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俺たちの関係はずるずると続いた。
どういう交渉をしたのか、三島はまだ俺の家に居座っていたし、父はといえば三島とは口も利かなかった。
一定の距離を保ったまま生活は行われ、いびつな加害に耽溺する俺たちを、止められる人は一人もいなかった。
夜の自室だけで行われていた行為が、少しずつ外へ漏れ出すのは時間の問題だった。
気が付けば生物室とか、駅のトイレとか、そういう『見つかったらなんの言い訳もできない場所』で行われる加害が増えていった。
三島の身体には少しずつ傷が増えていって、俺はどんどん憔悴していった。いつも身体が重く、気持ちが打ち沈んで、現象にずぶずぶと飲み込まれた自分が、嫌で仕方なかった。
行為のたび、嫌だとすがって抵抗して、それでも三島は聞いてくれない。交渉はいつも俺の敗北で終わり、必ず血が流れる。それでも諦められなくて、頼むからと何度だって懇願する。三島は笑って俺を無視する。そういうことばかりが、ずっと繰り返されていた。
──コッ、と音を立て、生物室の床にコンパスが落ちた。
熱っぽい三島の息が、はあっ、とくちびるに吹きかかる。
俺は息を切らせてぐったりしていて、三島が満足げに頬を撫でてくるのに、ちっとも抵抗できなかった。
「っ……は、はあ、はっ……」
どくどくと心臓がうるさい。興奮の余韻が抜けなくて、でも、頭の芯は死にたいほどの自己嫌悪で冷えている。目の前の三島から逃げるように逸らした視線の先、床の上では血で濡れたコンパスが転がっていた。
三島の手が、無造作にそれを拾い上げる。指先でつんつんと針の先をつついて、赤黒く濡れたそこに目を細めた。ふふ、と笑い声。
「さっきこれを出したときの、おまえの顔。面白かった」
「……そう、かよ……」
「すごい顔だった」
当たり前だ。だってこんなの、あまりにも悪趣味だ。たまたま美術で使っただけの文房具を、こんな用途で使うなんて思わないだろう。明日から、どういう顔でこれを使えばいいんだ。
はっ、はっ、と浅い息を繰り返す俺をよそに、三島はさっさとまくった袖を戻す。立ち上がると、コンパス片手に俺のペンケースを開けた。その目が、あ、と嬉しそうに見開かれる。
「ちゃんと大事にしてるんだな」
指先がつまみ出したのは、血の汚れで薄くけむった青いピアスだった。ゆるゆるとうなだれる。死にそうな声でああ、と返した。三島が笑う。
あんなにいらないと思ったのに。引きちぎったピアスは、結局捨てることができなかった。
ペンケースに入れっぱなしの、赤黒く汚れた青色が、いつふたつに増えるかわからない。まるで悪い呪いのようだと思った。
「もう──嫌だ」
椅子の上で頭を垂れて、瀕死の声を絞り出す。「またそれ?」と三島が呆れたような声を上げた。
ジッ、とペンケースの口を閉じる音。近寄ってくる足音と、すぐ前の椅子に腰を下ろす気配。目の前に影が落ちてくる。
まだ残るかすかな血の匂いに、ぞくっ、とした。それがもう、嫌だった。
今までに何度となく思った言葉が蘇る。もう嫌だ、たくさんだ、もうこんな風に生きていたくない。繰り返し、繰り返し脳裏をめぐる言葉は、俺の内側にひたひたと絶望を満たしていった。
「頼む……もう、俺を解放してくれ」
「……」
あまりにもひどい声に、三島がかすかに黙り込む。うなだれた俺の前に、痩せた手が伸びてくる。頬に触れかけた指先を、力なく払い除けた。つまらなさそうなため息。
「じゃあ、心中でもする?」
「っ……なんでそうなるんだよ……」
ずっ、と鼻をすすった。目頭がじいんと熱くなって、鼻の奥がつんとする。三島が呆れたように息を吐いた。泣き虫、と小さな声。
これが泣かずにいられるか、と思う。俺にとってこの男が、大切にしたかった、幸福になるべきだった、唯一の存在であることに、変化なんてちっともない。
そんな人を俺は、自らの手で、爪で、持ち物で、何度も傷付けているのだ。いくら乞われたからって、耐えられるはずがない。
「心中とか……冗談でも、言うな」
「冗談じゃなかったら、いいの」
「冗談じゃなくても、言うな……」
「ふうん。まあ、いいけど」
どうせ本気になったら、口に出そうが出すまいが同じだし。軽い口調でそう言われて、ずしっ、と胸の底が重くなる。
その通りだ。もしも三島が本気で俺と心中しようとしたとして、俺は抗えるかどうか。自信なんてひとつも持てない。それが余計に心にきた。
ゆるゆると顔を上げる。なあ、と三島に呼びかけた。
「頼む。もうやめよう」
「……」
三島は俺を見もしない。こんなこと駄目だ、と呼びかける俺に、彼は小さくため息を吐いた。
「それ、宗像が言う?」
「俺に言う資格がないことくらい、わかってる……でも、ほんとに、これ以上続けたら──」
「殺しちゃいそう?」
かくり、と頷いた。三島がふーっ、と息を吐く。
「いいのに」
「良くない」
「まあ、残された宗像が困るのはわかるけど」
「そういう、ことじゃない……」
俺はただ、おまえを終わらせたくないだけなのに。どうして、わかってくれないんだ。
ひどい気持ちで口を開いて、なんでだよ、と絞り出す。三島がふっと黙った。
「なんで、こんなこと望んだんだよ……」
掠れた語尾を最後に、長い沈黙が降りた。遠くで部活の掛け声と、空梅雨のゆるい風が木々を揺らす音。
三島がぽつりと言う。
「……今さら、答えたところで意味ないだろ」
「それでも、教えてほしい」
「気が乗らない」
「頼む」
「嫌だ」
「お願いだ」
「……しつこいよ、今日のおまえ」
「だって俺には、おまえがわからないんだ」
「そんなの、どうでもいいだろ」
「──っ、良くない……!」
ぐっ、とこみ上げたものは、あの痛切で、泣きたいような、やるせないような、切なくて深い情動だった。
顔を上げて、三島を見つめる。
「ちっとも、良くなんかない」
「……っ」
「今のおまえの考えてることが、俺にはまるでわからない。それが、すごく──苦しいんだ」
「そんなの──」
俺の必死さに、三島がかすかに視線を逸らした。くっ、と喉を詰まらせて、硝子レンズ越しの瞳がかすかに伏せられる。
わずかな沈黙を挟んで、歪んだ口元から、静かな声がした。
「──俺だって、わかんない」
それはぽつりとした、頼りない声だった。
夕暮れの電車でもたれあって、小指ひとつですがりあった時を思い出した。急激に切なくなる。
「三島」
呼びかけに、彼は返事をしなかった。ただ黙って、じっと目を伏せている。
その姿がいつもの悪魔じみたものじゃなく、ただの心許ない未成年に見えるのは、俺の願望なんだろうか。
「おまえのことを教えてくれ」
「だから、わかんないって言って──」
「なんでもいいんだ。話してくれ」
「っ……」
三島がかすかに息を呑む。すがるように畳み掛ける。
「俺は、おまえを知らなかった。だから」
話をしよう。傷付けあうのではなく、もつれあうのでもなくて。
向かい合って、俺はおまえと話がしたい。
俺の必死の呼びかけに、三島はどこか痛いみたいに目を細めた。
表情を固くして「いやだ」と小さくつぶやいている。
すぐ傍で向かい合った椅子、正面の三島の手を、そっと握った。「やめろよ」とかすかな声。そのくせ、三島は俺を振りほどかなかった。
「おまえはわかりやすいから、ちょっと見れば全部わかるって、ずっと思ってた」
でもそれは俺の傲慢で、ただの錯覚だった。だって、こんなにわかりたいと思うのに、俺はいま、ちっとも三島がわからない。
「頼む。本当のことを話してくれ」
「……そんなの、意味なんか」
「無意味でも、バカみたいでも、そんなのもうどうでもいい。俺は──おまえの話が聞きたいよ」
「っ──」
握った手、その中で、三島の指先がぴくんと動いた。
俯いた前髪の隙間で、眼鏡の奥の瞳が揺れている。息を殺した三島の、とても控えめな呼吸音。
長い静けさのあと、窓の外でざわ、と大きく風が鳴った。ひときわ強い音が通り過ぎて、また静かになる。
視界の隅、窓ガラスの向こう側で、遠い空へと鳥が二羽、もつれあうように飛んでいく。しいん、とした静寂。
ものすごく長い沈黙のあと、
「……無駄だったんだ」
ぽつっ、と声が落とされた。
俺は握った手にかすかに力を込めて、うん、という意を込めた。三島は俺を握り返さない。そのまま肩を落として、うつむいて、彼はぽつぽつと話しはじめた。
「俺は──なんにもない人間だ。空っぽの、くだらない、誰の目にも留まらない、それだけの」
そんなことはないと否定したかった。でも、いま余計なことを言ってしまえば、三島が心を閉ざしてしまう気がした。
「誰も俺を見なかった。母さんも父さんも、他の人も、みんな」
教室の片隅で、タブレットに顔をうずめて、誰とも話さなかった姿を思い出す。
クラスメイトの顔と名前を数日で把握するはずの俺でさえ、三島の名を知ったのは机を蹴り飛ばされたときだった。熱が出ても吐いても倒れても、彼は親にすら気付いてもらえなかった。
「俺は頭だけのつまんない人間で、それすら、おまえに敵わない」
思わず目元が歪んだ。
ただ〝完璧〟を装うだけで、誰かを傷付けることがある。そんなこととっくにわかっているつもりだった。それでも、実感が改めて胸を刺した。
「でも、別によかったんだ。俺には知識があったから」
「知識……」
俺もそう思う、と言ってくれた言葉が蘇る。あのとき、俺はたしかに嬉しかった。今ならばそれがわかる。俺のように三島もまた、知識にすがっていたのだろうか。
「いくら現実が嘘みたいでも、知識だけはリアルだから。俺のことを、ここに留めてくれるから」
だけど、と続く声はかすかに震えていた。握りしめた指先が頼りなくて、俺はぎゅっと力を込める。三島はますます俯いて、声を詰まらせた。
「知識は、俺を裏切らない」
「っ……」
それは俺が何度も唱えてきたのと、まったく同じ言葉だった。かすかに息を呑む俺に気付かずに、三島は震える声を落とす。
「そう思って頑張ったよ、ずっと。でも」
ゆるゆると顔を上げた三島の表情は、ひどい無力感と虚無で塗りつぶされていた。
眼鏡越しの瞳いっぱいに諦念が満ちていて、泣くことすらできない、真っ暗い絶望がそこにはあった。
「ぜんぶ無駄だった。最初からなんにもなかった。俺はただのバカで、現実が見えてない子供で、本当のことを知らなかった」
かすかに、本当に少しだけ表情を歪めて、三島が言う。
「なにをやっても無駄だった。それが心底わかったから──俺は知識を裏切ったんだ」
期末考査のあと、頬を腫らした三島を泊めた夜を思い出した。
俺が知識を裏切った。心許なくベッドに座って、ぽつりとつぶやいた言葉には、そんな意味があったのか。
じわじわと、感情がこみ上げてきた。
三島の言葉が、繰り返された無駄という単語が、俺の中に強い情動を呼び覚ます。
──ぜんぶ無駄だった。
短すぎるセンテンスに込められた強烈な無力感が、痛いほど伝わってくる。
三島はきっと、ずっと耐えてきたのだろう。誰も自分に気付いてくれない中で、いつかなにかが実を結ぶと信じて、必死で知識にすがってきたのだろう。それなのに。
無駄、というたった二文字に、どうしようもない虚しさを感じる。なにをしても、どんなに頑張っても、すべてが無に帰すだけならば。彼がこんな風になってしまうのも、仕方がないと言うのだろうか。
(でも、でも俺は──)
握った手を、そっと持ち上げた。呼びかけのように軽く揺らす。
三島がそろそろと俺を見上げた。虚しさとやるせなさでいっぱいになった、不思議な色の瞳。
「もう、やめよう」
「え──」
丸くなった瞳に向けて、懸命に呼びかける。なあ、とすがるような声を上げ、俺は三島の手を握りしめた。
「まだ引き返せる。時間なんか止めなくていい。一緒に戻ろう」
握った手がぴくっ、と動く。三島の表情が、静かに歪んだ。
目の前の肩が震えて、下を向いて、ほとんど侮蔑、みたいな掠れた声が絞り出される。
「っ……バカじゃねえの……?」
「三島」
本当の、本心からの言葉だったのに。三島はまるでひどい嘘を投げつけられたみたいな顔で、ぎっ、と俺を睨んだ。
「おまえが、それを言うのかよ」
ぐっ、とひるむ。たしかに、三島をその手で傷付けている俺に、こんなことを言う資格なんてないのかもしれない。それでも。
「それでも俺は──」
「そもそも、おまえなんかに出会わなきゃ、俺はこんな風にならなかった」
「ッ……!」
まっすぐに放たれた言葉は、刃物みたいに俺の中心を刺し貫いた。言葉をなくした俺に、三島はますます顔を歪める。
「なにが引き返せるだ、一緒に戻ろうだ、ふざけんな……! おまえが俺から取り上げたんだろうが。たった一つの取り柄も、信じていたかった嘘も、留まっていたかった理由も、ぜんぶ」
ほとんど八つ当たり、みたいな口調だった。それでも、言い返すことができない。
三島の言葉は本当だった。俺が何気なく彼から奪っていったものは、彼にとって唯一の、自分を留めるための錨だったのだ。いくら知らなかったからといって、俺が彼を追い詰めたことに変わりはない。
「三島、俺は──」
後悔で表情が歪んで、謝罪の言葉が口をつきそうになって、でも。
「おまえの言葉なんか、もう一言もほしくない」
「ッ……!」
冷え切った拒絶が胸を刺した。三島は表情を歪めたまま、侮蔑的な笑みを浮かべる。
「俺の血に興奮してる男の『傷付けてごめん』の謝罪なんかに、どれだけの価値がある?」
ぐっ、と喉が鳴った。その通りだった。思わず目を逸らして、当たり前の罵倒から逃げる。視界の端で、三島が手を振りほどくのが見えた。かたっ、と立ち上がる音がする。
痩せた指で、ぐっ、と顎を持ち上げられた。無理やり顔を近付けられる。視線を逸らそうとした瞬間、逃げんな、と声が飛んできた。
恐る恐る目を合わせる。三島は怖いくらい冷めた目をして、淡々と俺を見下ろしていた。硝子レンズ越し、眼差しがすうっと細くなる。
「……つまんないよ、おまえ」
ほとんど断罪みたいに言うと、ふっ、と投げるみたいに顎から手を離す。思わず顔が横を向く。じくじくと痛む胸で、顔を歪めた視界の隅。三島の腕が目に入った。
長袖の白いシャツに、ぽつんと赤い円がにじんでいる。ついさっき、コンパスで刺し貫いた跡だった。
罪悪感と欲望が俺をぐしゃぐしゃにする。ぞくぞくする感覚と、今すぐすべてを放り捨てて謝罪したい気持ちがないまぜになる。
逃げるように目を閉じた。侮蔑じみた音で鼻を鳴らして、三島が椅子に座り直す音が、がたっ、と室内に響いた。




