はじまりの手紙
やあ、いらっしゃい。
すまないね。急に呼び出したうえにこんな格好で。ああ、わざわざそんなものまで。気を使わなくていいのに。家内が来たら剥いてもらおう。
じゃあ、その前に終わらせてしまおうか。紙とペンはそこに用意してあるものを使ってくれ。……そんな暗い顔しないでくれよ。遺書を書くわけでもないんだから。
似たようなもんじゃないかって?
……そうだな。そうかもしれない。でもこうやって思いを形に残せるだけ私は幸せ者だ。人も馬もいつ死ぬかなんてわからないからね。思いを残そうと思ってこうやって誰かに託すことができる。それだけで今日の目的の半分は達成されたようなものだ。
今日君をここに呼んだ理由をしっかりと伝えていなかったね。代筆してもらう前に少しだけ話に付き合ってほしい。
カムパネラという馬を憶えているかな?
今から四年前の日本ダービーで三冠を確実視されながらも予後不良でその生涯を閉じた馬の名だ。日高の小さな牧場で生まれ、競りで買い手がつかずに主取りになってな。馬主資格があった牧場主がオーナーとして引き取った。
彼が言うには渾身の配合だったらしくてな。あの馬とあの馬のインブリードがどうとか。何代前にこの馬の血が入ってるから長距離も強いとか。一を訊いたら十返すどころじゃない。こっちがなにも訊いてないのに語り出したら止まらなかったよ。だから競りでカムパネラが売れ残っちまってからしばらくは文句たらたらだった。
だが、日に日にそれはカムパネラを褒めちぎる言葉に変わっていったよ。むしろ売れなくて良かったってな具合にな。親ばかというかなんというか。我が子同然、いやそれ以上だったかもしれない。暫くして私が売ってくれと言った時には頑として首を縦に振らなかった。気持ちはわかる。それほどにいい馬だった。私ですらいまだに夢に見てしまうことがある。
――だからこそ、ダービーで最後まで気丈に振る舞い安楽死処置を受け入れた彼のことを思うと心が引き裂かれんばかりだ。
二年前彼が亡くなり、経営していた牧場も跡継ぎがおらず廃業した時、牧場の繁殖牝馬たちをすべて買い取った。彼には長いこと世話になったからね。別に産駒が走ることを期待していたわけじゃない。……だがね、いたんだよそのなかに。
カムパネラの母馬が。
私にとってはカムパネラの記憶も少し薄れていた頃だった。だからこそ運命めいたものを感じたのかもしれない。私があの勇姿を後世に残さなければいけないんだとね。
あの時にもすでにカムパネラの弟や妹は何頭かいた。だが、父が違ういわゆる半弟・半妹と呼ばれるやつばかりだ。カムパネラと父母ともに同じ馬はいなかった。彼がそれほどカムパネラを特別視していたのもあるし、あの事故のあとは思い出すのも辛かったのだろう。その答えは今となっては想像することしかできないけどね。
だから私がやろうと、そう思ったんだ。
そしてカムパネラの全弟となる馬が今年生まれた。母馬が高齢だったこともあり、カムパネラが最後の一頭になった。まだ当歳だが、この馬は必ず競走馬として育て上げなければならない。
カムパネラほど勝てなくてもいい。けれどこの馬はあの場所で夢を繋いでいかなければいけない。人々に夢を見せなければいけない。そういう馬だ。
私はその頃にはおそらくこの世にいないだろう。だからこの馬をこれからを生きていく者たちに託したい。
そう思った矢先、不思議と君のことを思い出したんだ。皐月賞の口取りで緊張して撮影に臨んでいた君のことをね。あの頃はまだこんなまあるい眼鏡をかけてて、髪型も三つ編みのおさげだった。女の子の成長はすごいね。あの頃も可愛らしかったが、見違えるほどに綺麗になってびっくりしたよ。
そんなことでと思ったかい? でも君のことを思い出したらこの役目はどうしても君がいいと思ってしまったんだ。
君のお祖父さんが昔言っていたよ。カムパネラの名前は孫の名前から取ったんだ、とね。カムパネラはイタリア語で『小さな鐘』を意味する言葉。たしかに君の名前と同じ意味だ。そして君たちにとてもよく似合っている。とてもいい名前だ。
彼は期待の馬にカムパネラという名前を与えるくらいに、君のことを大切に思っていたんだろう。だから、この思いを君に託したい。彼があの馬に思いを託したように。
……ん? この馬の名前かい?
もちろんいい名前を用意しているよ。これからいろいろな出会いを経験するこの子にぴったりな素敵な名前をね。命という限られた旅路のなかで、私の代わりにきっといろんな景色を見てくれるだろう。
さ、話は終わりだ。準備はいいかい?
書き出しは……そうだな、『拝啓 お盆を過ぎても厳しい暑さが続くこの頃――』。
――よし、これでいい。書いたのを見せてくれるかい。
どれどれ、……うん、素晴らしいね。私が書くよりもずっといい。これなら彼らもきっと頼みを聞いてくれるはずだ。
そのペンを貸してくれるかい。ありがとう。今の状態で書くのは不本意だけれど、名前くらいは自分で書かないとね。
うん。じゃああとはこれを送るだけだ。
……なんだ、もう帰るのかい?
そうか。大学生だもんな。やりたいこともやらなければいけないこともたくさんあるだろう。忙しいのはいいことだ。
今日はこんな老いぼれのためにわざわざ時間を作ってくれてありがとう。今度は是非ご飯でもご馳走させてくれ。
それじゃあ、また会おう。




