「質問はひとつだけです」
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ワンダラストのデビュー日を迎えた。
昨夜の天気予報の通り曇りなき晴天。明け方まで氷点下に冷え込んだため、しかし日差しの暖かさを感じることはない。
中山競馬場第五レースに行われる三歳未勝利戦。距離は二二〇〇メートル。デビュー戦としては少し長い距離になる。人がまばらなパドックでは、出走するサラブレッドたちが等間隔で回る。
暫くすると騎乗命令がかかった。騎手が一斉にそれぞれの馬のもとへ散っていく。騎手控室からちょうど一番遠いところで待つワンダラストのところへ向かうと、なにやらそわそわとした様子で茶髪の若い厩務員――田中が物言いたげに曳き綱を握っていた。
無視して馬に乗ろうと鞍に手をかけると、
「き、岸さん」
田中は意を決したように身を乗り出してきた。鼻息がかかる。それを軽く手で押し退け、
「……なんだよ」
「今日、絶対勝ってくださいねっ」
田中はやけに肩に力が入っており、パドックだというのに声を抑えきれていない。曳き綱を持つ手にもずいぶん力が入っている。まだ若く有力馬を扱ってきていないからだろうか。これでは馬が緊張してしまう。
「心配しなくてもレースで手は抜かないよ」
しかし、普段はすかした奴だが、年相応に緊張してなかなか可愛いところがあるものだ。
「今日のレース勝ったら阿賀田さんに連絡先教えてもらえるんです! だから、お願いしますっ!」
前言撤回。
なんで俺がこいつのために恋のキューピッド紛いのことをしなければいけないんだ。馬鹿馬鹿しい。仕事をなんだと思っている。第一、女の趣味が少し良くないのではないだろうか。
必死の形相で俺に拝んでくる田中を冷ややかに睥睨する。
それも馬鹿らしくなってパドックに聳え立つ電光掲示板に目を移した。ワンダラストの現在のオッズは――三・一倍。僅差の二番人気だ。未勝利戦ということもあり、レース経験がある馬が多く走るなかで、初出走でこの人気は流石はカムパネラの全弟というところか。
しかし、
「つまらない賭けに乗ってくれてよかったな」
「え? つまらない賭け? それどういう意味ですか、岸さん」
「そんなのは自分で考えろよ」
そう言ってワンダラストの背に飛び乗る。
出走時間まで三十分を切っていた。
「おめでとうございます。流石でしたね」
レース後、顔馴染みである細面の男性記者が開口一番そう言った。なにが流石なのか、別に俺がどうというわけでもないだろうに。どう答えたものかと考えていると、
「しかしあんなに強いだなんて。五馬身差の完勝でした」
……ああ、そっちか。
しかし、この結果自体は驚くものでもない。それほど他馬とは格が違った。今日こいつに賭けた奴は運がいい。おそらくこのオッズでこの馬に賭けることができるのは今日が最後だろう。
そんな事を考えていると、ゴール後の検量室前で周囲が引くほどにはしゃぎ、アホ面を晒していた田中の顔が思い出された。俺のささやかな名誉のために主張させてもらうが、断じてあれのために勝ったわけではない。
「馬が強かったですね。乗ってるだけで勝てました」
「またまた謙遜を。この強さ、やっぱりカムパネラを思い出しますか? あっ――」
記者はそこでわかりやすくしまったという顔をして、気まずそうに目を泳がせる。当然の質問だ。ワンダラストはあのカムパネラの全弟なのだから。訊く相手を間違えただけだ。
「どうしょう。ご想像にお任せしますよ」
こいつが石を投げれば当たるような平凡な馬であったらどれほどよかっただろうか。この馬はたぶん、ダービーに出れてしまう。
その後いくつか質問が飛んだが、どうにもぎこちない空気のまま取材は終わった。
取材を終え、地下道を厩舎地区に向かって歩いていると、
「質問、いいでしょうか?」
自称・鈴の転がるような声に背後から訊ねられる。思わずため息をついて振り返ると、阿賀田が後ろ手に手を組みこちらに笑いかけていた。
それを無視して前に向き直る。止めていた足を再び前に進めた。
「よくない。今日は疲れたから終わりだ」
構わず後ろをついてくる阿賀田。カルガモでもあるまいし。
「それは困りましたね。独占密着取材なのに。じゃあひとつだけにします」
「話聞いてたか?」
足を止める。阿賀田が俺を少し追い越したところで遅れて止まり、つんのめった身体を軽く捻ってこちらを上目遣いで見た。
「ワンダラストはダービーに出れますか?」
思わせぶりな割にはつまらない質問だと思った。そこらの記者連中と変わらない。なんならさっきの質問でも似たようなことを訊かれた。
「愚問だな」
「それは、聞かれるまでもなくワンダラストは強い。という意味での愚かな質問ということでしょうか」
「愚か者の質問って意味だよ。今そんな質問になんの意味もない」
「……。どういうことです? ちょっと傷ついちゃいました」
阿賀田はむっとして唇を尖らせる。悪くない気分だ。
「強い馬であることはダービーに出るための必要条件だが十分条件じゃない」
「私、数学苦手なんですよね。岸さんはご存知ではないかもしれませんが、女の子は数学よりも甘い誘惑、πよりアップルパイのほうが好きなんですよ」
お前が勝手に女の子を代表するな。それに男だってアップルパイのほうが好きな奴のほうが多いだろうに。
「難しいことなんて言ってない。いくら強くても賞金の積み上げが間に合わないなら足切りってことだよ。ダービーに出るなら収得賞金換算でだいたい一六〇〇万は欲しいところだが、今日の勝利で加算されるのはその四分の一の四〇〇万。残り四ヶ月、レースの選択肢や出走できる数だって限られるなかで残りを稼がなきゃいけない。デビューが遅いってのはそれだけ不利なんだ」
「へえ、そうなんですね。とても勉強になります。――では」
こちらが本題だとばかりにもったいぶった物言いで、
「もしワンダラストがダービーに出たら乗るのはもちろん岸さん、ということでいいんですよね?」
大きな瞳がこちらの顔を覗いてくる。心の裡まで見透かそうとするようなその眼から視線を外し、
「俺は乗らない。……質問はひとつだけじゃなかったのか?」
俺は淡々と質問に返した。阿賀田はわざとらしく口元に手を当てる。
「ああ、これはいけません。つい気になってしまいまして。今度から気をつけます」
「……お前さ、この取材の目的はなんなんだ?」
「もちろん、岸さんの素晴らしさを余すことなく記事にすることですよ」
阿賀田は平然と嘯く。
「訊き方が悪かったな。こそこそ俺のことを嗅ぎ回ってるみたいだけどなんでそんなことをしている? 目的はなんだ?」
阿賀田は少し悩ましげな表情で唸った後、悪戯に笑い、
「だめですよ」
その淡いピンク色の唇にピンと立てた人差し指をそっと当てた。
「質問はひとつだけです」
ですよね? とひと呼吸置いて付け加え、わざとらしく小首を傾げた。




