深紅から真紅へ。
ドンッ!!
玉座の肘掛が砕けるような音が、謁見の間に響いた。
「さっきから何を笑っている。」
低く、押し殺した声。
だがその拳は、白くなるほど力がこもっている。
「クスッ……」
しかし、エヴァンジェリンの笑みは、止まらない。
王の怒号など、まるで耳に入っていないかのように。
「何がそんなにおかしいんだ……と聞いているんだ!!」
怒号が広間を震わせた。
だが――
エヴァンジェリンは、アーノルドを瞬き一つせず見据えると、
コテン。
あざとらしく首を傾げた。
「……えっ?私ですか?」
「お、お前以外に誰がいる。」
怒鳴りつけるはずの声が、わずかに上ずり、先ほどまでの威圧が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
パチン。
エヴァンジェリンは扇子を閉じると、艶やかな赤い唇がゆっくりと姿を現した。
アーノルドは、思わず息を呑んだ。
「……まぁ、そうでしたの?」
赤い唇が弧を描く。
「てっきり“おまえ様”をお呼びになっているのかと存じましたわ。」
「……は?」
まさかの返しに、その場にいた全員が固まった。
もちろんアーノルドもだ。
「あぁ……“所有物”である臣下の名すら覚えておられないのですもの。」
赤い唇が、わずかに歪む。
「ましてや――“公爵令嬢”の名など、覚えているはずもございませんわね。」
「……ッ」
アーノルドの喉が、ひくりと鳴る。
ザーッ……ザーッ。
エヴァンジェリンの耳元にある宝石から、微かな雑音が流れる。
『エヴァ……ザッ……救出作戦は……完……した……』
一瞬だけ、赤い瞳が細められる。
だがそれは、誰にも気づかれない。
(作戦も完了したようだし、もう遠慮はいらないわね)
強調された赤い唇の口角をさらに上げると、アーノルドを刺激したのか、彼は目を釣り上げて、ドンッと大きな音を立てた。
「……だから……貴様は先ほどから……何がそんなにおかしいんだ!!」
「何が……と仰られても……。私はただ“本当”のことを言っただけです。それ以上でもそれ以下でもございません。それに……」
エヴァンジェリンは一呼吸置くと、話を続ける。
「クスッ……“所有物”という割に、名前一つ覚えていないのはおかしいなと思いまして……」
「ふふっ……幼子ですら、日々世話をしてくれる者の名くらいは忘れませんもの。」
広間の空気が氷点下のような冷たさの中――
アーノルドはエヴァンジェリンの深紅の瞳から視線をずらすと、声を振り絞った。
「な、なんだと?」
「あら、本当のことを言っただけですわ。」
エヴァンジェリンはダンスをするようにくるりと回るとアーノルドとの距離を縮める。
その瞬間――
ふわり、と。
シルヴァリア公爵領で嗅ぎ慣れた甘い芳醇な香りが場内に広がった。
ルドリオスとエヴァリーヌは、同時に眉を寄せる。
「おい、この香りは……」
「ウイスキーの香り……ですね」
周りには気づかれないように顔を動かさずに話を続けるルドリオスとエヴァリーヌ。
「ここに、酒なんかあったか……」
「いえ……宴ではありませんし、なかったと思いますが……」
二人はエヴァンジェリンに視線を移した。
「頬が赤いか……?」
「……えぇ……赤い……ですね……。」
ふわふわと雲の上を歩くようにアーノルドに近づいて行くエヴァンジェリンをみて、二人は思わずため息を吐いた。
「あれは……」
「止まらないですね……」
***
両親たちが話しているなか――
エヴァンジェリンの頭はいつもよりふわふわしていた。
(なんだか……気持ちがいいわね……)
その瞬間、ぐらりと頭が揺れる。
《エヴァ、ここからは私と交代しましょ》
《あら、あなたが話しかけてくるなんて今まで無かったのに……変な感じね》
《やっぱり気づいていたのね……と、言うか、話しかけてもシカトしたのはあなたじゃない?》
《“シカト”って……なに?》
《無視ってことよ。》
《……へぇ。まっ、後のことは任せるわ。だって考えるのはあなたの仕事だもの。》
《私が考えるならあなたは実行する人ってこと?だったらここはあなたの仕事じゃないの?》
《いいのいいの、面倒だし。じゃ、後はよろしくね。エヴァンジェリン。》
《エヴァンジェリンはあなたもでしょ。》
ふわり、と揺れていた思考が、すっと澄む。
さっきまで霞んでいた視界が、異様なほど鮮明になると同時に、深紅の瞳からルビーのような鮮やかな赤い瞳に変わった。
それは、先ほどまでとは“違う光”。
誰も理由を説明できない。
だが――本能が告げていた……
何かが、変わったと……
その場にいた誰もが、無意識に息を呑む。
「先ほどからキャンキャン喚くだけ。もう少し頭がいいと思っていたんですけど……」
先ほどまであった甘さがなくなり、一段低い声がこの場を支配する。
「本当……期待外れもいい所だわ。」
一歩、王へと近づく。
「さすが――あの二人の親ってところかしら」
「な、なに……?」
「さっきから同じ返答ばかり。」
一歩、さらに距離を詰める。
「本当にこの国の王なの?」
ルビーのような瞳が、アーノルドをまっすぐ射抜いた。
「……言葉も持たぬ国王……って、滑稽ね。あなた……」
アーノルドはまるで金縛りにでもあったかのように、動けない。
「国王なんて……やめた方がよろしいのではなくて?」
わずかに首を傾げる。
「なっ……なんだと!?」
なんとか声を振り絞る。
「あっ、ほら。また同じ言葉。」
ふっと微笑む。
「あなたを見ていて思うわ。バカ王子二人ももう少しちゃんと育ててくれる人がいたら……良い王族になったのかもしれないわね」
「嫌なところばかり似ちゃって。」
「なっ……」
エヴァンジェリンの瞳が、わずかに挑発する。
“さぁ、もう一度どうぞ”とでも言いたげに……
それに気づいたアーノルドは言葉を呑み込んだ。
「なんだぁ……ざんねーん……もう一回言ったら笑ってあげようと思っていたのにぃ……」
おとなびた話し方から砕けた話し方に切り替わる。
「まっ、いいわ……」
そこまで言うと、エヴァンジェリンはパンパンッと手を叩いた。
刹那――
重くしまった扉が
ギィィィ
ゆっくり開いた。
「久しぶりですね。アーノルド国王陛下。いや、久しぶりでもないか。先日“父上”としてはお会いしましたし。」
扉の向こうに立っていたのは――
ジークハルト・シダー・セレニア第二王子殿下だった。




