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ロッサ・ディ・マーレ 〜火山島に燻る魔女の罪〜  作者: 山城すな
第三章

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13/21

13話:スピネッリ

 朝の光が石畳を照らす。潮風に混じって、どこか乾いた硫黄の匂いが漂っている。


 澪が今日も談話室の窓から中庭を眺めていた。昨日の、あの恐ろしい出来事を思い出しているとネッロがやってきた。


「おまたせ、最近の埋め合わせな。今日は朝から付き合うぜ」


 大ぶりの手で軽く背中を叩かれて澪は苦笑した。


「……ありがとう」


 心の奥ではまだトニオのことが影を落としていた。


(何事もなかったかのように笑ってるけど、ネッロだって——)


 横目でネッロの顔を盗み見る。ネッロは何気ない表情で笑った。


「どうした? 浮かない顔して」


「ううん、なんでもない」


 澪は無理して笑顔を取り繕った。


(ネッロは妙に察しがいいところがあるから気をつけないと)


「そうか、無理もないよな……」


 ネッロの顔に少しだけ暗い影が落ちた。澪はドキリとした。


「今日も、またあの偏屈なロザンナ婆さんのところに行くなんて、ちょっと気が重いよなぁ」


(なんだ、そっちか)


 澪は思わず胸を撫で下ろした。


「でも、そうだよね……」


 島の歴史について知るために、今日は再びロザンナの元を訪ねることにしたのだ。澪は手にした絵本を見つめて、ため息をこぼす。


 先日、あの変わった老婆に追い返された記憶が蘇る。


『魔女なんかじゃない! あの方は——グラツィアは、聖女だった!』


 ——今日もうまくいく保証はない。


「ロザンナさん……前に行ったときも、すぐに追い返されちゃったもんね」


 ネッロは頭をかきながら、苦笑する。


「ああ、あの婆さんの機嫌次第だ。気に入らなけりゃ、ドアも開けてくれないからな」


 二人は顔を見合わせて、考え込んだ。


「ロザンナ……シニョーラ・クレメンティですか」


 不意に後ろから声が掛かる。振り返ると、サルヴァトーレが立っていた。一瞬だけ視線を寄越すと、彼はほんの少し思案する素振りを見せた。


「確か彼女はマンドルラが好物だったかと。手土産に持って行ってみては?」


「……マンドルラ……?」


 パスタ・ディ・マンドルラ——アーモンドの粉とハチミツを練って焼いた伝統的なクッキーのことだ——とネッロが教えてくれた。


「手土産くらいで満足してくれりゃいいけどな」


 サルヴァトーレは微かに口角を上げた。


「偏屈に見えて……甘いものには弱い方ですよ。ご健闘を」


 軽く会釈を残し、背を向けた。すぐにその姿は執務室側の廊下に消えて行った。


「……まあ、あいつが言うなら裏取れてんだろ。持って行ってみるか」


「うん、そうだね」


 二人はアジトを出ると、町の菓子店でパスタ・ディ・マンドルラを買っていくことにした。



 潮風が石畳を撫でる。澪とネッロは紙袋を手に、ロザンナの家を訪れた。


「ロザンナさん、機嫌悪くないといいけど……」


「婆さんの好きな菓子も用意したからな。多少は話してくれるんじゃないか」


 澪が扉をノックする。扉がきしみながら開き、ロザンナの目が覗いた。


「……またあんたたちか」


「こんにちは。あの……この間は突然すみませんでした。お詫びにこれ、よかったら」


 澪は持ってきた紙袋を差し出した。ロザンナは眉をしかめて袋をのぞき込んだが、中身を見て一瞬だけ頬を緩めた。


「……ふん、あの男の入れ知恵かい。確かに、あたしの好物だよ」


「ええ。あの、それで、今日はどうしても詳しいお話を伺いたくて……」


「嫌だって言っただろう」


 ロザンナは小蝿を払うように手を振った。だが、澪は食い下がった。


「祖母の遺言を確かめたいんです。どうかお願いします」


 一歩前に進み、深く頭を下げた。扉を閉めるに閉められなくなったロザンナは、澪をじっと品定めするように眺めた。


「……まあいい、入りな」


「よかったな! 澪」


 ネッロが嬉しそうに言うとロザンナがぴしゃりと続けた。


「ネッロ、あんたはダメだ。そこで待ってな」


「えぇ!! そりゃないぜ……」


 しょんぼりしているネッロに気を遣いつつ、澪はロザンナの家の中に足を踏み入れた。


 中は、外から見た印象よりもずっと小さかった。


 白い漆喰の壁はところどころ薄茶色にくすみ、天井には古めかしい木の梁が低く渡っている。窓は小さく、隙間から差し込む午後の光は細く、石の床に淡い線を落としていた。


 丸い食卓には椅子が二脚。けれど、普段使われているのは一脚だけなのだろう。片方の椅子には古いショールが掛けられたままになっていた。


「あ、この写真……」


 ほとんど物のない飾り棚の上に、一枚だけ写真立てが置かれていた。


 先日追い出されたときに目に入ったものだったが、澪は同じものを知っていた。談話室にあったスピネッリ家の家族写真だ。


(でも、なんでロザンナさんが……?)


 写真の前に立って眺めていると、ロザンナが紅茶を運んできた。


「……坊は覚えてたんだね。私がマンドルラを好きなことを」


 ロザンナは紅茶をテーブルの上に並べると椅子に座りながら呟いた。


「『坊』って……?」


「サルヴァトーレさ。……おとなしい子だった。本ばかり読んでいてね」


 ロザンナは写真に目をやり、少しだけ目を細めた。


「本当はね……あんな場所に立つはずの子じゃなかったんだ」


 少しの沈黙の後、言葉を続けた。


「長男がいて、次男がいて、あの子は三男だった。可愛らしい姉と妹もいたさ……」


 写真を見るロザンナの目は慈しむような、それでいて深い悲しみの色を湛えていた。


「顔だけさ。他は父親にまったく似てなかったよ」


 そこまで言うとロザンナは紅茶を一口啜った。澪は恐る恐る尋ねてみた。


「ロザンナさんは、なぜそれを?」


「……昔、少し縁があっただけさ」


 冷たく投げ捨てるような言い方だった。澪はこれ以上この話に深入りできないと察した。


「それで、こんなくだらない話を聞きにきたってわけかい?」


「いえ、それもあるんですが……これをみて欲しくて」


 澪はバッグから、サルヴァトーレからもらった絵本を取り出して見せた。絵本を見るや否や、ロザンナは顔をしかめたが、乱暴に本をひったくるように受け取った。


「……巷に溢れてる趣味の悪い絵よりは多少マシだが、内容は同じだ。全くの嘘八百だ」


「本当は、どうだったんでしょうか?」


 澪は思い切って、核心を尋ねてみた。ロザンナは、落ち窪んだ目を光らせながら澪の目をじっと見つめた。


「あんた、何者なんだい?なぜグラツィアのことを調べる?」


「えっと、おばあちゃんの遺言で……魔女の罪のことを調べてて……」


 あまりに鋭い視線に思わず言い淀む。ロザンナは何かを考えていたようだが、しばらくして口を開いた。


「……グラツィアは魔女じゃない。あの人は島を救おうとしていた」


「救おうと……?」


「ああそうさ。だが、今じゃ『魔女』に仕立て上げられて、誰もグラツィアたちの名前なんぞ覚えちゃいない」


 深いため息をついた。


「教団にとってもチェネレにとっても都合が悪かったからね……」


 そこまで話すと、ロザンナは絵本を置いて、立ち上がった。小さな窓を開けると、窓からはフィアンマ山がよく見えた。


「どうしても知りたいなら、南西の小島へ行ってみなさい。あの人が暮らしていた礼拝堂がある」


 そう言って戻ってくるとロザンナは再び、澪の顔からつま先までジロジロと見つめた。


「あの……なんでしょう?」


 不躾なほど露骨な視線に、澪は我慢できずに尋ねた。


「いや、なんでもないさね」


 ロザンナは急にとぼけたように答えた。


「さ、もうあんたに話せることはないよ」


 そう言って澪を追い立てた。澪は、扉を開けたロザンナに外に出るよう促された。


 ドアを開けると退屈そうにしていたネッロが目を輝かせて寄ってきた。お礼を言おうと、振り返ると扉を閉めかけていたロザンナがポツリと呟いた。


「坊に、十年やって板についてきたつもりだろうが、まだ似合ってないと伝えておくれ」


 それだけ言い残すと、ぴしゃりと扉が閉まり、中から鍵をかける音が聞こえた。


 *


 チェネレのアジトに帰ると、澪は執務室に向かった。


「サルヴァトーレにお礼?別にしなくていいと思うけどなぁ」


「マンドルラのおかげだったからね」


「俺も一緒に行こうか?」


「ありがとう、実はちょっと心細いから助かる」


「サルヴァトーレ、顔怖いもんな!」


 ネッロはわざとしかめっ面をしてみせた。


(問題は顔じゃないんだけどね……)


 澪が苦笑していると、エンリコとすれ違った。


「ネッロ、ちょうどよかった!非番のところ悪いが急用ができてな。すぐ来てくれないか?」


「俺、今から澪とトトんとこ行くんだけど」


 ネッロは口を尖らせた。


「こないだの闇市の件なんだ。ボスは執務室にいるから、嬢ちゃん一人じゃダメか?」


 困ったように首を掻くエンリコを見て、澪は仕方なく笑った。


「いいですよ、報告だけですから」


「そうか、じゃあ悪いな!」


 そう言ってネッロはエンリコと一緒に早足で玄関の方に向かっていった。


 大丈夫とは言ったものの、少し緊張していた。サルヴァトーレと二人で話すのはこれで二回目だが、最初の一回は古書店の店主としてだった。


 トニオの始末を言い渡した時の、冷たい声色を思い出す。澪は気持ちを奮い立たせて執務室のドアを叩いた。


「澪です」


 しばらくして、「どうぞ」と言う声がした。


 澪がおずおずと扉を開くと、机の向こうにサルヴァトーレが座っている。何かのファイルを見ていたのか、何冊か束になって机の端に積み上げられていた。


「何のご用でしょう?」


「あの、ロザンナさん、マンドルラを持っていったら話を聞いてくれました」


 澪は素直にお辞儀をして、お礼を伝えた。


「ご助言いただき、ありがとうございました」


 サルヴァトーレは、口角を少し上げて軽く形式ばかりの会釈をした。


「それはよかった。調査の糧になったのなら何よりです」


「それと——」


 澪は、申し訳なさそうにロザンナから預かった伝言をつたえた。


「——そうですか」


 失礼な内容なので、気を悪くしなかったかと恐る恐るサルヴァトーレの顔をみた。サルヴァトーレは目を細め、眉根を困ったように少しだけ寄せていた。


「言づて、ありがとうございます」


 彼もそんな顔もするのかと、一瞬空気が和らいだように感じた。


 澪は思わず、心に引っかかっていたことを言葉にした。


「もうひとつだけ、よろしいでしょうか?」


「ええ、どうぞ」


 澪はそこまで言って、唾をごくりと飲み込んだ。だが今更引き返せない。


「トニオさんのことです」


 その瞬間、サルヴァトーレの灰色の瞳が鋭く光った。執務室の空気が急に重くなる。


「今、彼はどこにいるのですか……?」


 問いかけてから、澪は自分の声が思ったより掠れていたことに気づいた。


「おや。なぜ、彼のことを気にしているのでしょう?」


 サルヴァトーレは、わずかに首を傾け、柔らかい調子で問いかけた。


「……先日、聞いてしまったんです」


「なるほど……」


 唇の端が、ほんのわずかに上がった。だがそれは笑みとは遠い、無言の威圧。


「それは我々が迂闊でしたね。しかし——盗み聞きは、あまり褒められた行いではありません」


 やんわりとした言葉。しかし、その視線は突き刺さるほどに鋭い。サルヴァトーレは、ファイルを置いて澪に向き直ると天板を指でトンと叩いた。


「その……トニオさんは無愛想でしたけど、私にチェネレのことを教えてくれて——」


 無言の視線に、喉が震えそうになるのを堪えて、声を絞り出す。そうしなくてはいけないと、澪の中の何かが駆り立てる。


「灰の掟のことも教えてくれました。厨房のオーブンだって——」


「つまり、何でしょう? 簡潔にお願いします」


 澪の言葉にかぶせるように、サルヴァトーレの冷たい声が響いた。澪は、拳を強く握りしめた。


「……他に方法はなかったんですか?」


 縋るように問いかけた。だが返ってきたのは、まるで別の文脈に誘い込むような言葉だった。


「情に駆られて彼に告げ口しなかったのは、賢い選択でしたね。命拾いをしたのですから」


 澪は強く唇を噛み締めた。サルヴァトーレは淡々と続ける。


「——彼は、貴女の情報を教団に漏らしていました」


「……!」


「迅速な対処が必要でした」


 声色は変わらない。柔らかいのに、氷のように冷たく、そして一切の揺らぎがない。瞳も声も揺れず、情の影すら差さない。


「でも、トニオさんは古くからの仲間だったんですよね? 説得するとか、いくらでも——」


「では」


 彼はほんのわずかに身を乗り出した。同時に、その銀灰色の瞳が、澪の瞳を鋭く貫いた。


「そうこうしているうちに、貴女やネッロ、他のファミリーが殺された方が良かった——と、そう仰るのですか?」


 冷たく放たれた問い。

 それは澪の胸を抉った。


「……」


 声にならない沈黙。返す言葉は見つからなかった。強く握りしめた手が、わずかに震えている。


「……さて、質問はそれだけですか?済んだのなら、もう行きなさい」


 澪は唇を噛み締めたまま、サルヴァトーレに頭を下げ、背を向けた。


 *


 廊下を早足で歩き、自室に戻ると、澪は扉を勢いよく閉めた。途端、張り詰めていたものがほどける。


 同時に、視界がにじみ、歪んでこぼれ落ちた。


 澪はベッドに倒れ込み、シーツを握りしめて顔を埋めた。


(サルヴァトーレさんの言う通りだ……)


 自分はトニオが死ぬことで守られたのだ。綺麗事を言える立場ではなかった。


(……でも、それでも——)


 涙が次々と頬を伝って、落ちていく。


「やっぱり、人が死ぬのは……悲しいよ……」


 声は枕に吸い込まれ、静かな部屋に音にならない嗚咽だけが響いた。


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