「それでも、乗ってほしいんです」
♞
「いつから気付いてたんですか?」
少し間を置いてから阿賀田は言った。
「さっき」
そう言って飾られた一枚の写真を指差す。カムパネラで勝った皐月賞の口取り写真。そこに並ぶ濃紺のセーラー服の少女。
阿賀田は苦笑する。
「よくわかりましたね。高校の頃の友達に久しぶりに会うとびっくりされるんですよ。『えっ、誰?』って」
写真の中の少女は肩までかかる黒髪を三つ編みのおさげにしている。大きな丸眼鏡をかけたその姿に、大袈裟ではなく今の面影はない。
阿賀田はボブカットの黒髪を掻き上げる。淡いピンク色をした小さな唇が綻んだ。
「女の子ってすぐ変わっちゃうんですよ。男子三日会わざれば刮目して見よ、なんて言葉もありますけど、女子は一日たりとも目を離してはいけないんです。……でも、どうしてあの女の子が私だってわかったんですか?」
「見た目は変わっても声は変わらないからな」
一瞬阿賀田の目が大きく開く。
「……だったら、気付くのが少し遅いんじゃないですか」
「七年前少しだけ話した人間のことを憶えてたのを褒めてほしいくらいだよ」
息を吸い込む音。
「本当に、思い出したんですね」
噛み締めるように阿賀田はそれだけ言って口を閉ざした。
「カムパネラの馬主の親族、年齢からいって娘か孫ってところか」
「その通りです。カムパネラのオーナーだった人物は私の母方の祖父にあたります。その口取り写真は、生前祖父とカムパネラの応援に行ったときのものです」
そこで肩の荷が下りたように大きく息を吐く。
「でも、バレちゃったかあ。うまくやったと思ったんですけどね。お見事です」
そうおどける阿賀田に、俺は重ねて訊ねた。
「あの預託依頼の手紙を書いたのも君だな」
阿賀田は動きを止める。頷くこともなく、目を細める。
「どうしてそう思われたんですか?」
「初めて会った日、名刺が切れてるとかでメモ用紙に名前を書いただろ? どっかで見た字だと引っ掛かってたんだけど、あれは布留川先生宛の手紙に書かれていた字と同じだ。あの後にもう一度見せてもらったから間違いない」
とは言っても筆跡鑑定のプロというわけでもないので、間違いない、とまで言い切るのは些かやりすぎな気もするが、ここは嘘でも堂々としていたほうがいい。
阿賀田は目を丸くする。それは俺の推理とも言えない半ば当てずっぽうの推論が的中していることを示していた。
「びっくりしました。まるで名探偵さんですね。
たしかにワンダラストの預託依頼の手紙を書いたのは私です。鳥取さんは祖父の古くからの友人でして。
ただあくまでも代筆しただけですよ、私は」
どこまで本当なのか。だが、ここで疑っても確認しようがないのだから意味がない。鳥取さんはすでに亡くなってしまっている。
「でも、失敗しましたね。まさかあの走り書きのメモ用紙を大事に保管してくださってるとは思いませんでした。名刺、できましたので差し上げますね」
阿賀田はカバンから革製の名刺入れを取り出し、名刺を一枚抜き出す。仰々しくこちらに差し出された名刺を片手で受け取った。
渡された名刺に目を落とす。
名前と電話番号。そして、フリーライターという肩書き。それ以外なにも書かれていない簡素な名刺だった。そこで違和感を覚える。
……フリーライター?
顔を上げると、悪戯がバレた子供のように阿賀田は笑った。
「実は大日スポーツの記者ってのも嘘なんです。いや、記者をしているってこと自体が嘘ですね。私、まだ学生の身分なので。それはちょっとした小道具ということになります。
初めてお会いした時は大日スポーツの記者を名乗ったのですけれど、名刺も用意できないしさすがにバレてしまうかなって。だからあの後はちゃんとフリーの記者を名乗っていますよ」
記者じゃない。
それであれば最初に会った時の違和感にも説明がつく、大日スポーツの記者どころかそもそも記者ですらないなら、トルバドゥールの去就など気にするはずもない。
だが、それだとまた別の大きな問題が浮上してくる。
「なんで記者でもないただの学生がトレセンに出入りしてるんだ」
トレーニングセンターは競馬という公営競技を運営するための重要な施設のひとつ。当然出入りは厳重に管理され、関係者以外が簡単に入構することはできない。競馬場の関係者エリアだってそうだ。それなのにこいつは我が物顔で闊歩している。
阿賀田はいつもと変わらぬ笑みを口元に浮かべた。
「さて、なんでだと思います? 是非唸るような名推理を聞きたいですね」
ワンダラストの全兄であるカムパネラの馬主の孫。
ワンダラストの預託依頼の手紙の代筆。
つまり、阿賀田はワンダラストにもカムパネラにも関係がある人物ということになる。そして、カムパネラの馬主も、ワンダラストの馬主もすでに亡くなっている。
まさか――
「――君がワンダラストの馬主なのか?」
阿賀田は満面の笑みを浮かべ、十分に勿体ぶったあとで、顔の前でぱちぱちと手を叩く。
「お見事。正解です。賞品として缶コーヒーをもう一本どうぞ」
そう言っていつの間にかその手に持っている缶コーヒー。それを俺は呆然と見下ろす。
阿賀田は思い出したように付け足した。
「あっ、でも馬主資格は持ってないですよ。私はいたって普通の女の子なので。前オーナーである鳥取さんから縁あって相続されたんです。相続馬限定馬主。ご存知ですか?」
曖昧に頷く。
受け取った缶コーヒーはすでにぬるくなっていた。
JRAで競走馬登録している競走馬がいる状態で馬主が死亡した場合、所有していた馬が路頭に迷わないために、いくつかの救済策が用意されている。たしか相続馬限定馬主もその救済制度のひとつだったはずだ。
だが、
「本当にワンダラストの馬主なのか? たしか今の馬主の名前は」
俺だって流石に乗る馬の馬主の名前くらい目を通す。今の馬主の名前は少なくとも阿賀田なんて珍しい名前じゃなかったはずだ。
阿賀田は得意げに鼻を鳴らす。
「今はレーシングネームというものがありまして。本名でなくとも馬主登録できるんですよ。なにぶん学生ですので、いい顔をしない方もおられますから。ですので尊敬する偉人の名前を拝借しました。
完璧とは言いませんが、よっぽど真剣に調べないと本名に辿り着くことは不可能です。まずバレることはありません。控えめな私にぴったりの素敵な制度ですね」
「……それで俺や布留川先生をだまくらかしてたってわけか」
ふふっ、と口に手を当てて阿賀田は笑う。
「いえ、残念ですが布留川先生はこちら側です。すべて知ってます。なんならこのひと芝居の台本も一緒に考えてもらいました」
掌の上で踊らされてたのは俺だけってわけか。阿賀田は控えめに頷いた。
「騎手である岸さんにあらためて説明するのも釈迦に説法かと思いますが、相続馬限定馬主は前オーナーがJRAで登録していた馬が現役の間だけなれる、期間限定の馬主なんです。とは言っても、亡くなられた時に登録していた馬はワンダラスト一頭だけだったのですけれど。だから、ワンダラストが引退してしまえば私は馬主ではなくなります」
「なんで記者なんて嘘までついて俺に近付いてきた?」
「記者というのは初対面の相手から情報を得る際にとても有用な肩書きですから。なにより私がワンダラストの馬主ですって近付いたら岸さんに警戒されちゃうじゃないですか。いえ、警戒されるだけならいいです。もし避けられてしまったら目も当てられません」
「バレたらどうするつもりだったんだよ」
ネタバラシを聞けば聞くほどにどこからでも綻びそうな杜撰なやり方だった。
「でも成功しましたよね? 今日までバレませんでしたし。堂々としていれば案外バレないものですよ。それに、いつまでも隠し通すつもりも元々有りませんでしたので。どのみちいつか本音で喋らなければいけなかったですから」
「それが、今日?」
阿賀田は静かに頷いた。
「それだったら余計な時間を取らせたね」
「いえいえ、答えを自ら導くのと与えられるのでは天と地の差がありますよ」
そこで阿賀田は一度黙り込む。そして、
「私は岸さんとワンダラストでダービーに出てほしいんです」
意を決したようにそう言った。
「それが本音で話したかったこと?」
「はい」
もう一度、今度はさらに力強く頷いた。
「鳥取さんはワンダラストに夢を託しました。だから、私は岸さんに夢を託したいんです。まだ夢がないのなら、私たちの代わりに追いかけてもらえませんか」
「……なんで俺がそんなことしなくちゃいけないんだよ。もうワンダラストには二回乗ってどっちも勝ったんだ。義理は果たしただろ」
そう、これで十分だ。これ以上、入れ込む必要はない。それに、どんな顔をしてあの場所で俺はワンダラストに乗るというのか。
じっとこちらを見る阿賀田から逃げるように目を逸らす。
「……こっちを見て言ってください」
阿賀田が静かに、だが有無を言わさぬ調子で言った。再び阿賀田の方を見る。目は、合わせない。
それに構わず、
「私は、そんな言葉を聞くためにここにきたわけじゃありません。それに、狡いと思います。そんなの」
俺のことを糾弾する。
「狡い? なにがだよ」
知ったような口を利く阿賀田にむかっ腹が立つ。お前に俺のなにがわかるっていうんだ。お前にカムパネラのなにが。阿賀田はさらに続けて、
「岸さんは、そうやってカムパネラを利用してるだけなんじゃないですか?」
俺が、カムパネラを利用している? 思わず阿賀田の顔をまじまじと見た。目が合う。
「いくら格好のつく理由をつけても、結局、逃げる理由がほしいだけなんですよ。岸さんは」
挑発するように睨みつけてくる瞳。熱くなる頭で、阿賀田に詰め寄る。
「お前な、言っていいことと悪いことが――」
「私には」
こちらの言葉に被せるように阿賀田は、
「私には、そうにしか見えませんっ」
阿賀田が突然声を荒げる。思わず気圧され、一歩退いた。荒い呼吸を整えると、唇を噛み、阿賀田は目を伏せる。逡巡。そして、僅かに震える声を絞り出した。
「カムパネラとの思い出は辛いものだけだったんですか?」
その言葉を言い終わると、阿賀田は顔を上げ、両の脚をしっかりと地面に踏ん張った。伸びた背筋。その目線はどこまでもまっすぐに俺を捉える。
その目の縁でどうにか留まっていたものが、一筋頬を伝った。
震える声で、
「ダービーではああいう結果になったかもしれません。でも、ホープフルステークスを勝って、皐月賞を勝って、その景色を一緒に見たカムパネラの思い出をどうしてそんな哀しい気持ちだけで塗り潰そうとするんですか。
岸さんの気持ちがわかるなんて軽々しく言うつもりはありません。……でもっ、……わからないですけど、信じたいんです。少なくとも私があの日見た岸さんはすごく楽しそうだったから。あれが嘘だったなんて、どうしても思いたくありません。
少しでも迷うならワンダラストにこれからも乗ってほしい。これがただのわがままだなんてこと、私だって子供じゃないんだからわかってます。でも、それでも、乗ってほしいんです」
荒々しく要領を得ない、らしくない話し方だった。ただ、出会って四ヶ月余りで俺は彼女のなにを知っていると言えるのだろうか。その正体に気付きもしなかったのに。しかし――、
気が付くと遠くの空で鳥が啼いていた。
どのくらい経っただろうか。遠くから人の声が聞こえてくる。いつの間にか夜が明けようとしていた。
調教コースの開場時間に合わせ、厩務員や調教師が続々と姿を見せる。布留川厩舎の面々が揃うのも時間の問題だった。
「……時間切れですね」
阿賀田が遠くを見やって小さく息を吐いた。こちらを振り向く。前髪がかかり、すっかり力を失った、焦点の合わない瞳。
「約束通りこれで最後にします。無理を言ってすみません。いままでありがとうございました」
そう言って、深々と頭を下げる。先程まであんなに堂々としていた姿がなんとも弱々しく小さく見える。
咲き誇っていた花がみるみる萎んでいくように。その姿は、年相応の弱さを持った少女そのものだった。
その姿から目を逸らす。
……これでよかった。これで終わりだ。なにもかも。
縁があればまたどこかでワンダラストに乗ることもあるだろう。だが、府中では乗らない。
そう、決めたんだ。
「……」
大きく息を吸い込む。そして、吸った空気を心の裡にこびりついた澱を剥がすように大きく吐き出して言った。
「記者の君にこれ以上話すことはない」
「……はい」
「――だから」
その言葉に、阿賀田が眉根を僅かに寄せてゆっくりと顔を上げる。不安げに揺れる目。
冷たい夜の空気を肺に満たす。
今度は俺が阿賀田をまっすぐ見る番だった。
「……だから?」
訝しむ阿賀田に、俺は告げた。
「阿賀田美鈴個人に、頼みたいことがある」
どこまでも深く暗い夜空。その南方の縁が白み始めていた。




