打合せ記録_美浦_20290329
●布留川二朗(53)調教師 十五時〇五分 場所:布留川厩舎事務室
やあ、首尾よくやってるかい?
岸君はなかなか曲者だろう? 昔はもう少しわかりやすい子だったんだけどね。ずいぶんひねくれた子に育ってしまった。出会ってから早十年近く。それだけ俺も彼も歳をとってしまったということなんだろう。嫌だねえ。身体とともに、気持ちも少しずつ老いていってしまうんだから。
まあ、とりあえず座りなよ。コーヒーは飲めるよね。砂糖――は、ないな。ミルク――もない。昔は飲む奴もいたから置いといたんだがな。
ブラックでいいかい? 悪いね。
まあ、ブラックも悪くないと思うよ。それなりにいい豆らしいから。はい、どうぞ。熱いから気を付けて。
岸君のことはもういろんな関係者から聞いてるんだろ? 咲島からも久しぶりに電話があったよ。変わった記者が取材に来たってさ。まあ、内容はほとんどそれを出しにした昔話だったけどね。今度飲むことになったよ。君のおかげだね。
……ごめんごめん、くだらん話ばかりでいけないな、どうも。
えっと、今日は来週の件だったか。
早速やろう。コーヒーが冷めないうちに。
――まあ、こんなとこだろう。問題ないはずだ。あとは当日だね。そういえば明日は来ないんだろう? 今日はこれから帰るのかい?
……少し時間があるから岸さんの面白い話はなにかないか、って?
ははは。熱心だねえ、まったく。もう結構君には喋っちゃってるし、今更俺が特段話すこともないけどなあ。
そこをなんとか? うーん、……ああ、じゃあこういうのはどうかな? ちょっとした小話程度のものなんだけどさ。
俺が預かる新人騎手や厩務員にはまず初めに必ずする質問があってね。
「君の夢はなにか」
って。そういう他愛ない質問だ。抱負みたいなもんだね。
どういう夢を持ってホースマンとしての生活を送っていこうとしているのか。それが知りたくてね。モチベーションがなくても成果を出すのがプロだが、自らを奮い立たせる目標があるに越したことはない。そうだろ? ご褒美がある方が人間頑張れるもんさ。
たとえばG1の勝利だったり、日本ダービー制覇だったり、リーディングの獲得だったり、自分の厩舎の開業だったり。いろいろな夢があったな。みんなここから巣立って行ったけど、今も頑張ってるよ。夢を叶えたやつだってもちろんいる。
当然ながら岸君にもこの質問をした。彼、なんて言ったと思う?
「特にないです。勝てればそれで」
そう言ったんだ。そんなの当たり前でしょ、と言わんばかりの顔で。
さすがにびっくりしたよ。何年か経って現実を知った騎手が自嘲気味に言うようなことを真面目な顔で言ったんだからね。柄にもなく少し心配してしまったよ。この子は騎手として大成するのは難しいかもしれないとね。
だってそうだろ? ゴールの見えないマラソンほど辛く厳しいものはないし、五里霧中では進むべき方向が合っているのかもわからないんだから。
でも、彼と付き合っていくうちに少しずつ気付いた。あれは夢がないとか、情熱がないとか、そういうものじゃないんだってことにね。
目の前の勝利。それが彼の中でなによりも価値のあるもので、渇望するものだったんだ。
勝たなければ競走馬は生きていけない。
勝たなければ騎手は食っていけない。
だから当然勝利を求める。
勝負の世界における勝利という絶対的な正しさ。それをどこまでも希求する。進むべき道も、その方角も誰よりも確固としたものがあった。そしてそれを押し通してしまう才能が彼には与えられていた。
ノッキンオンハートとカムパネラという名馬に立て続けに出会えたこともそれを後押ししたんだろう。彼はより一層勝つことにこだわっていったよ。二年目にして東西の騎手リーディングで全盛期の那須君に迫る勢いだった。
俺も素直に嬉しかった。自分のところで預かってる騎手だからさ。すごい騎手が来てくれたと思ったね。
……でも一抹の不安もあったよ。
その純粋すぎる姿勢、勝負に対する潔癖さはいつか自分を苦しめてしまうんじゃないだろうかって。そう、思ったんだ。
今の岸君を見るに、その不安は的中してしまったかもしれないね。
今の彼がつまらない騎手になったとは言わない。でもね、あの頃の彼はもっと俺たちをわくわくさせてくれるような、そんな騎手だった。それだけは憶えておいてほしいんだ。
……そうだ、よければ君に教えてほしいことがある。
君の目には今、彼の姿はどう映ってるのかな。




