Chapter 3-(2) 心の中の存在感
ここが苺と母が遊んだ最後の場所――それは母が死んだ場所だということを意味していた。
苺は今にも泣きだしそうだった。楽しい思い出も辛い思い出も、全てこの場所に詰まっているのだ。たぶん、それほど心苦しいものはないだろう。大好きだけど大嫌い。二度と来たくないけど何度でも来たい。その乱雑に絡んだ心の鎖は簡単に解けない。
「……ごめんね悠馬君。ちょっと私、しんどいや」
傍で黙っていた悠馬にそう言い残して、無理やり笑顔を作って拓斗や結希たちの方へと歩いて行った。まだ小学生なのに、彼女の背中は様々な人生経験があるように重いものをいくとも背負っているようだった。
「悠馬お兄ちゃんも!」
苺が来たと同時に結希が、一人その場で立ちつくしている悠馬に声をかける。振り向いた苺は笑顔だった。屈託のない笑顔だった。
悠馬はこの時、一旦この悩みは払い捨てて皆のところへ走った。川は澄み切って、魚も活き活きとしていた。
☆ ☆ ☆
「それからは深く聞いていない。本当に聞かれたくないことだろうし、思い出したくもないだろうから。結果的に今もこうなってしまっているわけだし……」
ここまでが悠馬が知る限りのことだった。お母さんの死を苺が殺したという理由は分からない。それは苺――そして父のみが知る事実なのだろう。
「それまたなかなか深刻だね。小学生からそのようなことで悩むとは大変としか言いようがない」
エンスはただ静かに佇む病室のドアを見ていた。普段、あまり感情を表に出さないエンスだが、今回は明らかに悲しそうな表情であった。まるで自分のことのように。
「すまないが仕事があるので私たちはこれで失礼するよ。目が覚めたらよろしく伝えてくれ」
エンスは隣にいたミラアの手を引いてドア付近まで歩いた。ミラアは慌てて出てきた影響でパジャマ姿のままなのである。ついでに一緒に帰るのだろう。
「俺らも帰るか。しばらくはお父さんも苺といたいだろうしさ」
「そうだね。帰って待っとこう」
結希も悠馬に賛同し、羽花も連れて一旦帰宅することにした。苺の部屋からは何も聞こえてはこなかった。
病院から出たとき、病室では何も喋らなかった義三が口を開いた。
「悠馬、盆はどうするんだ? 橋森に来るのか?」
「お父さんは分からないけど……行こうとは思っているよ。行く機会も少なくなってくるし」
「いや、涼一は来ないだろう」
「まあ、そりゃあ来ない……え?」
その言葉を聞いた瞬間に悠馬は物凄いスピードで首を義三のいる方向へ向けた。悠馬の驚きとは反対に義三は何気ない通常の佇まいでいる。
悠馬の父親――涼一は春に出ていった。そのことは宮葉四兄弟とエンスくらいしか知らないはずだった。
「少なくともわしは知っておるぞ。涼一が逃げたことは」
「そうだったんだ……」
「隠すのが下手すぎるわ」
義三は近くにあったベンチに腰掛け、結希と羽花に三百円を「ジュースでも買ってきなさい」と言って手渡した。二人は喜んで自動販売機がある方へ走っていき、姿は病院内へと消えた。
義三は悠馬に、隣に座るよう催促した。それに従って座り空を見上げてみると、嫌になるほど青かった。
「あのバカ息子が。子どもたちを捨てて逃げるとは何を考えておるのか……」
その後も「だから妻に逃げられる」とか「大体あいつは昔から――」と愚痴を言い出せば切りがなかった。しかし、悠馬には怒っているというよりは悲しそうに見えた。
自分の息子の人生が悉く悪い方向へと行ってしまっているのだ。怒るよりも悲しかったり心配したりするのは普通だろう。
「……悠馬」
「何?」
呼びかける義三の声は覇気がなかった。次々と浮かんでくる涼一への不満を言い尽くしたのだろうか。
「お前は、涼一が嫌いか?」
義三は見つめるのは地面の一点のみ。話しかけている本人ですら見ようとしなかった。
ついこの間までの孫娘たちへのデレデレしたお爺さんはどこかに行ってしまっていた。今は本当に息子のことしか考えていない父親の姿だった。
だからこそ、義三の質問は重く悠馬の心にのしかかった。
「……嫌いだったよ」
「そうか」
義三は望んでいた答えじゃなかったかもしれない。でも事実である。確かに、悠馬は自分の父親が嫌いだった。
「会社をリストラされてから驚くくらい性格が変わってさ。お母さん殴るし、借金までして煙草に酒にギャンブル。羽花なんて借金取りが怖くて何度泣いたことか」
「…………」
「お爺ちゃんの言ったとおりだよ。あんな人、お母さんに逃げられて当然だ。あの人がいることに家族には何の利点もなかったから」
思い出すだけでも嫌な気持ちになってくる。本当にあの時は楽しいことがなかった。受験勉強だと言い張って帰りをわざと遅くしたことも多かった。
「おまけに最終的には子どもを捨ててどこかに行ってしまうんだから……どうしようもないよ」
「……そのとおりだな」
言った義三は更に深く腰を曲げて地面と顔との距離を縮めた。認めたくない。その心がどうしても残っている。
「……だけどさ、いざ四人で暮らすことになったら、お父さんもお父さんなりに頑張っていたんじゃないかなって思うようになったよ」
実際に母に逃げられてからは真面目に就職活動をしていた。何とか辛い今から抜け出そうとしていたのだろう。
「お父さんだってリストラされて、どうしたらいいか分からなかっただろうし。羽花の送り迎えとか家事は結希が協力してくれるから何とかなっているけど、自分が今までどれだけ親に甘えていたかっていうのは、お父さんがいなくなってから理解したね」
義三は黙ったまま地面と睨めっこしている。
「だから、大嫌いだったのは前の話だよ。もう俺は許している。どこかに逃げたのは本当に困るけど、お父さんはお父さんで必死で考え出した結論なのかもしれないし」
羽花がずっと怖がっていた借金取りは一切来なくなった。家庭内暴力と借金といった問題は今の宮葉家にはないのだ。おそらく、涼一が抱えたまま逃げ回り、どこかで真っ当な解決方法を実行しようとしているのだろう。
「……確かに殴られたこともあったし、仕事を探そうともしない姿勢にイライラしたこともあった。だけど、俺がもっと小さい時に遊んでくれたこともよく覚えててね。それはもう、人生で一番って言っていいくらいに楽しかったよ」
一緒に公園で鬼ごっこをしたり、買い物に出かけたり。遊んだことを挙げれば切りがない。楽しい思い出も溢れるほどある。
「まあ、色んなことがあったけど、たった一人の父親だしね」
「……そうか」
ようやく義三は顔を上げ、今度は正反対に空を見上げていた。それから、楽しそうに笑いながら悠馬たちの方へ向ってくる結希と羽花に視線を移して優しく微笑んだ。
「最後に一つ、聞いていいか?」
「うん、何?」
「お前に子どもがいたとして、そいつがとんでもなく悪いやつで、行動はお前に迷惑をかけるものばかり。それで、お前は子どもを嫌いになるか?」
「正直、子どもなんて考えたことがないからよく分からないけど……嫌いにはならないと思う。迷惑を他の人にかけないように言うかも」
「なるほど……」
義三はゆっくりと腰を上げ、軽くを伸びをしてから、
「それが分かっていれば十分だ」
と言って結希と羽花を迎えた。
悠馬は何のことだか全く分からなかったが、二人じゃなくなった途端に話をやめたということは、結希たちには話すことではないらしい。悠馬は何も聞かず、一緒に帰り道を歩き始めた。
(……お父さんとお母さん元気かな)
久しぶりに、家族のことを思いながら。
☆ ☆ ☆
帰宅して日も沈み始めたころ、宮葉家の電話が鳴り響いた。発信源は公衆電話となっている。受話器を取ると、スピーカー部分からは落ち着いた男性の声が聞こえる。苺の父親であった。
苺の意識は回復し、落ち着いて過ごしているらしい。体にも異常はなく、悠馬は安堵した。
すると電話の主は苺に代わった。いつもの元気な声を聞いてより安心感は増す。
『心配かけてごめんね』
「いやいや、無事で何よりだよ」
精神状態も今はかなり良いようであった。晩御飯を食べ終えてやることがなくて暇だ、と笑いながら言っている。
『それで、みんなに言ってくれたの?』
苺が言うことは、もちろん彼女に起こった過去の話のことだろう。悠馬はどこかまた悲しい気持ちになりながらも「うん」と呟いて続けた。
「俺が知っている限りのことは話したよ」
『私って悠馬君にどこまで話したっけ?』
「どこまでって……」
『大丈夫大丈夫。今聞いて倒れたりしないから』
「その……お母さんが亡くなった場所があの川だってところまで」
『なるほどね~』
そのあと、しばらくの沈黙が続く。悠馬はやはり口に出すべきではなかったと後悔した。そもそもこのことを言おうとしたのが原因で倒れたのに迂闊だったと。
しかし、電話の奥の苺は変わらない調子の声で話し始めた。
『それじゃあ、一つお願いがあるんだけど、良い?』
「うん。何?」
『橋森に来て一緒にお墓参りしてくれない?』
「うん、良いけど……」
『あと! 真菜ちゃんも誘っておいて!』
「……何で? 白花も盆は忙しいだろうし、この話を知らな――」
『いいから! じゃあね!』
一方的に電話を切られ、耳ではツーツーと空しい音が響くだけだった。
苺の行動は勝手だと思うかもしれないが、それほどに回復しているのだという安心もまたあった。約束どおり、悠馬は真菜に連絡をしようとした。
「……よく考えたら白花の連絡先、知らないな」
若干、悲しい気持ちになりつつも、苺へ「連絡先を知らないから、負担かけて悪いけど病院の外に出てメールしてくれ」とメッセージを送った。