11話:不老の薬
「夜の見回りに付き合うか? 昼間とは毛色の違う奴らの話も聞いてみないとな」
澪が少し早い夕食を食べていると、ネッロに誘われた。“夜”といっても、そこまで危険の伴わない仕事に連れていってくれるらしい。
待ちに待った調査の機会に、ふたつ返事で快諾したのだった。
黄昏の闇に紛れてアジトを後にした澪は、ネッロとエンリコと連れ立って港町を歩く。
街灯が立ち並ぶ建物の石壁をオレンジ色に照らし、昼間とは違った情緒をみせている。
壁に映る影を眺めながら歩くと、夜の町は、思ったよりも静かで外を歩く人はまばらなことに気づいた。
「昔はもう少し夜も賑やかだったんだが、最近は教団が厳しくてな。夜の露店はすっかり見なくなっちまった」
エンリコが昔を懐かしむように、手をコップの形にして飲む真似をした。
「夜風に吹かれながら飲むレモンソーダは最高だったんだがなぁ」
「ま、夜はなにかと物騒だからな」
ネッロが何食わぬ顔で相槌を打ったが、澪は思わず口を挟んだ。
「え、今日は『そこまで危険じゃない仕事』って聞いたんだけど……!?」
「だって、俺らがいるから、『そこまで』危険じゃないだろ」
ネッロは冗談めかすように笑った。
目的の酒場は、港から少し入った路地の角にあった。
看板らしい看板はない。代わりに、入口脇に古びた樽がひとつ置かれ、樽の側面には白い塗料で魚と葡萄の簡素な絵が描かれていた。
蔦を避けながら、アーチ状の扉をくぐると、中はまるで、洞窟をそのまま酒蔵にしたような造りだった。
むき出しの石壁はところどころ黒ずみ、天井の梁からは乾燥させた香草と古いランプが吊るされている。壁際にはワイン樽が積まれ、棚には様々な色や形の瓶がずらりと並んでいた。
店内にはレモンの爽やかな香りや、葡萄酒の甘い匂い。それに、海から運ばれてくる潮の匂いが微かに混じる。
「よお、ジャンニのおっさん!繁盛してるか」
ジャンニと呼ばれた髭面の男性は、ネッロたちを見るなり待ってたと言わんばかりの笑顔で迎えた。
奥にある長い木のカウンターは、何年も潮と酒を吸い込んだように艶を帯びている。店内には数人の男たちが腰掛け、低い声で話しながらグラスを傾けていた。
「久しぶりだな、ネッロ!!おや、こちらの可愛いお嬢さんは?」
「まあ新入りって感じかな」
ネッロは答えると、澪を前に出るよう促した。
「初めまして、澪です」
ジャンニは澪の顔をまじまじと眺めると、ニヤリと笑いながらネッロの顔を見た。
「なかなかの美人じゃないか、俺はてっきりお前の彼女かと思ったよ」
「んなわけあるかよ」
ネッロが呆れたように笑うと、エンリコが追い打ちをかけた。
「お前が港で結構モテるのバレてるぞ」
うんざりした様子でネッロがもう降参だと手を上げた。
「わかったわかった!もう、とりあえずビールくれ!」
「あいよ、キンキンに冷えたやつな」
そう言って冷蔵庫から取り出した緑のビール瓶を手際よく開けるとネッロとエンリコに渡した。
「澪ちゃんはどうするんだい?」
ジャンニが澪に尋ねると、澪が考える間もなくネッロが答えた。
「澪はレモンソーダにしとけ」
なんだか子供扱いされた気がして心外だった——が、渡されたレモンソーダは冷たく、すっきりした酸味と弾ける炭酸が汗ばんだ体に染み渡った。
「確かに、これを外で飲んだら最高ですね!」
「そうだろ?」
エンリコが嬉しそうに頷いた。
「んで?話があるんだろう?」
「そうそう、実は火口の魔女の話なんだけどさ……」
ネッロはジャンニだけでなく、酒場の顔見知りを集めて火口の魔女についての話を尋ねてくれた。
酒場の人たちの話によると、どうやら魔女の逸話は、昔教団で本当にあった実話を元にしているらしい。
「てことは魔女って本当にいたんですね?」
「いたもなにも。若いもんは知らねえのか? 先々代ルチアーノと魔女の娘の話——」
「おい、こら……!!」
「おっと、いっけね……」
一人の酔っ払った客が失言をしたらしく、ジャンニがその男の頭にげんこつを落とした。
「悪りぃな、酔っ払いばっかりだから許してやってくれ」
「いや、こっちから聞いたことだ。今のは聞かなかったことにしてやる」
神妙な顔でネッロが言うと、男は何度もお辞儀をしてそそくさと去っていった。
ルチアーノ——つい最近、トニオが口にした名だ。談話室の外された写真の跡が、澪の脳裏に浮かぶ。
「ルチアーノって——」
サルヴァトーレさんのお祖父様なんですか、と続けようとしてネッロが澪の口の前に手をやった。
「その話はチェネレじゃ御法度だ」
エンリコが低い声で教えてくれた。
(トニオさんが『魔女の娘に誑かされてチェネレを捨てた』って、言ってたのは本当なんだ……)
「んじゃ、そろそろ時間か」
ネッロがジャンニに目配せすると、黙ったまま店の隅の壁の前まで案内された。不思議に思っていると、なんと壁の裏に隠された地下へ続く階段が現れた。
酒場の客たちは誰も驚かない。まるで見慣れた光景のようだった。
階段を降りると、そこには酒場の数倍広い空間が広がっており、人がひしめいていた。
「チェネレが取り仕切ってる、非公式のルートで品物を扱う闇市だ」
エンリコが耳打ちした。
ボロ布を纏ったような貧しい人から、どこかの貴族か商人のような仕立てのいい服を纏った人。普通の庶民の主婦のような人や、中には教団の信者らしき人まで、さまざまな人でごった返していた。
「旦那、いつもありがとうございます。おかげで民間人に必要な品を行き届かせることができて助かってます」
ジャンニに声をかけられた闇市を管理しているらしき男が、ネッロに挨拶をしにやってきた。
「これは石鹸か。なんだ、あいつらこんなものまで税金をかけやがったのか。神火が聞いて呆れるな……」
ネッロは目の前にあった石鹸を手に取って、吐き捨てるように呟いた。
「へえ、それで旦那。例の件、あっちです」
管理者に連れられた先にいたのは、茶色い硝子瓶に入った、英語やドイツ語が書かれたラベルのサプリメントを並べている男の店だった。
それを見た瞬間、何かを察したのかネッロの目が鋭く光った。
「おい、これはなんだ」
店先にいた男はその声にびくりとしたが、すぐにヘラヘラと笑った顔を取り繕って、ごまかそうとした。
「へ、へへ……旦那、これが巷で噂の『若返りの秘薬』ですぜ。 飲めばたちまち体が軽くなり、徹夜もへっちゃらになるっていう——」
「『若返り』かぁ……。なぁ、うちのシマで商売するなら、品書きは正確に書けって教わらなかったか?」
と言いながら、ネッロはそのうちのひとつを取り、蓋を開けて匂いを嗅いだ。
その間、男は何やら気まずそうに手を上げたり下げたりしている。
「嫌だなぁ、本当ですって——」
男がそう口にした瞬間だった。
テーブルが軋む音とともに、ネッロの手が男の胸ぐらを掴み上げる。
「おい、舐めんのもいい加減にしとけよ」
「ひ、ひぃ!!」
先ほどまでの人懐こい笑みは跡形もない。低く落ちた声に、男の顔から血の気が引いていく。
「バレないとでも思ったか?さっさと表へ出な」
エンリコが男の腕を掴み、そのまま椅子ごと引きずるように立たせた。
抵抗する気力すら失った男は、うなだれたまま階段の方へ連れていかれる。
周囲の客たちは一瞬だけ視線を向けた。だが、それだけだった。
誰も止めないし、誰も騒がなかった。まるで夕食の献立でも眺めるような無関心さで視線を外し、それぞれの品定めへ戻っていく。闇市では、珍しくもない光景なのだろう。
やがて男の姿が階段の向こうへ消える。
ネッロは押収した薬をずた袋へ放り込むと肩に担ぎ、何事もなかったかのように振り返った。そこにはもう先ほどの獣じみた気配はない。
「さて、と」
いつもの屈託のない笑みが浮かんでいた。
「帰るとするか」
「エンリコとあの人は?」
ネッロは片眉を上げた。
「澪は、知らなくていいことだろ」
その言い方で十分だった。澪は口を閉じる。これ以上聞けば、おそらく後味の悪い答えが返ってくる。そして次にエンリコと顔を合わせたとき、きっと今まで通りではいられない。だから、聞かないことにした。
酒場を出ると、夜風が火照った頬を撫でた。しばらく石畳の道を歩いたところで、澪は別の疑問を口にする。
「あの薬はなんだったの?」
「麻薬だ」
ネッロの声から軽さが消えた。
「チェネレは人を壊す薬物の密輸には手を出さねぇ。金にはなるだろうけど——」
そう言うと、彼は眉をひそめた。
「島が腐るからな……トトの方針だ」
夜道を歩きながら、澪は黙って考えた。闇市があり、裏取引もある。決して清廉な組織ではない。
だからといって、何でも許されるわけではないらしい。少なくとも彼らには、彼らなりの線引きがあるようだ。
「そういえば、漁師のパオロさんも若返りの薬がどうとか……」
「ああ」
ネッロがまた少し声を落とした。
「前から巷で妙な薬の噂が出回ってる」
そう言って、わずらわしげに頭をかいた。
「本物かどうかは知らねぇ。だが『若返り』って看板を出せば、金を出す馬鹿がいる。だからこういう偽物が出回る」
「今回のは偽物だったんだね」
澪は思い出す。今日闇市にあったものは若返りを謳う麻薬だったらしい。噂の『若返りの薬』とは別物なのだろう。
「噂の出どころは教団側だ。完全な作り話とも言い切れねぇ」
煮え切らない表情でネッロは遠くの街灯を見やった。
突然、脇の暗い路地から小さな影が飛び出してきた。それは、ぼろ布を纏った少年だった。迷いのない足取りでネッロの元へ駆け寄る。
「よう、どうだった?」
ネッロがしゃがみ込む。少年は周囲を一度だけ警戒するように見回すと、彼の耳元へ口を寄せた。
小声で交わされた言葉は聞き取れない。
だが、少年の言葉を聞いて、ネッロの瞳がわずかに見開かれた。
ほんの一瞬。けれど、確かに。
少年が話し終えると、ネッロは何事もなかったようにポケットへ手を入れた。取り出した金貨を数枚、少年の掌へ握らせる。それを確認すると少年は慣れた様子でそれを懐へしまい、すぐに夜の路地へ消えていった。
「どうしたの?」
「孤児の小遣い稼ぎだ」
大したことないと笑ったその笑顔はどこか固かった。
「それより——」
「なに?」
「……俺ってさ、本当にモテんのかな」
「……え?」
あまりにも脈絡がなさすぎた。
「いや、確かによく女の子に話しかけられるんだけど……実際どう思う?」
「いや、知らないよ……!?」
明らかにはぐらかされた。だが、それにしては、本人は至って真面目に不思議そうな顔をしている。先ほどまで密売人を震え上がらせていた男と同一人物とは思えない。
澪は呆れ半分、安堵半分で息を吐いた。
つい先ほどまで胸を占めていた重苦しい空気が、少しだけ和らいだ気がした。




