あの日の記憶
襟元で柔らかく結ばれた真新しい白いスカーフを人差し指に巻きつける。
おろしたての濃紺のセーラー服は将来への期待を込めた分まだ少しぶかぶかだ。中学も似たようなタイプのセーラー服だったので、高校では隣町にある私立校のような洒落たブラウンのブレザーとかがよかったのだが、やれやれ人生も受験というものもなかなか思うようにはならない。
指を抜くと巻きつけたスカーフはしゅるりと軽やかに解ける。視界にかかった前髪を横に払い、厚みのある可愛くない丸眼鏡の位置を直していると、
「おい、鈴! あれだあれ! あれが祖父ちゃんの馬だぞ!」
祖父が興奮気味に私の肩を掴んで揺らし、一頭の馬を指差した。
記憶のなかの祖父はいつも作業服を着ているのだが、今は品の良い光沢感のあるダークグレーのスーツを着ている。いや着られているといったほうがより近いか。高そうなスーツはこの日のために新調したらしいのだが、なるほどまったく似合っていない。
競馬場のスタンド。その一角にある馬主席。
皐月賞という大きなレースということもあってか、ほどよい熱を帯びつつも静謐な空間にあって、祖父はひとり子供のように興奮気味にまくし立てる。その横で周囲の視線から隠れるように身を縮こませた。耳がかあっと熱くなる。
小声で、お祖父ちゃん、とジャケットの裾を摘むが、気付いていないのかあえて無視をしているのか、声を抑えようともしない。
「見ろ、一番人気だ! すごいぞこりゃ! カムパネラが一番だ一番っ!」
渋々首から下げた小型の双眼鏡でその方向を覗く。正面の電光掲示板にはいくつかの数字が列挙され、祖父の口にする名前も合わせて表示されている。
双眼鏡から顔を上げ、
「それはわかったけど、なんか凄いの? まだ走ってもないじゃん、カムパネルラ」
「走る前からこんなに期待されてるからすごいんじゃないか。あと、カムパネルラじゃなくてカムパネラ。『ル』が余計だ。それじゃ銀河鉄道の夜じゃないか。宮沢賢治の」
祖父の口から『銀河鉄道の夜』という言葉がすっと出てきたことに驚いた。その登場人物であるカムパネルラを知っているのも。まあ、一般教養と言われればその範囲なのだろうが。しかし、お祖父ちゃんには悪いが、『銀河鉄道の夜』というよりは『スター・ウォーズ』とかそっちのほうがよっぽど似合う気がする。見たことないけど。
意外そうな顔に気付いたのか、
「失礼な。祖父ちゃんは元文学少年だぞ」
文学少年。
近所の子供に恐れられたという険のある顔に、その言葉があまりに似つかわしくなく思わず吹き出してしまう。
「カムパネルラじゃないってことはあの馬の名前は銀河鉄道の夜から貰ったわけじゃないの?」
「そうだ。もっと特別な意味を込めとる」
「特別? なにそれ?」
「簡単に教えてもらってもつまらないだろう。自分で考えてみなさい」
祖父は鼻を鳴らし、含みをもって笑った。
そうはいってもあまり興味の湧かない問題だ。ヒントもなしでは解ける気もしない。……ま、暇つぶしくらいにはなるかな。
祖父の顔から視線を外し、正面を見る。
馬主席のコースに面している壁は全面がガラス張りになっており、ガラス一枚挟んでコースはもちろん、スタンドの様子もよく見える。
そこは地元で一番大きな祭りに訪れる何百倍もの人でごった返していた。あの人混みで金魚を掬ったり、さして美味しくもない焼きそばを食べたりすることのなにが楽しいのだろうかと常日頃疑問に思っていたのだが、馬を走る姿を見るために集まる人々よりよっぽどその気持ちは理解できた。これでは馬ではなく人を見に来ているようなものじゃないだろうか。
「ちょっと、トイレ行ってくる」
言うが早いか、椅子から飛び降り出口へと向かう。
「迷子になるなよー」
こちらの背中に向けて声を張る祖父に、
「なるわけないじゃん」
子供じゃないんだからさ、と振り返ることもなく私は唇を尖らせた。
「……」
迷ってしまった。
混雑する中山競馬場のスタンド内通路で一人立ちつくす。
トイレ自体は馬主席を出てすぐにあり、迷うほうが難しかったのだが、なにか面白いものはないかと散策に出てしまったのがよくなかった。競馬場というのはなんでこうも馬鹿みたいに大きいのだろう。もっとコンパクトにするべきだ。SDGsとかなんかそういうやつのためにも。
それ見たことか、と得意気な祖父の顔が浮かぶ。ぶんぶんと首を振ってそれを掻き消した。
さて、どうしよう。
ここが海や山であれば星明かりや太陽の方角を頼りにするべきだろうが……。現代日本のこういった大型施設ではやはりインフォメーションの綺麗なお姉様に頼るべきではないだろうか。
胸を張り、よしっ、と一歩踏み出す。
が、そこで大挙して押し寄せてきた一団に飲み込まれた。川面に落ちた落ち葉のようにどこへともなく流されていく。
ああ、人生とはなかなか上手くいかないものだ。
流れ着いた先はスタンド通路だった。なんとか抜け出すことに成功したかと思えば、また違う人波に攫われる。どんぶらこどんぶらこ。よもや桃以外で、まさか自分にこの擬音を使う日が来るとは。今日という日をどんぶらこ記念日に認定してもいいかもしれない。
暫くしてようやく人混みから抜け出す。人は相変わらず多いが、ここなら身動きが取れないほどではない。
さて、どうやったら帰れるのだろうか。
人々の後頭部の隙間から、日に照らされ鮮やかな緑色をしたコースが見える。直線の奥の方で、金属で作られた長方形の塊が広大なコースを横切るように設置されていた。たしか発馬機――ゲートというやつだ。
その時、トランペットの高音が喚声を裂いた。
思わず身を強張らせると、続くように雄大なファンファーレが競馬場を包む。揺れるスタンド。気を抜くと押し潰されそうで、慌てて母指球に力を込める。
やがて喚声がひっそりと鳴りを潜めた。不気味なほどの静寂のなか、スタートまでの準備が進行していく。観客は一心に馬のほうを見つめていて、それはどこか儀式めいてもいた。
爆ぜるような、わっという喚声。
遠目にゲートが開いたのが見える。
一斉に馬が駆け出してくる。遥か遠くにあったはずのゲートから、しかし馬たちはあっという間にスタンド正面の直線を走り終え、手前のコーナーに入ろうとしている。コーナーを終えると、再び長い向正面にある直線の奥に吸い込まれるように群れは走る。その姿はあまりに小さく肉眼でほとんど見えない。ゴール前に置かれた大型のビジョンに映し出された映像で辛うじてその様子がわかるくらいだ。
そこでふと思い出す。
お祖父ちゃんの馬――カムパネラはどこだろう。
紫紺のゼッケンに書かれているはずの名前も数字もここからでは遠くて見えない。会場内に流れる実況も喚声に掻き消えてはっきりとしない。
視線の先、遠く向こう側のコーナー出口。そこから一頭、また一頭と馬が顔を出してくる。たしか、あそこからゴールまでがこのレースの残り距離になるはずだ。
大きな塊となった馬群を割いて、ぐんっと一頭の馬が顔を出す。
『――カムパネラ、――で先頭に――』
スピーカーからの掠れた実況。
あれが、あの馬がカムパネラ。
カムパネラはみるみるうちに群れを置き去りにしていく。
速い。一頭だけまるで別の生き物みたいだ。
怒涛のような喚声を掻き分け、カムパネラはひた走る。そして、あっという間にゴール板を通過した。
喚声。叫声。悲鳴。怒号。この世界に存在する感情が一度に訪れたような混沌に包まれる。騎手が馬上で大きく拳を突き上げた。
「……はっ」
いつの間にか呼吸を忘れていたことに気付く。身体が酸素を求め、大きく息を吸いこむ。瞬間、大きく跳ねる心臓。
少しでも近づいてその姿を見たくて、人混みに足を半歩進めた。胸元に下げた双眼鏡が揺れる。
ポーチに入れたスマホが低く唸っていた。
「はい、撮りますよー」
山賊みたいな髭を生やした恰幅のいい五十代くらいの男性カメラマンがごつごつと黒光りする高そうなカメラを構える。
皐月賞の口取り写真。
真紅の優勝レイを頸にかけたカムパネラと騎手を真ん中にして関係者が横一列に並ぶ。祖父は感極まった顔で唇を引き結び、曳き綱を握っていた。どうにも前髪が決まらないまま私はぎこちない笑顔をレンズへと向ける。
「いやあ、凄かったよ岸君」
「ありがとうございます」
撮影を終え、喜色をあらわにして差し出してきた祖父の手を、若い騎手は両手で握り返した。
暫し言葉を交わすと、次にやることがあるのだろう、その若い騎手はどこかへと向かおうとする。白に鮮やかな赤色のジグザグ線が二本入った勝負服。その背中に、
「あ、あの」
気付いたら声を掛けていた。
しまった、と思った時にはもう遅く、振り返った騎手の男と目が合う。声の主である私をみとめると、緊張した顔を緩め柔和に笑った。ゆっくりとこちらへ近付いてくる。まじまじと顔を見たのは初めてだったが、私から見てもまだ幼さの残る顔。歳は私とさして変わらないのではないだろうか。
「どうかした?」
「いえ、その……えっと……」
急に自分が幼く思えて恥ずかしくなり、俯き情けなく口籠る。そんな私に優しく、
「ああ、悪い。一回大きく深呼吸してみるといいよ。焦らないで」
言われた通り、大きく息を吸い、肺の空気をすべて吐き切る。なるほどたしかに少しは落ち着いた気がする。たぶん。
「あの、……すごいんですね」
なんだそれは。主語も目的語もなにもかもないではないか。言った矢先に心のなかで自分でツッコミを入れる。どうにか二の句を継ごうとする私に、
「だろ?」
男は嬉しそうに身を乗り出す。息を呑んで、一歩後退った。分厚いレンズ越しに見た彼の瞳は、吸い込まれそうなほどに輝く宝石のようなだった。
「すごいんだよ。次のダービーも絶対来てくれよ。待ってるからさ」
彼はそう言って、子供のように笑った。
たしか私が返事をする前に彼はどこかへ行ってしまったはずだ。
あのあと何を思ったか馬術部に入ったり、競馬場にも何度か足を運んだが、結局肝心のダービーには風邪を引いたかなにかで行くことが叶わなかった。
あのレースで感じた熱もいつまでも続くこともなく、ほどよく冷めていった。薄情だとは思わない。十五、六の少女の心などそんなものだとも思う。
いつの間にか季節は春を過ぎて夏を越え、秋から冬へ。そしてまた春へと巡った。それを何度か繰り返した。
背も少しだけ伸び、思い切って髪を切り、セーラー服を着ることも、普段眼鏡をかけることもなくなった。ずっと元気で、死ぬことなんてないんだろうなと思っていたお祖父ちゃんも、最期は病院のベッドの上であっけなく息を引き取った。死に目には会えなかった。
いろいろなことが変わっていった。
ただ、なぜだろう。
あの日の景色だけは、なぜだかいまでも変わらずにはっきりとこの目に焼きついている。




