12話:檸檬とオーブン
翌日、アジトの中庭に初夏の光が差し込んでいる。
朝食のあと、澪は中庭のベンチに腰掛けていた。
今日は朝からネッロと町へ行く予定だった。だが、急用が差し込んだらしく、澪はまた手持ち無沙汰になっていた。
どこからかほのかな檸檬の香りが漂っていた。
(このままじゃ時間がもったいない。何かアジト内でできる調査はないかなぁ)
澪はぼんやりと建物に四角く切り取られた青空を見ながら、考えてみた。
どうも魔女は実在する人間らしい。
それなら、チェネレやこの島の歴史を知っている人ならば、何か知っている可能性がある。
(例えば、ファミリーの中にも知ってる人がいるかも……)
澪は、アジトの中で聞き込みをしてみることにした。
まずは談話室で若いファミリーと雑談をしていたエンリコに声をかけた。
「この島の歴史か?生まれてこの方自分が生きるのに精一杯で歴史なんて勉強したこともねえな……!」
エンリコは大きな口を開けて笑いながら答えた。
「そんなこと知ってたら今頃、幹部の一人にでもなって、かみさんの尻に敷かれることもなかっただろうよ」
「奥さんいらっしゃるんですね」
当たり前のことなのに、少し意外だった。チェネレという組織の人間たちは、もっと遠い存在だと思っていたから。
「あたりめぇよ。美人とまではいかないが、なかなか芯のある女だ」
エンリコは鼻をこすりながら得意そうに言った。
「でたよ、エンリコさんの奥さん自慢」
「次は娘さんの自慢を始めるぞ」
若い衆に混じって、結局その後もしばらく、奥さんや娘の話で盛り上がることになった。
「エンリコさんの家族には詳しくなったけど、歴史はわからなかったな」
澪は苦笑しながら談話室を後にした。
(そうだ、トニオさんなら知ってそう……ちょっと怖いけど、勇気を出して探してみるか!)
そう、自分に言い聞かせた。
トニオを探してアジト内を彷徨っていると、いつの間にか方向を失っていた。
「あれ、ここどこだっけ……」
気がつくと、見覚えのあるサルヴァトーレの執務室の前に来ていた。
(まずい、確かここは立ち入り禁止——)
部屋から離れようとした瞬間、気になる言葉が耳に入り、思わず立ち止まった。
「……あいつ、教団と通じてた」
低く、押し殺すような声。ネッロだった。
「やはりそうでしたか……」
そう答えた相手はサルヴァトーレだった。
よく見ると、執務室の扉がわずかに開いているのに気づいた。
中から、くぐもった声が漏れてくる。澪は思わず息をひそめた。どうやら執務室内で話されているのは、チェネレ内部の裏切り者の話のようだ。
「けどよ、トニオはお前の親父の頃から……」
「教団と連絡を取り始めたのは最近だ」
『トニオ』——その名前に澪の心臓が跳ねた。
(まさか……!?)
「決定打がなかった。だが、先日の件で彼女の情報が漏れていたと確定した」
「……で、どうするんだ?」
「やむを得ない——今日中に処分を。猶予を与えれば、教団に逃げられる」
始末——その言葉に、寒気が走る。
「……了解。歌わせなくていいんだな」
返事をしたネッロの声色からは何の感情も読み取れなかった。静かだがいつもの雑談と何ら変わらない調子にも思える。
同じく、サルヴァトーレの声色にも感情はなかった。冷ややかに、よどみなく、一切の迷いを感じさせない。
澪は、扉の前で息を呑んだまま立ち尽くした。心臓の鼓動だけが早まっていく。
(——二人はまるで当たり前のように、仲間だった人を……)
「では、いつも通りの手筈で……」
扉のほうに近づいてくる足音に、澪は慌てて身を引いた。そして、何も知らなかったかのように、平静を装ってその場を離れた。
部屋に戻ろうと、足取りは早まるのに、胸の奥は重たく沈んでいる。
そのとき、談話室から一人の男が出てくるのが見えた。見覚えのある疲れた背中……トニオだった。
(……あっ!)
息が詰まる。さっき耳にした言葉が脳裏にこだました。
『裏切り者』
『処分』
本当ならば、ここで声をかけてはいけない気がする。だが、つい昨日まで同じ食卓で言葉を交わした人でもある。自分がここで声をかけなければ、おそらくトニオは——
(どうしよう……!)
(でも聞き間違いかもしれない)
(もし私が話して、トニオさんが逃げたら?)
躊躇していると、ふとトニオの顔が脳裏をよぎった。
——灰の掟を忘れるな。
——仲間に手をかけるのは、もううんざりだ。
そして、昨日。
———まったく、オーブン程度で……
(だめだよ、やっぱり……!!)
「トニオさん!!」
決心して澪が声をかけたとき、すでにトニオは扉の向こうに姿を消していた。
澪は慌てて後を追いかけ、中庭に出たがもうすでにトニオの姿は見えなくなっていた。
(私、なにもできなかった……)
再び風に乗って中庭に香ってきた檸檬の香りが、今は酷く苦く感じた。
夕食の時間になっても、結局トニオは食堂には現れなかった。
(もしかして、もう……)
嫌な想像が過ぎる。
部屋に帰ろうと廊下を歩いていると、ちょうどネッロが前を通りかかった。
「あっ、ネッ——」
ふと見ると、その表情は今までのネッロとは違った冷たさを纏っていた。鋭く、誰も寄せ付けないような空気。
声をかけようとした澪にも気づかず、ただ正面の一点を見つめて歩き去っていった。彼の表情が意味することを、澪はわかってしまった。
*
次の朝、眠い体をなんとか起こして食堂まで辿り着いた。
(結局、昨日は全然眠れなかった……)
ぼーっと黒パンを齧っていると、ネッロが正面に座ってきた。
「おはよ〜、腹減ったわ〜」
パニーニをみっつもお盆に乗せて、豪快にかぶりついていた。よく顔を見ると、珍しく少しだけ目にクマができていた。
「今日もちょっと無理だけど、明日は調査に連れてってやれそう。準備しといて」
ネッロは、オレンジジュースを飲み干すと、そう言って申し訳なさそうに笑った。
「うん、わかった。準備しとくね」
昨日のことは聞けない。なぜ目の下にくまができているのかも、澪は聞くことができなかった。
「おはよう、お二人さん」
二人に、アンナが明るい調子で話しかけてきた。澪が咄嗟に会釈で返すと、アンナは言葉を続けた。
「トニオ知らないかい?」
澪はドキッとして思わずネッロの方を見た。ネッロは表情ひとつ変えずに、もうみっつめのパニーニを頬張っている。
「昨日オーブンを直してもらう約束してたのに、すっぽかすなんてめずらしいんだけどねぇ」
澪は何も答えられずに、宙を見た。すると食べ終わったネッロが紙ナプキンをくしゃくしゃに丸めながら立ち上がった。
「さあな」
去り際、後ろ姿で一言だけ答えた。その言葉に、アンナは何かを察したのか、深いため息をついた。
「そうかい……」
一言だけ呟くと、肩を落として厨房の方へ去っていってしまった。
開け放たれた窓から、中庭の檸檬の香りがふわりと入り込んでくる。その爽やかさが、かえって澪の胸の奥を締めつけた。




