」
そう叫ぶと、澪はネッロの元に駆け寄った。震える手で、彼の服を裂き、傷に押し当て血を止めようとする。手が震えて、上手くできない。それでも、そうせずにはいられなかった。
「私が引き金を引けなかったから……!私が怖くて、動けなかったから……!」
必死で抑えた布をネッロの体に縛りつける。血は完全には止まらない。けれど、布を押し当てると、噴き出す勢いだけはわずかに弱まった。
「ネッロがこんなに怪我しちゃった……!ごめんね……ごめんなさい……」
嗚咽混じりに謝る澪の手に、ネッロがそっと触れた。冷たい指先が、傷口を抑える澪の手を包み込む。
「俺は大丈夫だよ。謝らなくていい」
彼の声は、静かで、少しだけ遠く聞こえるようだった。
「俺は慣れてる。傷つくのも、痛いのも、誰かの命を奪うことも、もう……平気なんだ」
その言葉に澪は大きく頭を振る。
「そんなの、大丈夫なわけ……ないよ」
ネッロは微笑もうとして、痛みに顔をしかめる。
「お前は銃なんて撃てなくていい……そのままでいろ」
澪は、涙で濡れた瞳をネッロに向けた。
ネッロは笑っていた。その奥に深くて暗い苦しみが滲んでいた。




