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かたかたとキーボードを叩く音。マウスのクリック音。
静まり返った夜の部屋に、それだけがかすかに響いている。
あのあと、気まずい空気のまま家に帰った。なんとも言えない雰囲気の中、食事と風呂を済ませて、俺たちはこうして自室に落ち着いている。
背後では、三島がぼんやりとベッドに座っていた。俺は机に向かって、本やネットから知識を詰め込んでいる。いつもの光景、いつもと同じ配置だった。
ちら、と背後を見やる。ベッドの上、壁にもたれかかって、三島はなにをするでもなく中空を見つめている。
文字のない夜はとても長いから。かつて聞いた言葉が思い浮かんだ。
実際、三島はいつも夜の時間を持て余しているようだった。
昼間や夕方なら、掃除だの片付けだので気を紛らわせることもできるだろう。だが、夜はそういう訳にもいかない。夜の三島はいつも、所在なさげにぼうっとしているばかりだった。
三島のことが気にかかる。だが、放課後に揉めたばかりなこともあって、どうにも声をかけづらい。逃げるように視線を逸らした。室内が目に入る。以前より物が増えて、雑然とした自室。
三島は親のいない時間を見計らって、自宅から私物を持ち出しているらしい。自分の物以外がどんどん増えていく室内に、いつまでこんなことが続くのだろうと思った。
こんな生活、いつまでも続かないことくらいわかっている。
だが、どういう終わりを迎えるにせよ、それが健全で明るいものだとは、どうしても思えなかった。俺か三島か、あるいは両方が、破滅する未来しか見えない。
ため息を押し殺して机に向き直った。本や画面を行き来して、知らない知識を咀嚼していく。
それでも脳内にはどうしても三島のことがちらついて、気になって仕方がない。ため息をついた。
ちら、ともう一度三島を振り返る。ベッドの上で膝を抱えて、眼鏡越しの静かな眼差しが、膝頭を見下ろしていた。脚を抱く腕、指先を絡めては解いて、所在なさげな様子だった。
目元が歪む。なんとなく見かねて、声を上げていた。
「……することないなら、本でも読めば」
ぴくっ、と三島の肩が動いた。そうっと視線が持ち上がって、硝子レンズを隔てて視線が交わる。
俺は口元に力を込めて、
「文字のない夜は長すぎるんだろ」
少し早口でつぶやいた。三島がごくわずか、眉根を寄せる。なにを考えているのかわからない表情だった。もどかしくなる。
俺は椅子を鳴らして立ち上がると、本棚から一冊の本を引っ張り出した。いつか三島が好きだと言った作者の、量子力学の本だった。つい先日出たばかりの新刊を片手に、ベッドに歩み寄る。
「ほら」
「……」
「つまんないなら戻せばいいから」
強引に手に持たせて、俺はかすかに顔を歪める。
どうせ三島は読まないだろう。それでも、俺の意志くらいは伝わる。戻ってきてくれ、時間なんか止めないでくれ、前みたいに、誠実で懸命だったおまえに帰ってきてほしい。そんな気持ちを込めて、ぎゅっ、と本を握らせた。
三島はそっと手元を見下ろして、本、と小さくつぶやく。それ以上はなにを強要することもできず、俺は頷いて机に戻った。かち、とマウスを鳴らす。
しばらくして、背後で人が動く気配があった。ぎし、と鳴るベッド、立ち上がった三島の足音が、ぺたぺたと壁に近付いていく。
そろりと振り返れば、三島が本棚の前に立っていた。指先が、並んだ本のいちばん端、放置されていたタブレットに触れる。三島の、母親から買ってもらったそれだった。
三島は静かな顔でタブレットを引き出すと、ぎゅっと胸に抱えた。かつてよく見た仕草だった。静かな瞳が画面を見下ろしている。
読む──のだろうか。
よくわからない、泣きたいような感覚が胸を打った。ほっと息をつく。
あまり見られては読みづらいだろうと、俺はふたたび視線を戻した。背後で、三島がベッドに上がる音がした。かち、とタブレットを起動する、とても小さなボタン音。
それを聞き届けた瞬間の、なんとも言えない安堵を、俺にはうまく表現できない。よかった、とつぶやきたいのを堪えた。
三島の手を握って訴えた、あの言葉が通じたのかもしれない。まだ引き返せる、時なんか止めなくていい、一緒に戻ろう。たとえ反発の言葉があっても、顔をしかめていても、もしかしたら、俺の言葉は届いていたのかもしれない。
いくら作業に戻っても、本の文字も画面の表示も、ちっとも頭に入らなかった。ただ全身の力が抜けたような、安堵としか言いようのない虚脱感に満たされる。しばらくそのまま、時間が過ぎていった。
静まり返った部屋の中、放心した俺がぼんやりと画面を見つめるだけの時間。その中で、ぽつ、と声が聞こえてきた。
「宗像、ちょっといい」
振り返る。タブレット片手に、三島が手招きしていた。
「なに。わかんないとこでもあんの」
「そんなとこ」
まるで以前みたいなやりとりに、じんとするほどの懐かしさを覚える。ベッドに歩み寄った。
三島はぽんとタブレットを布団の上に置いてみせる。片膝でベッドに乗り上げて覗くと、画面はゲーテのファウスト、第一章がちょうど終わったところだった。ああ、と声が出る。
「第二章から、ちょっとややこしいとこ増えるか──」
その言葉を遮って、するっ、と俺の首に腕が回った。え、と口が半開きになる。くちびるに呼気がかかる。
くいと引き寄せられて、バランスが崩れた。咄嗟に手をつく。ほとんど同時に、噛み付くみたいにキスされた。う、と喉の奥で息が詰まる。
強く首元にすがられて、熱っぽいくちびるにくらくらした。なんの意図かわからないそれに、戸惑いながら応じる。ぞわ、と生理的ななにかがこみ上げて、キスの合間に三島が俺を呼ぶ声がした。
気が付けばベッドにすっかり乗り上げて、すがりつく三島の手が、俺の片手にかぶさる。するりと手を取られて、握られて、は、と熱い息を交わし合う。片手だけで二人分の体重を支えて、ただ応じた。
「っ……ん……は、はは」
「はぁ、……三、島……?」
何度も、何度もくちびるを押し当てられて、ほとんど引き倒されるようになって、口付けのあいだで三島が笑った。なんだ、と思った。握られた片手に、きゅっ、と力が込められる。反射的に握り返した、そのとき。
──反対の手の下で、ぱきっ、と嫌な音がした。
(え──っ?)
びく、と身体が固まる。焦点を失うほどの至近距離で、三島の目が楽しそうに細くなる。
くすくすと笑う悪魔みたいな声に、さっと訪れた嫌な予感。
「──ッ……!!」
咄嗟に、がばっ、と身を離していた。両肩を掴まれた三島が、濡れた口元を拭って微笑んでいる。そのすぐ隣、さっきまで俺が手をついていた場所に──画面がひび割れたタブレットがあった。
「あ……」
放射状にヒビが広がり、どす黒く変色した液晶。あきらかに修復不可能な破壊を尽くされたそれに、すうっ、と血の気が引いていく。
「みし、ま」
そろそろと三島を見た。完全な確信犯で俺に手を下させた男が、心底楽しそうな笑い声を上げる。
「ふ、ふふ、ははは……!」
眼鏡をずらして、目元を拭って、面白い見世物を見たときみたいな顔をして。悪魔のような男が笑う。濡れた赤いくちびるを軽く舐めて、ぎし、とベッドが鳴る音。三島が俺を覗き込んだ。
「ありがとな、宗像」
「ッ……!」
たくらみの成功に微笑む男が、するりと頬を撫でてくる。破壊されたタブレットを呆然と見つめて、俺は払いのけることもできない。くすっ、と喉を鳴らして、宣告のように三島が言った。
「時は止まる。俺はもう続きを読まない」
(そん、な──)
とっくになくなっていた足元がさらに崩れて、もっと深くに落ちていく感覚があった。
胸元にタブレットを抱えたかつての三島。大切にしたかったその記憶が、俺自身の手でぐしゃぐしゃにされたように感じる。
愕然とする俺をよそに、三島がタブレットを拾い上げた。深いヒビを慈しむみたいに撫でたかと思うと、ぽい、と電子機器が宙を舞う。
「あ──」
ゴッ、と重い音を立ててタブレットがゴミ箱に落ちた。
ひ、と喉の奥が鳴る。三島の笑い声。ただでさえ引いていた血の気が、ますます引いていく感覚。
「ほんと、おまえって──簡単」
こらえきれない笑みが混じった、甘ったるい声がした。
変色してひび割れた画面に、残滓のように表示されていたゲーテが、ビッ、と揺らいで消えた。
指先が冷えていく。ひどい気分だった。




