Chapter 2-(3) 自分にあるもの
「あー! 勝てなかったー!」
そう大きな声で吐き出して拓斗はシートに倒れ込んだ。今日まで欠かさずに練習を積んでいたため、相当悔しいのだろう。タオルで顔を覆って呼吸を整えながら、
「すまん、羽花」
と呟いた。負けたことを羽花はそんなに責めないだろうと悠馬は思ったが、拓斗が申し訳なく思う気持ちは何となくだが共感できる。
「でも、ナイスファイトだったよ拓斗お兄ちゃん。そんな頑張った君には……これをプレゼント!」
そんな風に元気のない拓斗に対して、結希はタオルを取って拓斗の口に強引に何かを入れた。拓斗は抵抗もできずモグモグとそれを噛み締める。すると急に晴れやかになり、勢いよく身体を起こした。
「これは、俺の大好きなピーナッツバターおにぎり!」
「そう! 拓斗お兄ちゃん大好きだったから作ってみました!」
甘いものが好きな拓斗は今でこそどんな具でも食べられるが、幼い頃は甘いものばかり食べたがる子だった。そんな拓斗に対してご褒美としてお母さんが作っていたのがピーナッツバターおにぎりだ。正直これは拓斗しか食べられず、悠馬も結希も、そして羽花さえも苦手なものである。
久しぶりのピーナッツバターおにぎりに感動した拓斗は、すぐに元気を取り戻して勢いよく食べ始めた。
「おにぎりにピーナッツバターか。斬新だね」
不思議そうにエンスは眺め、一口ピーナッツバターおにぎりをかじった。するとみるみるうちに顔色が悪くなり、持参していたお茶で無理やり流し込んだ。
そのまま無言で隣のアリアに渡し、アリアも食べてみたがエンスと同様の反応だった。やはりこれは拓斗にしか合わないらしい。
「今日は頑張って色んなものを作ってきたから、みんないっぱい食べてね!」
結希は鞄の中から大きな弁当箱を三つ取り出した。一つには普通のおにぎりがぎっしりと詰められている。おかずには羽花の大好きなものがたくさんあった。デザートにもフルーツがたくさんあり、今朝からの頑張りが伝わってくる弁当だ。
ピーナッツバターおにぎりが堪えていたのか、みんなすぐに普通のおにぎりを手に取って食べ始めた。シンプルな塩だけのおにぎりが身に染みる。これこそがおにぎりというものだった。
しかし、羽花はその輪に入らず、靴を履き始めた。
「どうしたんだ、羽花?」
「あ、ちょっとトイレに行ってくる」
「そうか」
羽花は小走りでグラウンドから出て、昇降口の前まで来た。
しかし、そこで足はピタリと止まる。そして羽花は建物内には入らずに、倉庫などが立ち並ぶ場所で密かにしゃがんだ。
羽花は深い溜息を吐いて顔を下げる。
想像はしていたけど、親子競技は大きな盛り上がりを見せて、周りの友達もみんな楽しそうだった。速かったお父さんには賛辞を送って、遅かったお父さんには笑って冗談を言う。そんな光景が眩しくて仕方なく、あの場所にいるのが何だか息苦しくて仕方ない。
そして何より、自分のために頑張ってくれている悠馬たちの姿が見ていて悲しかった。きっと羽花のことを思って来てくれているのだろう。それは痛いほど分かるが、今の羽花には寂しさを加速させるだけだ。
もうこのまま隠れて運動会をサボってしまおうか。そんなことまで頭に過っていた。
「トイレじゃないのね」
ナーバスな状態でボーっとしていると、突然声がかけられて羽花は驚いた。
知らない間に羽花の目の前にはミラアがいた。透き通った水色の髪が涼しい風に靡いている。
「ミャアちゃん……どうしてここに……」
「羽花の様子が変だったからよ」
「変?」
「何だか元気がない」
ミラアは無言で羽花の隣にしゃがんだ。
羽花としてはミラアに言われたことには驚いた。自分では落ち込んでいることを隠せているつもりだったが、ミラアにはばれていたようだ。いや、ミラアにも分かるなら悠馬たちも既に見破っているかもしれない。見破った上で、こうして元気にさせようとしてくれているのだろう。
「私ね、同じクラスの子に親がいなくて可哀想って言われたの」
羽花は自然と口が動いていた。自分が気にしていることの渦中にいない人になら話しやすいと本能的に脳が思ったのだろう。
「お父さんとお母さんがいないのが全く寂しくなかったことはなかったよ。やっぱり、みんなお父さんとお母さんがいるのに私だけいないのは寂しかった。でも悠馬お兄ちゃんたちがいるから寂しくもなくなっていってたし、お父さんやお母さんのことも忘れ始めてたの」
羽花の目には薄らと涙が溜まり始めた。
ミラアはそれをただじっと眺めて、羽花の話に耳を傾けている。
「でも改めてそんなこと言われるとやっぱり寂しかった。悠馬お兄ちゃんたちは、お父さんやお母さんじゃないんだもん」
そしてついに堪えきれなくなり、涙が地面に落ち始める。乾いた地面に二つ三つの水玉が出来上がる。
悠馬がどんなにアルバイトでお金を稼いでも、拓斗がどんなに遊んでくれても、結希がどんなに家事をこなしても、三人は羽花にとって兄弟なのだ。親の代わりとしては見られない。だから今日の親子競技も何だか悲しかったのだ。
「そうね。確かに親がいないことは辛いわ」
何かを思い出したかのようにミラアは俯いた。それでも、目にはしっかり光が宿っている。
「でも、羽花が言ったとおりよ」
「え?」
「私がそうだったように、羽花には悠馬たちがいるわ」
「それはそうだけど……」
「親がいなくなってしまったのはどれだけ泣いても変わらない事実よ。だからこそ、今の自分に残っている人を見つめることが大事だと私は思うわ」
「うう、子ども相手にそんな話するんだね、ミャアちゃん」
「子どもでも羽花という人と話してるもの。当然よ」
それはミラアが実際に体験してきたことだ。大好きだった親に捨てられて絶望の淵に立たされたが、自分を大切だと言ってくれる人が新たにできた。これまで過ごしてきた父との時間が感情を束縛していたが、徐々にそれは解かれて行き、ミラアは前向きに今を生きている。
そのミラアの真剣な話を聞いて羽花は思い返してみた。親がいなくなったとき、悠馬はすぐにアルバイトを初め、何とか今を凌ごうとした。結希はお母さんの手伝いを思い出して家事を全部担当した。拓斗は道に大きく逸れてしまったが、家族を何とかしようとした結果だった。
みんな寂しくて悲しかったはずだ。それでも羽花に心配をかけないように隠してくれていたのだ。それは決して子ども扱いなどではなかった。
今日も結希は朝早くから弁当を作ってくれて、拓斗は全力で走ってくれた。悠馬もこの後、リレーを一緒に走るため、あまりない時間を削って練習してくれている。
「だから羽花だけは悠馬たちの行動を否定してはいけないわ。それこそ、両親のことを言ったクラスメイトの子と同じ立場になる」
知らない間に羽花は、親じゃないからと悠馬たちを切り捨てていた。そんな考えをしていた自分が恥ずかしくて、腹立たしくて、羽花の目には更に涙が溜まる。
でも、それが零れ落ちることはなかった。今ここで羽花ができることは、悠馬たちと全力で運動会を楽しむことだ。
そして真正面から「自慢の家族だ」と言い張ることだ。
羽花は立ち上がり、空を見上げた。雲一つない青い空が心を溶かしていくような気がした。
「ありがとう、ミャアちゃん! 私、頑張る!」
「期待してるわ」
屈託のない笑顔を浮かべて羽花はグラウンドへ走って行った。
その姿をミラアは少しだけ頬を緩めて見守っていた。




