「さよなら、カムパネラ」
♞
東京都府中市、東京競馬場。
空は抜けるような青。
時刻は十五時を過ぎた。七年ぶりの東京競馬場の装鞍所。すっかり変わったような気もするし、なにも変わっていないような気もする。
馬体検査や体重測定を終えた馬に調教師や厩務員が鞍やゼッケンをまとわせてレースの準備をしていく。ひとつ前のレースに出走している騎手も多く、俺の他に騎手は若いのが数人だけ。あからさまではなくても好奇の視線が向けられているのは嫌でもわかった。
「岸さん。これであってますか?」
馬を挟み相対して装鞍している布留川には訊かずにわざわざ振り返ってこちらを睨み、余所見をするな、というような強めの口調で阿賀田は言った。
「……ん、ああ、それでいいよ」
阿賀田は険のある顔で、
「しっかりしてくださいよ。いくら事前に装鞍の練習をしたっていっても本番は初めてなんですからね」
鞍から垂れ下がる託革を服帯の金具に繋ぐ。
「いや、でもさすがに上手いっすねえ。さすが元馬術部。実に上手い」
馬の手綱を握る田中がここぞとばかりに褒める。満更でもなさそうに笑って阿賀田はその賛辞を受け取る。作り笑いとその違いも最近になって少しわかってきた。
「ありがとうございます。でも、まさかバレットをやることになるなんて思いませんでしたけど」
そう言いながらこちらを横目で見てくる。曖昧に微笑んで受け流す。
阿賀田は服帯を締める手をひととき緩め、額の汗を手の甲で拭った。今日は普段の競馬場取材の時とは違い、半袖のTシャツにジーパンという動きやすい格好に「Valet」と書かれたゼッケンを着てヘルメットを被っている。
バレットは欧州では古くから一般的なレース当日の騎手の補助係のことを指し、騎手個人で必要に応じて契約をする。
レースで使う鞍をはじめとした馬具の準備や、パドックでの曳き役などを務めるが、日本ではまだ歴史が浅く雇っている者はまだ少数だ。かくいう俺もいままでバレットを雇ったことはなかった。
「なかなか似合ってるよ」
「当然です。私は可愛いので基本なんでも似合うんですよ。きっと勝負服を着ても岸さんより似合います」
「……そうかもな」
あの、と阿賀田は眉間に皺を寄せ不機嫌な声を出す。
「そんな顔されると私のほうが緊張してきちゃうじゃないですか。もっとどーんと構えてもらわないと」
「別に緊張してない」
「そういう時はですね、一度深呼吸するといいらしいですよ」
こちらの話を無視して、阿賀田は得意げに鼻を鳴らす。思わず苦笑して、
「どっかで聞いたことあるな、それ」
「聞いたことあるならちゃんと実践してくださいね」
そんな会話をしているうちにワンダラストの装鞍が終わる。赤褐色のゼッケン。そこに白抜きされた数字が目を引いた。なんの因果か、ゼッケンの馬番がカムパネラがダービーで着けていたものと同じだった。
阿賀田が怪訝にこちらの顔を覗き込んでくる。ゼッケンのこちらの顔を交互に見て、
「もしかして馬番気にしてるんですか? でも十八分の一ですからね。確率で五パーセントちょっとなら被ることもありますよ。珍しいですけど、絶対起きないって確率じゃありません。そんなことまで気にするなんて、少し繊細すぎではありませんか?」
「まあ、そうだけどね」
ゼッケン越しにワンダラストの体を撫でる。しっかりとしたいい筋肉をしていた。
しかし、気になるものは気になるのだから仕方ない。馬番、人気、オッズ、天気、芝の状態。ほかにもすべてがあの時と同じなのではないかと、そんな気がしてくる。
「……心配ですね」
顔を曇らせて阿賀田がつぶやく。
「パドックの曳き馬は田中との二人引きになるから心配ないよ。ああ見えて仕事はちゃんとしてる」
「いや、私のことではなくて――」
「大丈夫だよ」
阿賀田の言葉を遮る。自分に言い聞かせるように、
「大丈夫」
そう、言葉を繰り返した。
「――そうですね」
息を吐き出すように言って、阿賀田は一歩、二歩と跳ねるようにこちらに近づいてくる。そして、目の前でぴたりと止まった。前髪が夏の気配を感じさせる春風になびく。あらためて見ると綺麗な目だ。そう思った。
「きっと上手くいきます。なーんにも心配なんていりません。だって私自らこうやってバレットをやってるわけですし、なにより私は岸飛馬という騎手のことを一番の騎手だって信頼していますので」
そこまで言って、阿賀田は少し声を落とす。念を押すように、
「信じていいんですよね?」
言葉を付け加えた。
「……ああ。そうだな」
「それならよかったです」
阿賀田は満足そうに頷くと、握った右手をこちらに突き出してくる。今度はなんだ。まさかジャンケンというわけでもないだろうが。差し出された手をじっと見て固まっていると、阿賀田は焦れったそうに口を開いた。
「岸さんは私の力がどうしても必要らしいので、少しだけわけてあげます。特別ですよ」
それはそれは。
「ありがたいね」
そっと拳と拳を合わせる。思ったよりもずっと小さな手だった。
「――行ってくるよ」
「はい。ちゃんと勝ってきてくださいね。私、まだ岸さんのダービー見てないんですから」
……え?
「お前、来てなかったのかよ、あのダービー」
そう言われてみれば、たしかに皐月賞でしか見た覚えはない。てっきり来ているものだとばかり思っていたが。
阿賀田はきょとんとした顔をした。
「? 言ってなかったでしたっけ。まあ、いいではないですか。女は秘密が多いほど魅力的だと言いますから」
「……まだ隠してることがあるんじゃないだろうな」
「さあ、どうでしょう。詮索するのは野暮というものです」
阿賀田は悪戯に笑った。
まったく、こいつはどこまで本気なのか。
ふと横を見ると、田中が曳き綱を持ちながら、先ほどから首を左右に振り困惑の表情を浮かべている。なんでもないよ、とその背中を軽く叩く。田中は驚くというよりも、気の抜けたような声を上げた。これからパドックを先導するのにこんな調子で大丈夫だろうか。
――だがまあしかし、こいつも意外と人を見る目はあるのかもしれない。
ファンファーレが鳴り終わり、続々と馬が発馬機へと吸い込まれる。
カムパネラも静かに割り当てられたゲートへと収まった。
手綱を握る手が小刻みに震える。
こんなこといつ以来だろうか。
息を細く吐く。落ち着け。怖気づいたわけじゃない。これは身体が昂っているだけ。武者震いだ。きっとそう。
がこんっ、とゲートが勢いよく開く。
青葉賞。
東京競馬場左回り二四〇〇メートル――日本ダービーと同じ場所、距離――のレースが始まった。
第一コーナーへ向けて十八頭が直線を駆けていく。激しく打ちつける馬蹄の音。まだ三歳春。その若さゆえの荒々しさを身体中に感じながら、ワンダラストは後方で息を潜める。
逃げ馬はさほどペースを上げず、馬群は縦に伸び切らない。
ニコーナーを回り、スタンド向正面。五〇〇メートルを越える直線に入る。まだ前にはいかない。一〇〇〇メートルを通過した。レースは変わらずスローで流れていく。
最後の直線勝負。そこに向けて皆、脚を溜めていた。
左斜め前、大欅の姿が大きくなる。
第三コーナーの内ラチに守り神のようにただ静かに根を張る大欅。そこを通過して再び馬群は大きく弧を描く。
襲いかかる喚声。それは第四コーナーの出口、カムパネラが失速したあの場所がもうすぐそこまで近付いていることを示していた。
全馬スピードを上げていく。
ワンダラストに鞭を入れた。
カムパネラが失速したコーナーを――越える。目の端に一瞬、黒い影。
――カムパネラ。
その姿が見えた気がした。
ごめん。君は怒っているだろうか。でも、いまさら俺が君に言い訳することもない。するつもりも。
俺はこいつと、きっとダービーに出てみせる。あの日の続きを走ってみたい。そう思えたから。
四コーナーを抜ける。
想いも、過去も、なにもかもを振り切るようにスピードを上げた。
さよなら、カムパネラ。
目の前には直線。
どこまでも続いていきそうな長い長い道を、俺たちは往く。




