4(具合どう?)
*
玄関の鍵が廻る音を聞き、時計に目を遣った。
十一時を少し過ぎたところ。
母しかいないが、母であるはずがない。
何しろ今は、今は……今時分は……何だっけ。
反抗期?
違う。思春期とセットではない。
はん……はん……繁忙期!
果たして母だった。
真っ直ぐ部屋にやって来た。
「起きてる?」
不明瞭な鼻声で返事した。
「具合どう?」
「あんまり」ふぁんまり。
「のようね」娘の声に母は苦笑した。「病院、行くよ」
「いいの?」
「いいも悪いもないでしょが」
「三月は忙しいって、」
「誰かが抜けて廻らない会社なんて早晩、潰れるよ」
ほらっ、とばかりに全身をすっかりもこもこに着替えさせられた。
お蔭で通学用のダッフルコートが窮屈だった。
小雨の中、フードを被っていても、頬を冷気が撫でていく。
雪になるかな。
急かされ、車の助手席に座らされた。
病院までは十五分ちょっと。
「予約入れてあるから」母は云った。「すぐに呼んで貰えるよ」
右折できず、信号が赤に変わった。
ワイパーが、フロントガラスの雨粒点描画を、扇型に描き直した。
ぎゅう、ぎゅう。
ゴムがガラスを擦る。
ぎゅう、ぎゅう。
ブレードがリズムを刻む。
「ねぇ、お母さん」
「ん?」
「お父さん、どうして死んだの?」
「えっ、いつ? 死んだの?」
「死んでないの?」
「うん──、」ちょっと考え、「生きてると思うけど」
「思うけど?」
「さすがに、何かあったら連絡あると思う」
「誰から?」
「役所……かなぁ?」
信号が変った。車が動いた。
母は口をすぼめ、続ける言葉を探しているようだったが、細い息が漏れただけだった。
病院は空いており、すいすいと名前を呼ばれ、すいすいと診察され、すいすいと処置された。
赤いと診断された咽喉の奥に、ちょっぴり苦いお薬塗られて正味二〇分。
併設された院外薬局で五日分の風邪薬を受け取った。
お会計をする母の後ろで、どうにも熱っぽい娘は、ティッシュで洟を拭き、丸めてコートのポケットにねじ込んだ。
あとで忘れずゴミ箱に。
脳内メモも、今の具合じゃ心もとない。
帰りの車の中、ティッシュで鼻を押さえながら、「お母さん」ふと、頼子は呼びかける。
「季節外れの雪ってなんて云うの」
「うん?」突飛な娘に困惑顔。
「迷い雪? 狂い雪?」
「それは何?」
「桜みたいに呼ばれるのかな」
「ああ」納得。「忘れ雪よ」
「ふぉーげっとみーのっと」
「勿忘草」
「ちょろぎ?」
「茗荷って云いたいの?」
「たぶん」
「終雪」
「ん?」今度は娘が困惑顔。
「初雪の反対。最後の雪なら終わりの雪」
「まだ最後だって分からないのに?」
そうね、と母は云った。
頼子は助手席のドアに身体を預け、おでこを窓にくっつけた。
冷たいガラスが気持ち良い。
雨粒が、景色に合わせて流れ行く。




