14話:魔女の再来
チェネレの会議室。
重厚な扉の向こう、円卓を囲む数名の男たち。いずれも歴戦の古株だった。顔に深く刻まれた皺と、年季の入ったスーツがそれを物語っている。
その中で、サルヴァトーレだけがひと回り以上若かった。しかしその佇まいは一分の隙もない。
「さて、慈善パーティの招待の件についてだが」
議長らしき髭の男が口を開いた。
「グレゴリオ・ヴィペラ——あの強欲な老蛇に、こちらから喉を差し出すような真似をするか否か」
「奴が信じているのは神火よりも金だ。触れ方さえ誤らなければ、牙は向けぬ」
隣に座っている、白髪混じりの薄い髪を、撫で付けた壮年の男が答えた。
「そんな幻想をまだ信じているのか。あの強欲さは底なしだ……危険では?」
そう言って、神経質そうな黒縁眼鏡の老紳士が、苛ついた調子で眼鏡を上げた。
「だとしても——」
ひときわ皺の深い、貫禄のある老獪な古参が柔らかく遮った。低く、しわがれた声が重く響く。
「教団が欲しがる“魔女”の対価として、北の港の利権をぶら下げることもできよう。取引の価値はある」
「用途もわからぬ小娘よりも、価値の明らかな港、というわけか……」
「うむ……ロレンツォの言うとおりかもしれんな」
「……罠かどうかを確かめるには、囮が要る。構わん。最悪小娘一人、失ったところで——」
幹部たちは顔を見合わせてまばらに頷き始めた。貫禄のある老獪は満足そうに、背もたれに寄りかかり、議題の方針が決まりかけたように見えた。
その時、静かだが通る声が円卓に落ちた。
「——よろしいですか」
サルヴァトーレだ。その声音に、部屋の重鎮たちが一斉に視線を向けた。
「……ひとつ、優先度を整理しましょう」
老幹部たちの視線が交錯する中、サルヴァトーレは静かに組んでいた指を解くと、卓上に置かれた招待状を指先で軽く叩いた。
「我々の狙いは『例の薬』ではありませんでしたか? 港の利権など、後でどうにでもなりましょう」
どよめいていた幹部たちは口を閉じ、顔を見合わせた。
「犠牲を受け入れる勇ましい覚悟は結構。ただ、差し出す駒を見誤れば、勝負にはならない」
サルヴァトーレの銀灰色の瞳が、ゆるやかにテーブルを一巡する。
「“ミオ・コウサカ”は、今や教団に対して最も揺らぎをもたらす切り札だ。——神火にくべてやるには、些か尚早でしょう」
幹部たちは口籠り、しばし沈黙が流れた。しかし——
「おやおや……」
先ほどの老獪な古参が、笑みを歪めて口を開いた。
「この船の船頭には代々潮風が効きすぎるようだ。潮の香りが鼻をくすぐる季節のせいか、異国から流れた鴎を見る目が随分と和らいでおいでだ」
一瞬、部屋の空気が張り詰めた。サルヴァトーレはただ、氷のように澄ました微笑で応じる。
「潮風に目を細めたからといって、鴎に情を移したとは限りません」
表情を変えぬまま、言葉を続けた。
「潮の流れを読むには、鴎の浮かぶ波をよく見ておくべきかと」
静寂が落ちる。
「彼女は連れて行きます。教団が最も欲しがる餌を見せない手はない」
別の男が、わずかに顎を引いた。
「挑発か」
「“手の届く距離に置く”だけです。餌に飛びつくその瞬間、尻尾は無防備になりますから」
サルヴァトーレは椅子の背に軽くもたれ、胸の前で指を組み直した。
「成果を焦り燃え盛る者はよく目立つが、最後に残るのは静かな灰だけです。——灰の意志を忘れてはならない」
誰も反論はなかった。だがその沈黙こそが、最も誠実な“頷き”だった。
「無論、いざとなれば——蛇ごと、焼き払うのも良いでしょう」
会議室にヒリつくような冷たい空気が流れた。
やがて、誰かの短い咳払いが場を緩め、会議は再び淡々とした進行に戻っていった。
*
「あれ、目、腫れてんじゃん。どした?」
乾いた風が道端の草をこすりながら吹き抜けた。澪とネッロは、ロザンナから聞いた、南西の小島に向かっていた。
道中、西地区の一部を通り抜ける必要があったので、まだ日が高くなる前に出かけたのだが、すでに地中海の太陽が、ジリジリと肌を焼いている。
「……いえ、なんでも」
西地区は教団の縄張りだ。刺客に悟られないために被った帽子のつばを、澪は深く押し下げた。
「トトに意地悪された?」
図星だった。
(ホント、鋭くて嫌になるなぁ……)
澪は答える代わりに、大きくため息をついた。その様子を見て、ネッロが苦笑した。
「まあ『許してやれ』とは、言わないけど」
ネッロは視線を石畳に落とした。
「あいつが“ああ”なのは仕方ないっていうか……色々抱えてんだよ」
「色々?」
「チェネレの頭領なんていつ寝首かかれるかわかんねぇし、判断ミスったら俺らファミリーごと沈むしさ」
(それはそう……だけど)
組織を守るためなら、何をしても許されるのだろうか。澪は唇を噛んだ。反論したい言葉はあるが、結局飲み込む。
「……ネッロは、怖くないの?」
「何が?」
「サルヴァトーレさん」
ネッロは軽く頭を掻いた。
「あっちはどう思ってるか知らねえけど、子供の頃からの付き合いだからな」
「そうなんだね」
「あ、けど、ちゃんと組織の序列は守ってるからな……!?」
そう言って、ちょっと焦るように手を上下に振った。可笑しな仕草に思わず澪も笑いがこぼれる。
「はいはい、それとこれとは別なのね」
「そう。そゆこと」
そんなことを話しているうちに、西地区に足を踏み入れていた。
火山岩で敷き詰められた道を、二人は少し早足で進む。
踏みしめるたびに、靴の裏で黒い砂利が乾いた音を立てた。道端には、溶けたように波打ったまま固まった黒い岩塊が残っている。かつて、ここが火に呑まれた土地であることを、言葉よりも先に伝えてくる風景だった。
「このあたりは……港の方と、少し雰囲気が違いますね」
澪が小さく呟くと、ネッロは短く頷いた。
「ああ。“溶岩の上”にできた町だからな」
「溶岩……?」
「その通りです」
返事をしたのはネッロではなかった。道端で花壇の手入れをしていた年配の女性が、手を止めて顔を上げる。穏やかな目をした、どこにでもいるような婦人だった。
「七十年ほど前の噴火で、この辺りは一度すべて溶岩に呑まれました」
彼女は土の表面を軽く整えながら続ける。
「今見えている町は、そのあとに作り直されたものです」
澪は思わず足元に視線を落とした。黒く固まった地面。その奥に、まだ熱を孕んでいるような錯覚を覚えた。
「神火公様が、この地を甦らせてくださったのです。だから私たちは、またここで暮らせています」
「神火公……?」
「フィアンマ教団の頭領のことだ」
ネッロが低い声で補足する。婦人は穏やかに微笑んだ。
「おかげで、火山灰に覆われたこの土地でも、食べるものにも寝る場所にも困ることはありません」
その笑みは、疑う余地のない静かな感謝に満ちていた。
「……そうなんですね」
澪は曖昧に頷くしかなかった。
(思っていたより……普通の人たちだ)
教団という言葉に抱いていた像が、少しずつ形を変えていく。ただ、その変化は安心ではなく、むしろ曖昧な不安を伴っていた。
そのときだった。
「おい、あんたら」
乾いた声が横から飛んだ。振り向くと、煤けた服を着た男がこちらを睨んでいる。年配だが、目だけが妙に鋭い。
「東の人間だな」
空気が一瞬だけ張り詰めた。
「東の港から島に魔女が紛れ込んだって話だ。神火の怒りに触れる前に、早く処分しねぇといけねぇ」
その言葉に澪は背筋に冷たいものが走った。
(それって、もしかして私のこと?)
「どうせ東の奴らが匿ってるんだろ? チェネレとかいう奴らのせいでまた山が火を吹くかもしれねぇ——」
「おい、落ち着けよ」
イラついた様子で男が近づいてくる。ネッロは一歩前に出て、澪に後ろに下がるよう手で促した。すると、澪たちの後ろから、しわがれた低い声がした。
「やめなさい。魔女のことならすでに教団が探しておる。任せておきなさい」
男は舌打ちすると、こちらを一度だけ睨みつけ、そのまま背を向けた。
澪が小さく息を吐くと、少し離れたところから年老いた男が近づいてきた。先ほどの険悪さとは違う、どこか人のいい顔をしている。
「すまんね、気にしないでおくれ。西の者にも色々いるものでな」
そして視線を澪とネッロに向けると、少し首を傾げた。
「見ない顔だが……東からかい?」
澪が言葉に詰まるより早く、ネッロが口を開いた。
「親父の墓がこっちにあるんだ」
「ほう、墓参りかい。そりゃええ話だ」
老翁は勝手に納得したように頷くと、感心したように微笑んだ。
「そっちの嬢ちゃんは嫁さんかね」
「違——」
澪が否定しようと開いた口をネッロの手が遮る。
(そういうことにしておけ)
ネッロが低く耳打ちした。澪は眉をしかめたが、黙っていることにした。老翁は気にも留めず、話を続けた。
「ここはな、火山と一緒に生きてる土地でね。神火公様の予言でな、あの噴火を乗り越えられた」
「信じる者だけが残った、とも言えるがね」
少しだけ声のトーンが落ちる。
「信じる者だけ……とはどういうことですか?」
「おや、東の者は知らないのかね?」
老翁は髭を撫でた。
「有名な火口の魔女の話には続きがあってな——」
老翁はゆっくりと遠く火山を見上げ話し始めた。
「……火口の魔女には、一人の娘がおったそうじゃ」
皺だらけの指が、ゆっくりと杖を持ち替えた。
「魔女は神火の恵みを独り占めしていた。じゃが、その秘密は本来、神のものじゃった」
そう言って少し声を潜めた。
「神火は怒った。魔女だけでは足りん。娘もまた、その罪を償わねばならんかった」
ごう、と路地を風が抜けた。
「ところがのう……。東の港に、娘に心を奪われた若い男がおった。愚かにも男は、娘を逃がしてしまった」
その声が静かに沈む。
「その夜じゃ。山が火を噴いた」
澪は思わず息を呑む。
「大地は裂け、空は赤く染まり、燃える石が雨のように降ったという」
老翁は大きく目を開いてみせた。
「だが、不思議なことに、教団だけはその災いを知っておった。神火の怒りが訪れる前に、人々に告げて回ったそうな」
ちょうど、礼拝堂の鐘が遠くで鳴っているのが聞こえた。
「その言葉を信じて逃げた者だけが、生き残った」
老翁は話し終わると髭を撫でながら笑った。
「だから、今も西地区の人々は教団を深く信じておるんだよ」
そう言いながらも、老翁の目だけは火山の方を見つめ続けていた。
「まあ不便も多いが、悪い場所じゃない。あんたらも気が変わったら、帰っておいで」
そう言って、老翁は去っていった。
沈黙が落ちる。澪は歩き出しながら、視線を落とした。
(怖い人もいる。でも……さっきの人たちは普通に暮らしていた)
どちらの答えにも寄れないまま、思考だけが宙に浮いた。
「……なんだか、西地区の人たち、思ったより幸せそうで、わかんなくなっちゃった」
ぽつりと漏らすと、ネッロが短く息を吐いた。
「……疑うことを知らねぇだけだろ」
その言葉は突き放したように冷たい。だが、澪が見たその横顔は、なぜだか、割り切りきれていない影を残していた。




