「蠍の火が燃えていますね」
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ワンダラストは初戦で見事勝利を飾ると、三月半ばに出走した二戦目の一勝クラスのレースでも危なげなく勝利を上げた。
年が明けて三歳デビューという不利を背負いながら、そのレース内容と血統背景から、最近はマスコミもこぞってワンダラストのことを取り上げている。今年のクラシック戦線における有力馬の一頭としても名前がしばしば挙げられるようになった。
当然カムパネラの全弟であり、俺が乗るということに目をつけた記者は一人や二人じゃない。
ワンダラストがクラシック争いに間に合うのかということはもちろん、俺がダービーに騎乗するのかという話題も負けないくらいに盛り上がっている――らしい。
「……遅いな」
布留川厩舎の大仲でひとりごつ。
布留川に呼び出されて来たわけだが、肝心の本人は、用事を思い出したすぐ戻る、と言って席を外してしまった。
時刻は深夜三時を少し回っている。調教トラックの開場時刻は六時。調教に出す馬の準備をするにしてもまだ少し早い時間なのに、一体何の用で席を外したのか。わざわざ呼び出した俺を置いて。
今日、布留川がここに俺を呼んだのはワンダラストのための説得、交渉のためだろう。
ワンダラストは現在日本ダービーに出走するための収得賞金ボーダーに届いていない。ダービーに出るためには、最低でももう一レース走る必要がある。それもただOPレースを選んで走るだけでは、ボーダーの金額次第ではせっかく勝ったとしても出走が叶わないなんてことも考えられる。そんなことになっては間抜けもいいところだ。
必然、ワンダラストの次走は賞金の跳ね上がる重賞レース、もしくは優先出走権が付与されるトライアル競走のどちらかになる。だがレース間隔と美浦トレセン所属馬であることを考えると選択肢はそれほど多くはない。
おそらく次走は、トライアル競走である青葉賞、もしくはプリンシパルステークスの二択だ。
青葉賞は二着まで、プリンシパルステークスは一着馬に、賞金額に関わらずダービーへの優先出走権が与えられる。勝てる能力は十二分にある。
問題はどちらも東京競馬場での開催レースであるということだ。
だから、俺がワンダラストに乗るのも前走で最後。ワンダラストから降りることは前回のレース終わりにも布留川に釘を差しておいた。
つまり、これはまったく時間の無駄なのだ。俺は東京競馬場では乗らないのだから。
欠伸を噛み殺す。
パイプ椅子の背にもたれかかる。椅子の前脚が地面を離れ、後ろ脚を支えにして前後にゆっくりと揺れる。壁に飾られたカムパネラの皐月賞の口取り写真が上下反転して視界に入る。その隣、ダービーのそれが飾られるはずだったスペースにはちょうどひとつ分のスペースが空いていた。
他の写真を飾ろうと思えばできたはずのスペース。飾られた写真たちは埃を被っておらず、定期的に掃除していることがうかがえる。あの空間はいい加減な管理の結果というわけではなく、意図的に空けられたものだということだ。
布留川の未練が長方形にすっぽりとくり抜かれている。
その時、
「お疲れ様です」
突然扉が開いた。不安定な体勢だったこともあり、危うくパイプ椅子から落ちそうになる。地面に叩きつけられた椅子の脚が、がちゃんっ、と大きく音を立てた。
そこで部屋に入ってきた驚いた顔の阿賀田と目が合った。俺はいたって平静に、
「……ノックくらいしたらどう?」
努めてスマートに振る舞った。阿賀田は困惑した後に、眉を寄せる。
「しましたよ? 私、そんなに無作法な女じゃあありませんので」
「……そう。気付かなかったな。で、なんの用できたの今日は? 残念ながらさっき先生は出かけていないよ」
「いえ、それは知っています。私が布留川先生にお願いしたので」
「お願いした?」
道理で人をこんな夜中に呼びつけておいてなかなか帰って来ないわけだ。
「なるほどね。これは君が描いた絵か。また取材かな? どうせなら昼下がりの洒落たコーヒーの美味しい喫茶店で、とかがよかったな」
阿賀田はにっこりと笑ってカバンからそれを取り出す。
「缶コーヒーでよければ。微糖と無糖、どっちがいいですか?」
「……。じゃあ、微糖」
「だと思いました」
阿賀田は笑って手に持った缶コーヒーをこちらに差し出す。受け取ると中身の熱がスチールを通して伝わってくる。
「準備がいいね。で、いまさらなにを知りたいんだか。散々取材は受けてきたと思うけど」
「いえ、このタイミングだからこそ岸さんに訊きたいことがあるんです」
無言で見つめる俺を見て、阿賀田は小さく吹き出す。
「そんなに警戒しないでくださいよ。――ちょっと外に出て話しませんか。今日は星がすごく綺麗なんですよ」
阿賀田に促されるまま、渋々外に出る。扉を開いた瞬間に吹きこんできた風に身をすぼめる。五月になろうとしているが、昼間は少し汗ばむようになったといってもこの時間はまだまだ冷え込む。
夜空を見上げると、なるほど阿賀田の言った通り、雲もなく澄んでいた。湿度がまだ低いからだろう。星もよく見える。
視線を横に向けると、阿賀田もまた南東の空を見上げていた。
「あそこで蠍の火が燃えていますね」
どこか嬉しそうに阿賀田がつぶやく。
「サソリの火?」
「ほら」
そう言って、阿賀田は天を指を差す。
「あそこの赤く光っている星が一等星のアンタレスで、それを中心に構成されているのが蠍座です。夏の星座なのでこれからが見頃ですけど、この時期だと明け方に南東の低い場所に見えるんです」
「それが蠍の火なのか?」
「はい。〝ルビーよりも赤く透き通り、リチウムよりも美しく酔ったようになって燃えている火〟。『銀河鉄道の夜』の中で、宮沢賢治はアンタレスをそういうふうに表現しています。
岸さんは知ってますか、『銀河鉄道の夜』」
阿賀田は小首を傾げる。
流石に存在は知っているが。子供の頃テレビで再放送していたメーテルが出てくるやつはまた違ったか?
「タイトルだけはな。読んだことはない。『雨ニモマケズ』とかは国語の教科書で見た気がするけど」
「ああ、それもいいですね。宮沢賢治って素敵ですよね。『よだかの星』とか『春と修羅』とかも好きです。その中でも『銀河鉄道の夜』は特に好きな小説なんですよ」
弾むような調子で阿賀田が話を続けた。よほど好きなのだろう。
「内気な少年ジョバンニが、親友であるカムパネルラと銀河を走る鉄道に乗って旅をするお話で。車内でいろんな人に出会っていろんな話を聞いていくんです。その旅の終わり、ふと気がつくと、銀河鉄道ではなくて丘の上でジョバンニは目覚めるんですよ。たった一人で。実は銀河鉄道の乗客はジョバンニ以外は死者の魂だったんですね。
そして、人々が集まっている河原に行くと、カムパネルラがいじめっ子のザネリを助けようとして溺れて行方不明になったことを知るんです」
憂いを持った顔をして、阿賀田は黙り込む。
「……それで終わるのか?」
「そうですね、まあ」
含みを持って阿賀田は頷く。
「この『銀河鉄道の夜』のテーマと言われているのが〝本当の幸せ〟についてです。それは自己犠牲であったり、他者への思いやりであったり。いろんな解釈がされているみたいですけど。
さっき話した蠍の火の話もそうですね。ある乗客が語る寓話で。『みんなの幸いのために私の体をおつかい下さい』そう願って蠍はその体を燃やし続けているそうです。
みんなの幸せのためなら自らを犠牲にしても構わない。なんとも立派な考えではないですか」
「……そういうのは好きじゃない」
思わず眉をしかめる。
誰かのために犠牲になることが本当の幸せであってたまるか。そんなものが。
「ですよね」
しかし、意外にも阿賀田は破顔し、明るく首肯した。
「私もそういう説教臭いのはよくわからないし、全然好きじゃないんです。それに、それって正しいことなのかなって思います。死んだら悲しむ人だっているんですよ。それなのにそれが本当の幸せです、って。それってどこか独りよがりの自己満足じゃないのかなって。そう思うんです。
その気持ちのすべてを否定するつもりはありませんけれど」
「だったらなんでそんな話が好きなんだよ」
訝しむ俺に、阿賀田はさも当たり前のように、
「綺麗だから、ですね」
と柔らかく笑った。
「は?」
綺麗?
「夜空に外灯。河や砂粒。そして星明かり。『銀河鉄道の夜』で描かれる世界はあまりに綺麗なんです。本当の幸せがどうとか、子供ながらに少しは真面目に考えたこともありますよ。でも、私が好きなったのはそういうのじゃないんです。ジョバンニが、カムパネルラが生きたその美しい世界そのものがどうしようもなく好きなんですよ。
――岸さん。実は銀河鉄道の夜って何稿か存在するんですけどどれも未完なんだそうです。知ってました? 私、昔読んだ時は知らなかったんですよね。哀しい終わり方だなって。そう思っただけで。でも、そう言われると色々考えてしまうんです。
ここで彼の物語は本当に終わったのかもしれないし、壮大な物語のまだほんのはじまりに過ぎなかったのかもしれない、なんて。そんな他愛もないことを」
阿賀田はそこで、はっと思い出したようにこちらに目配せする。
「すみません。つまらない話を長々と。本題に入ってもよろしいでしょうか?」
無言で話を促す。
阿賀田は短く息を吸い込み、こう言った。
「カムパネラの日本ダービーのことを教えてください」
力強くまっすぐと、だがどこか不安げに俺に向けられた瞳。カバンの紐を握る手に力がこもったのがわかった。
「……わかった。けど、これで最後にしないか? これを聞いたら密着取材は終わりにする。それが条件だ。それでもいいか?」
「……。わかりました」
阿賀田は覚悟を決めたように顎を引く。
すっかりぬるくなった缶コーヒーのプルタブを上げて、唇を湿らせるために一口含んだ。べたつく甘さが張り付く。
「じゃあ、話そうか」




