Chapter 1-(3) 二年越しの再会
日はまだまだ沈む気配はない。それでも時刻は十七時となった。京安駅にはスーツを着た人たちの姿が見受けられ始め、多くの人が帰路につき始める時間だ。
京安駅の出口にある大きな時計台に身を預けて拓斗はその時を待っていた。自分の汗が暑さから来るものなのか、緊張から来るものなのか分からなくなる。鼓動も早く、小刻みに震えて地面に立っている気がしない。
いつもなら早く感じる四時間が、今日は永遠のようにも感じられた。お母さんと離れていた二年の方が短く感じるほどだ。
その空白もついに今日で途切れる。拓斗は無理やり落ち着こうと大きく深呼吸をした。
「ふう……」
そして大きく息を吐きだす。何だか心が若干軽くなったような気がする。
「拓斗?」
すると、拓斗の前方から柔らかい声がした。顔を上げると、目の前に久しぶりに見る女性の姿がある。長い髪を後ろで束ねた簡易的な髪型と、ぱっちりとした瞳に懐かしさを感じ、少し呼吸が早くなっていく。
「え? いつの間に?」
「ついさっきよ」
笑いながらその女性――お母さんはハンカチで汗を拭った。仕事柄、おなじみのリクルートスーツであることから、今日も出勤していたのだろう。今日という日はそんな日常の中での出来事なのだと思うと可笑しかった。
二年ぶりに会うお母さんは正直老けているんだろうなと思っていた。しかし、実際は半分正解で半分不正解だ。年を取ったようにも若返ったようにも見受けられる。年齢は重ねているけども、最後に見た母親の姿よりは幾分、表情に充実の色が出ている。
「久しぶりね。大きくなったね、拓斗。やっぱり男の子は中学生から背は伸びるね」
「俺は周りに比べるとあんまり大きくなった感じはしないけどなあ」
「ふふふ。子どもの二年は大きいのよ。十分、大きくなってるわ」
普段気にすることがないから分からないが、実際に拓斗も身長は一五センチメートルほどは伸びており、お母さんの記憶の中の拓斗とは別人に映っていることだろう。
「とりあえず涼める場所に行きましょうか。喫茶店でいい?」
お母さんは拓斗より少し前に出て歩を進める。拓斗は無言で頷いて、久しぶりのその背中を追った。
お母さんと歩くのは懐かしいというよりは新鮮という感情の方が自然な表現のように思えた。以前に一緒に歩いたときはその姿を見上げていたのに、今は同じ目線の高さになる。いつも存在していた風景なのに、一度も見たことのない光景が少しむず痒い。
こうして会ってみると、本当に二年間は空白だったことを痛感する。会話をしながら拓斗を見るお母さんの目は、少し様子を伺っているようである。お母さんはお母さんで、この時間に緊張しているようだ。
京安駅から歩くこと五分程度。あまり広くはないものの、木目調の店内が特徴的な喫茶店に二人は入った。客は一、二組いるだけで、静かな雰囲気を醸し出している。
拓斗はコーヒー、お母さんは紅茶を注文して向かい合う。
「よく銀二さんが私の再婚相手だって分かったね」
「うん。一回、二人が一緒にいるところを見たから」
「そうなの? 全然気づかなかった」
ウエイトレスがそっとコーヒーと紅茶を置く。お母さんは何も入れず一口紅茶を飲んだ。
「それで、今日はどうしたの?」
お母さんはミルクを拓斗に渡しながら微笑んだ。拓斗は小さくお礼を言ってコーヒーにミルクを入れる。じんわりと薄茶色に広がっていく様を見ながら細く息を吐いた。
「お母さんは、家を出て行ってからどうしてたの?」
連絡手段も途切れ、知り得なかったあれからの母親。そして、宮葉家内の騒動の裏で、彼女はどう動いていたのか。全てが謎のままだ。
お母さんは意識を誤魔化すように何も入れていない紅茶を混ぜている。ティースプーンを茶皿に置くと、静かに口を開いた。
「お父さんが変わってしまってからは、訴訟資料の整理とか言って家に帰る時間は減らしてたわ。家でやればいいことなのに、わざわざ図書館に通い詰めてね」
当時の拓斗はお母さんの帰りが遅いのは仕事の都合だと思っていた。もしかしたら、宮葉家がバラバラになり始めたのは、お母さんがお父さんを避け始めたことがきっかけだったのかもしれない。
そして図書館に毎日顔を出していれば相田さんと顔馴染みになるのも当然だろう。夜は子どもがいない分、図書館利用者も減る時間帯だからだ。
「それで銀二さんと仲良くなっていって、お茶をする仲になって。家での悩みも聞いてもらっているうちに惹かれてしまったの。……もしかしたら逃げたかっただけなのかもしれないけどね」
家での仕打ちを考えれば、逃げるという選択肢が一番に出てくるのは自然だ。自分が弱っているところに精神的に支えてくれる人が現れたのなら、お母さんが相田さんに好意を持ったのも理解できる。やはり相田さんがお母さんを連れ出してくれたのは、寂しいけどプラスのことではあったようだ。
「私は家を出る決意をした。あの時はとにかく必死だったわ。お父さんから離れたい。頭にはそれしかなかった。拓斗たちを残していくのは心苦しかったけど、もうどうにも止められなかったの。……本当にごめんなさい」
お母さんは深く頭を下げた。母親がこんな風に息子に謝罪するというのは、もう本当に自分たちは本来の親子じゃないことを思い知らされる。
しかし拓斗はお母さんの言ったことが想像していたことと大体一緒であったため、驚きというものは少なかった。
それでも少し期待していた言葉はお母さんからは聞けなかった。やはり、宮葉家を出て行く時に拓斗たちのことは浮かんでいなかったようだ。
「いや、いいんだ。お母さんは今、幸せみたいだし。あのまま宮葉家にいたら命が危なかったかもしれないし」
お母さんが出て行ったことの反動でお父さんは落ち着きを取り戻した。もし逃げていなかったらお父さんは終着点を見失ったままだったかもしれない。
「拓斗は優しいままね」
「それは俺以外の三人に相応しい言葉だよ」
きっかけも掴めずに行先を見失っていたのは拓斗自身だ。だからとても褒められたような生活はしていない。それでもお母さんの言葉は嘘偽りのない本心だろうから困る。
「……お父さんは元気にしてる?」
「え?」
「ちゃんと仕事は見つけたの?」
その言葉を聞いたとき、目の前が霞んでいくような感覚が襲った。お母さんは話の流れで拓斗たちの近況を聞こうとしただけだろうが、拓斗は驚愕して一瞬戸惑ってしまった。
お母さんはお父さんがまだ拓斗たちと一緒にいると思っているのだ。お父さんが家を出て行ったことを知らない。二年も顔を合わせないということは、そんなに空白が生じるものなのか。
拓斗たちとは一緒にいなかった。それをダイレクトに伝えられた気がして心が寒くなる。
「お父さんは……一年前に出て行ったよ」
「え?」
「本人に聞いたわけではないから本当のことは分からないけど、たぶん借金取りから逃げるために」
面食らったお母さんはどうしていいのか分からずに視線を落としていた。
「それで、拓斗たちはどうしていたの?」
「お母さんがお金を残してくれていたから、贅沢はできないけど困りもしなかったよ。悠馬兄ちゃんもアルバイトでお金を稼いでくれていたし」
「……ごめんなさい。そんなことになっていたなんて」
「なってしまったことは仕方ないよ」
本当はお父さんにも、お母さんにも、連絡を取って助けてもらいたかったが、どんなに文句を言ったところで連絡手段がない事実は変わらなかった。
そしてお母さんの謝罪の言葉にホッとしている拓斗がいた。一応、悪かったとは思ってくれていたのだ。
ただ、お母さんが家庭内暴力から抜け出して、新しい家族と幸せに暮らしている。それは自分にとって嬉しい事実であるはずなのに、素直に喜ぶことができない。その噛み合わない心の衣が濡れて張り付いているようで気持ち悪かった。




