赤。
「や、やめてください……」
「よいではないか。この城で務めている以上、お前は私のものなのだ。」
三領地が動き出しているその頃――
王城では、何も知ろうとしていない国王陛下が、侍女を部屋に連れ込んでいた。
豪奢な私室には昼間だというのに重いカーテンが閉じられ、甘ったるい酒の匂いと、香の匂いが漂っている。
片手にワインを持ち、連れ込まれた侍女は何も言い返すことができないまま、アーノルドに言われるがままの格好で跪いていた。
そんな時――
コンコン
侍女にとっては救世主のような扉を叩く音が響き渡る。
「……チッ……なんだ。」
「も、申し訳ございません。」
従者が扉を開けると、侍女ははだけたメイド服を整え、急いでその場を去った。
「……お前のせいで楽しみが減った。それで用件はなんだ。」
アーノルドは近くに置いてあったワインのグラスを手に取ると、一口飲み干す。
その赤は、まるで誰かの血のように真っ赤だ。
「……は、はい……ユリウス第三王子の件なのですが……。」
「ほぉ。ここまで来たということは見つかったということか?」
アーノルドは跪く従者に視線をやると、目を細めた。
「い、いえ……シルヴァリア公爵家の娘が連れて行ったことまでは記録に残っているのですが……」
アーノルドは従者をギロリと睨みつけると、近くに置いてあったグラスを投げつけ、近くの壁にぶつかった。
パリンッ
「ヒィッ……」
グラスに入っていた赤ワインが飛び散り、従者の頭からポタリポタリと赤い滴がしたたり落ちる。
「ククッ……水も滴るいい男じゃないか。いや、赤ワインだから違うか。」
従者はギュッと拳を握りしめるが、相手はセレニア王国の国王陛下……
何も言い返すことができず、目の前で笑う男を睨みつけた。
「なんだ。その顔は……私からワインをプレゼントしてやったというのに。いい態度じゃないか。」
アーノルドは目の前にいる男を鼻で笑うと、目を細めた。
「まぁよい。私はユリウスが見つかるまで顔を見せるなと言ったはずだ。」
従者はその場に膝をついたまま、動けずにいた。
足が震えているのか、赤く染まった床にぽたり、と滴が落ちる。
私室にはワインをこぼしたせいか、先ほどよりも芳醇な甘い香りが強く漂っている。
その中で、アーノルドだけが不自然なほど落ち着いていた。
椅子の背にもたれ、指先で机をとん、とん、と叩く。
まるで、目の前の男の命の秒針でも刻むかのように。
「お前は今日をもってクビだ。二度と私の前に顔を見せるな……」
従者は唇を噛み、顔を伏せた。
その肩がわずかに震えたのを見て、アーノルドは口角を吊り上げた。
その顔はまるでこの場を支配する魔王そのものだ。
とん、とん……
その間も指先を叩く音は止まらない。
「……おい、私の言葉が聞こえないのか? 早くここから出ていけと言っているんだ。出て行かないなら、お前の一族全員処刑にするぞ?」
アーノルドの言葉に、顔を真っ青にした従者は震えながら頭を下げた。
グリグリと穴が空くのではないかというほど額を床に擦り付ける。
「も、申し訳ございません。」
その様子を見て、アーノルドは退屈そうに見下ろした。
「ふん……つまらん。さっさとここから消えろ。あぁ、それとついでに宰相を呼べ。お前への最後の仕事だ。」
「は、はい……(助かった……ということか……)」
従者は急いで立ち上がると、そのまま扉へと足を向ける。
その瞬間――
「あぁ、それと……」
アーノルドはゆっくりと、赤い舌で唇をなぞった。
その姿を見た途端、従者は身の毛もよだつほどの寒さを感じる。
「お前のところには年頃の娘がいたな。そいつも一緒に連れてくるように……」
二人の間に一瞬の静寂が訪れる。
「……返事は?」
「……は、はい……」
かすれた声が、床に落ちる。
「そうだ。それでいい。」
肩を落としながら部屋を出ていく従者を見て、アーノルドは満足そうに笑った。
「ハハハッ…家族というのは便利だな。従順にさせるには、これ以上ない。」
それからしばらくして――
「シルヴァリアか……」
従者の気配が消えると、先ほどまでの歪んだ笑みが、すっと消える。
重いカーテンの隙間から、わずかに差し込む光がアーノルドの顔を照らした。
「……あの家は昔から目障りだった。」
瓶に入ったワインをゆらりと揺らす。
赤い液体が、赤い瞳を甦らせる。
「エヴァンジェリンだったか。あいつの娘も赤い瞳をしていたな。」
アーノルドはエヴァンジェリンを思い浮かべながら、残っていたワインを飲んだ。
「王に逆らいはせぬ。だが、従いもしない。何を考えているか分からんだけに、こちらから手出しすることもできない家……か。」
口元が、ゆっくりと吊り上がる。
「王家の血を最も多く引いているということだったが……所詮、それも」
アーノルドはゆらりと立ち上がると、瓶を逆さまにした。
赤いワインが床に落ちる。
「……王座に座っていなければ、ただの血だ。」
低く、吐き捨てる。
「この国の王は、私だ。」
そう言い切ったあと――
床に落ちた赤い液体に映る瞳が揺れる。
ほんの、一瞬だけ。
その揺れは、まだ名も持たぬ“未来”への恐れだった。




