Chapter 2-(4) 勝利への野心
羽花は晴れた顔で倉庫の横から出た。ミラアと話したのはほんの数分だったが、羽花の心の錘を外したかのように軽くなった。動いてはいるけど重く感じた足も今は軽やかに地面を蹴っている。
確かに羽花には親がいない。それはどれだけ嘆いても変わらない事実だ。でも自分と一生懸命に戦ってくれる悠馬たちを思うと足取りは更にスピードを増す。
早くみんなと会って謝りたい。そして、一緒に運動会を頑張ってくれるみんなにありがとうと言いたい。何がどう捻じ曲がっても、悠馬たちは大好きなお兄ちゃんとお姉ちゃんなのだ。
グラウンドが見えてきて更に嬉しさが込み上げてくる。上がってくる息に逆らうように走り続ける。
しかし、グラウンドに足を踏み入れようとしたその時、側方から夏場の汗のように纏わりつく声がした。
「まさか兄妹で出るとか。笑っちゃうぜ」
建物に身を預けるようにして立っていたのは厄田くんだった。その隣には相変わらず厄田くんについている付男くんもいる。
それに対して羽花は相手にしようとしなかった。今ここで言い返して揉めても悪い方向に転じるだけと、怒る心を抑えて悠馬たちの方へ帰ろうとする。その羽花が気に入らなかった厄田くんは露骨に舌打ちをして、わざとらしく大きな足音を立てて近づいた。
「無視してんじゃねえよ!」
荒々しい声を上げて厄田くんは羽花の足を思い切り踏んだ。その瞬間に足から全身に伝達するように激痛が走る。
羽花は顔を顰め、反射的に足を押さえた。すると靴の白地の部分からじわりと赤色が広がっていく。その痛々しい光景を目にした厄田くんは満足気に羽花に背を向けた。
「あーあ、そんな足じゃ走れないな。兄ちゃんたち可哀想だなー」
わざとらしいその言い草に羽花は何も言い返せなかった。ひどく腹立たしかったが、足の痛みがそれを掻き消してしまう。
厄田くんが去った後の静寂が気持ち悪い。遠くで聞こえる運動会の歓声が虚しい。足を押さえたままの羽花は涙を堪えるので必死だった。
このまま走れなかったら、駆けつけてくれた悠馬たちの気持ちはどうなるのだろう。悠馬たちだけでなく、急遽代役を探さなければいけない他の人たちの苦労も過る。
「……っ!」
羽花は痛みを堪えて立ち上がった。地面と足が接触するたびに激痛が走るが、構わずに悠馬たちのところへと歩を進めて行く。
きっと悠馬たちが羽花と同じ状況になったら諦めないだろう。痛みなど理由にせずに結果を求め、全力で戦うはずだ。たった五年の人生だけど、子どもながらに羽花は悠馬たちがそういう人物だと分かっていた。ずっと悠馬たちの背中を見てきたのだから。
悠馬たちは卑怯な手なんか使わない。人を傷つけるようなことも言わない。そんな強い人たちだ。
「絶対に……負けないもん……」
羽花もそんな兄たちを追いかけるべく、足を引き摺ってグラウンドへと戻った。周囲の賑やかな声など一切無視して、たった数人の家族の元へ。
☆
羽花は痛む足を引き摺って悠馬たちの元へと戻ってきた。時間は結構進んでいたようで、羽花の姿を見つけた悠馬たちは安堵した様子だ。
「遅かったな、羽花。大丈夫――」
と言いかけたところで悠馬は口を噤んだ。不自然に動いていない足からは血が出ており、羽花の白い靴を赤色に染めている。
慌てて悠馬は羽花のところに駆け寄り、怪我をした足を動揺しながら見つめた。
「どうしたんだよ、これ……」
「えへへ、ちょっと転んじゃって」
転んだにしては怪我が大きすぎる上に、ピンポイントで足の甲だけを傷ついているところから悠馬にはそれが嘘だと分かった。しかしそれを深く追求しようとは思えない。こんな怪我をしているのに、何故かここ数日の暗い羽花が消えているのだ。それが不思議で悠馬は一瞬だけ思考が停止した。
靴を脱ぐと、靴下は更に赤く染まっていて見るだけでも痛々しい状態だった。羽花は冗談っぽく見せて笑っていたが、歩く度に激痛が走っているのが顔に出ている。
エンスがティッシュで止血しながら状態を見てくれているが、当然ながらあまり良くないらしい。
「これはまた派手に転んだね」
エンスもそれは嘘だと分かっているだろうが、敢えて羽花の言うことに乗った。
しかし、羽花に合わせて笑ったのも束の間、すぐに真剣になって目を伏せた。
「これは親子リレーは辞退した方がいいかもしれない」
出たい気持ちは山々だが、この判断は仕方ない。歩くことさえ痛くて辛いのに、全力で走るなど怪我を悪化させるだけだ。エンスの言ったことは至極真当なことで、悠馬も悔しい気持ちを噛み締めながら頷いた。
「……出たい」
羽花は少し肩を震わせながら言った。
「気持ちは分かるが、このまま走っても羽花の足が悪くなるだけだ。残念だけど――」
「負けたくない人がいるの」
羽花の眼差しは真っすぐにエンスの目を貫いていた。その目に揺るぎはなく、ここ数日の暗かった瞳には光が宿っている。
それに押されるようにエンスは黙った。この判断は自分が下すものではないと思ったのだろう。エンスは悠馬たちの方へ視線をやった。
「じゃあ、出よう」
最初に口を開いたのは拓斗だった。無理して出場させたくない。でもこのまま辞退というのも心苦しい。そんな狭間ですぐさま答えを出した拓斗も羽花のように迷いはない様子だ。
「たぶんだけど……ここで走らないのは後悔すると思う」
「……本人が出るって言ってるんだし、私は羽花が言うようにすればいいと思うよ」
結希も羽花の意思を尊重する旨の発言をする。二人は黙って悠馬の方へと視線を向けた。
無理はさせたくない。止血するために羽花の足を押さえるティッシュはすぐに赤色に染まって、その度に新しいものに交換されている。我慢できそうと傍目からは思えないのだ。
それでも羽花の目に揺るぎはない。一緒に走って欲しいと視線だけで伝えてくる。
「……分かった。出よう」
その返事に羽花は顔を晴れやかにした。
「私は正直、反対だよ。この足の状態で走らせるのは無理がある。でも、本人たちがそう言うのなら止めもしないさ」
エンスは変わらずに羽花の足を押さえながら苦笑いした。どう言っても羽花たちの意思は動かないと諦めているのだろう。
「だが、少なくとも応急処置は受けておくべきだ。救護室に……行ったら止められるかな」
「あ、じゃあ私の救急箱を使えばいいじゃないですか」
先程からカメラの写真整理をして黙っていたアリアがひょいと鞄の中から木箱を取り出した。真ん中には小さく赤十字のマークが印刷されている胡散臭い救急箱だ。
「アリアさん、何でそんなもの持ってるんですか?」
「羽花ちゃんに何かあった時のために」
あくまでも当然というような真顔で答える。日に日に犯罪という言葉が似合ってくるアリアだが、今回ばかりは助かった。
救急箱の中は割と充実しており、包帯やテープも新品状態で保管されていた。まさかこの運動会のためだけに買ってきたのではと悠馬は疑ったが、今は羽花の足の治療が先と考えを振り払う。
羽花の足の出血はエンスのおかげで何とか止まった。その上から包帯を軽く巻いてテープで止める。靴はところどころ赤色に染まったままだが、包帯やテーピングをしていることは外部からは分からない。最小限の処置にしたため、羽花も足が動きやすそうだ。
「みんな、ありがとう」
羽花は少し足を気にしながらお礼を言った。その微笑みには朝のような暗さはない。
「絶対に勝ってくる!」
グッと拳を握って羽花は入場門の方へ身体を向けた。その小さな背中の後方に悠馬が立つ。二人は無言で視線を交わして駆け出した。




