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【完結・BL】転校生に学年トップを奪われたから弱みを握ろうと友達のフリして近付いたらとんでもない修羅場が待っていた  作者: Ru
【後編 / 02】 蛹室にて

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 その日一日、三島は妙に静かだった。

 授業中になにもしないのはいつものことだったが、昼食のときも、生研部での活動中も、やけに大人しかった。ちょっかいをかけてくることもなかった。


 最初は頭の傷のせいかと思った。具合が悪いのを隠しているのかと。だが何度聞いても三島は平気の一点張りだった。


 しびれを切らせて簡単な検査もどきをしてみたが、たしかに大きな異常は見られない。「だろ」と目を細める三島に、俺は引き下がるしかなかった。


 口数が少ない三島を、気にかけつつ一日を終える。生研部の実験は順調で、仮説とデータの間に齟齬はほとんど見られなかった。マウスのケージを片付けて、準備室の鍵を閉めた。


 じゃり、と鍵束をポケットに突っ込んで、かすかに俯く。あとは紙類を綴じればすべて終わりだ。

 美しいデータばかりが並ぶ記録用紙。現実もこんな風に、予想通りになればいいのにと思った。だけどそんなのはただの願望で、どんなことだって思うようになった試しがない。当たることといえば不吉な予感だけだ。


 振り返って、バインダーの中身をファイルに綴じている三島に呼びかけた。


「それ終わったら、帰るぞ」


 返事はなかった。三島はぱたんとファイルを閉じて、棚に押し込んだ。無言で鞄を持ち上げる。中身のほとんどないそれはぺたんとしていて、軽そうだった。


 かすかに俯いたまま、三島はじっと立っている。俺は軽く眉を寄せて、でもなにも言わなかった。同じように鞄を肩にかける。


 とっとと帰って、今日は三島を早めに寝かせよう、と思ったとき。あ、と思い出した。


「……弁当箱、忘れた」


 三島がちら、と俺を見上げる。あー、と頭をかいた。


「いくら空でも梅雨時だし、やばいよな。悪い、ちょっと寄り道するわ」

「……」


 黙って頷く三島。俺はからりと生物室のドアを開けて、三島を先に通した。鍵を閉める俺を、三島は大人しく待っている。


「玄関で待つか」


 無言で首を横に振られた。ついてくるらしい。

 少し遅れて歩く三島とふたり、特別教室棟を抜けて、職員室に鍵を返して、教室までの階段を上った。三島は俺と並ぶことなく、淡々とした面持ちを軽く伏せて、ずっと黙っていた。


 ちらちらと背後を気にしつつ、三島がなにか話したくなるまで待つべきか、と考える。

 今朝の三島は様子がおかしかった。ベッドの上で俺の手にすがったのは、悪魔みたいな男じゃなく、不安定で危なっかしい、ただの未成年だった。


 なにか思うところでもあるのかもしれない。だが、どうやって聞き出せばいいのか。あれこれ考えているうちに、気が付けば教室に着いていた。


 から、と引き戸を開ける。昼過ぎから雲が引いてきた窓の外は、この季節には珍しい、はっきりした夕焼けが広がっている。室内がいちめん茜色に染まっていて、長く伸びた机や椅子の影が、床の上で複雑な影を作っていた。


(そういえば、初めて三島を知ったときも、こんな夕暮れだった気がする)


 橙色の光に照らされて、泣きそうな顔で俺の机を蹴っていた姿。ぐず、と鼻をすすって、手の甲で眼鏡を持ち上げて、情けなく目元を拭っていた。


(猫殺し、か……)


 もしも猫で済んでいたのなら、どれだけ良かっただろう。

 いまだに忘れられない、喉仏に親指が食い込む感触を思い出す。立入禁止の警告表示の向こう、あちら側に、ふたりして真っ逆さまに落ちていく錯覚。


 嫌な予感を振り切って教室に入った。橙色の床を踏みしめて机に歩み寄る。手慰みに落書きしたマウスの絵が、隅っこで掠れていた。


 弁当箱の包みを手に取る。鞄に突っ込んで、さっさと帰ろう。三島のことも気にかかるし。

 そう思ったときだ。


 すっ、とすぐ真後ろに、人が立つ気配があった。うなじのあたりに吐息が触れた。


「え──っ、うわ!?」


 襟の後ろ、首根っこを思い切り引っ張られて、バランスを崩す。

 完全な不意打ちに、俺はしたたか尻餅をついた。がたん、とやかましい音を立て、椅子が倒れる。


「なに──」


 起き上がるより先に乗り上げられた。腿の上にまたがられ、俺を引き倒した男、三島の顔がすぐ目の前に接近する。

 両肘を床についた中途半端な姿勢のまま、俺は自分の上に乗っかった三島を、呆然と見上げていた。「なに……」と同じ台詞が勝手にこぼれる。


 三島は、とても静かな目で俺を見つめていた。斜め横から照らされた夕焼けで、痩せた頬が橙に光っている。細い指先がゆっくりと、メガネを外して、無造作に放り捨てた。


 かしゃん、と遠くで小さな音。思わず視線で追った俺の頬を、三島がすっと撫でる。びくっ、と肩が跳ねた。

 そろそろと視線を戻す。目が、合った。


(あ──っ)


 レンズなど一枚も通さない瞳が、あの名前のない宝石みたいにきれいな虹彩が、まっすぐに俺を覗き込んでいる。

 なめらかな眼球の表面に、バカみたいに目を見開いた俺が映っていた。


「宗像」


 少し掠れた、ささやき声が俺を呼ぶ。ぞく、と背筋が震えて、返事ができなかった。

 ゆるゆると頬の皮膚をなぞられて、全身の産毛が逆立つような感覚を覚える。


 ものすごい至近距離、まつげの一本一本まで見て取れる近さで、三島は俺をまっすぐに見つめて。はにかむような、あどけない顔で笑った。どくっ、と鼓動が鳴った。


「っ……」


 いとけない、子供みたいな、まるでかつての三島みたいな。まじりっけのない、とても素直な笑顔だった。じん、と胸の底が切なくなって、俺は思わず口を開いて。


「みし──」


 その口を、三島のそれで塞がれた。


 呼びかけた語尾が口の中に消えていく。

 くちびるに触れたのは少しぬるくて、やわらかい、生きた人間の粘膜だった。


 現実から少し遅れて、認識がやってくる。自分がなにをされているのか、ようやく気付いた瞬間──全身の感覚がぶわっ、と鋭敏になるのがわかった。背の中心をぞくぞくしたものが走った。


 呆然と床についたままだった手の甲に、三島のてのひらが重なる。ゆっくりと撫で回されて、びく、とまた身体がこわばる。

 そっと手を掬い上げられて、指を絡めて、握られる。その間もくちびるは離れることなく、ぴったりと触れ合ったままだ。


 俺はただ硬直して、バカみたいに呆然として、自分の内側をしきりに痺れさせる、知らない衝動に震えていた。


 三島の指が絡みついた俺の手が、そっと持ち上げられる。触れ合ったくちびるの向こう側で三島がかすかに笑って、ちろ、と口の端を舐められた。ぞくっ、とした。


 ふ、とくちびるが離れていく。

 思わず目で追ってしまって、三島の口元が濡れて光っているのを見てしまった。さっと目元が熱くなる。それでも、目をそらすことができない。


 持ち上げた俺の手に、三島がすり、と頬を擦り寄せた。心許ない子供みたいな仕草だった。弱くて、いとけなくて、力のない存在だと思った。


 伏せていた三島のまぶたが持ち上がって、宝石みたいにきれいな目が俺を見る。無垢な、不思議な色合いが一度ゆっくりまばたいて、少しだけ細くなった。


 絡みついていた指が、ゆるく動いて、俺の手を捉える。誘うように手を引かれて、少しずつ、少しずつ耳元に引き寄せられるのに、抗うことができない。


 茜色に染まった教室の中、上気と夕焼けで赤くなった頬で、あどけない表情が笑った。純粋で、いたいけな、まごうことなき弱者の顔だった。


(っ……)


 ものすごい勢いでこみ上げるのは、この男を加害したい、という欲望だった。

 弱く無力な存在を、好きなだけ傷付けて、引きちぎって、切り裂いて、全部ばらばらにしてやりたい。呆然とした表情が赤い色で濡れていくのを、最後までずっと見ていたい。


「……ぁ……」


 喉の奥が震えて、声が出なかった。腹の底で渦巻く、どす黒くて重たい現象が、ぐうっ、とせり上がって俺を侵食する。飲み込まれる。指先のすべてまで浸ってしまう。


(俺は、三島、を──)


 心臓の奥で感情が光った。

 大切にしたい、誰かこいつを幸せにしてくれ、この男は俺にとっての唯一だ。

 たったひとつ綺麗だったものが、黒い欲望でどろどろに塗りつぶされる。


 三島の手が、俺の指先を耳たぶに擦り付けた。指の腹に他人の皮膚が触れる感触が、ぞくぞくと俺を震わせた。爪の先がかち、とピアスの石に当たって、硬い感触を伝えてくる。


「──俺にしなよ、宗像」


 子供みたいな顔で三島が笑う。濡れたくちびるから毒みたいな声が落ちる。

 指先が震えるのは、拒絶のためか、欲望のためか。判別がつかない。喉が乾いて、からからの唾をかろうじて飲み込む。はっきりした嚥下の音。


 震えながら指を動かして、ピアスをつまんだ。

 三島が目を細くする。無垢な笑みが俺をまっすぐに見つめて、「いいよ」とほとんど吐息みたいな声が俺を誘惑する。


「ちゃんと見て。宗像が、俺を引きちぎるところ」

「っ──」


 ほら、とささやかれ、口元にかかるやわらかな呼気だけで笑われて──それが、とどめだった。


 指先に力がこもる。

 じりじりと動く手に、三島がかすかに顔を歪める。その瞳が快楽じみたものに揺れて、うっすらと細くなる。


 たっぷりした茜色に染まった教室内、長く伸びた机の影が俺たちの上にかかっている。空梅雨にふさわしくない夕焼けに染められて、上気しきった三島の頬が目元まで赤く染まっている。


 蕩然とした瞳、あの名前のない宝石みたいにきれいな目が、うっとりと俺を見つめていた。涙じみたもので濡れた瞳に、我を失くした俺がなめらかに映っている。


 ぞくぞくと背筋が震えた。電流のような欲望が全身をしびれさせて、こみ上げた興奮が俺の息をどんどん浅く、短くさせていく。はっ、はっ、と動物みたいな息を吐いて、半開きになった口、喉が乾いて仕方ない。


 熱くなった指先が、興奮と欲望で震えながら、獰猛な力を込めていって、上気した顔を歪めた三島が、はあっ、と熱っぽい息を吐いて──



 ぴっ、と。抵抗の感触がなくなった。



 耳元から、ふっと指が離れていく。

 ピアスをつまんだままの指先は、ぬる、と熱いもので濡れていた。喉の奥で三島がくっ、と笑った。


「っは、……は、はあっ、……は」


 興奮の余韻で震える呼吸を、荒っぽく繰り返す。胸が激しく凹んでは膨らんで、どくどくと鳴る鼓動、新鮮な空気が少しずつ入ってくる。


 ゆっくりと、ゆっくりと冷えていく興奮が去っていって。俺はようやく、自分がなにをしでかしたのかを、はっきりと自覚した。


(あ──俺、は……)


 目の前で、蕩然とした顔のまま、三島がうっとりと笑っている。その耳から、ぱたっ、ぱたたっ、と赤い雫が滴り落ちた。ぬめる感触で指の腹がすべって、かつん、と手からピアスが落ちていく。


「お、れは──」


 愕然と、していた。目の前の光景が信じられない。ほとんど忘我の表情で俺を見つめる三島。血のしたたる耳。床に転がる、汚れてしまった青いピアス。


(うそだ、俺、俺は──)


 俺は三島になにをした。幸福になってほしい、一度でいいから与えられてほしい、こんな風になっていいはずのなかった、俺の唯一だった人間に。俺はいったい、なにをした。


 絶望で心臓が震えた。喉の奥がこわばって、声がひとつも出てこない。目の前の男が、にこり、と笑った。するりと両手が伸びてくる。


 そっと両手首を捕まえられて、やんわりと握られた。痩せた指先が手首に絡みつく、鮮烈な感触。

 ゆっくりとそのまま、背後に押される。俺はあまりに呆然としていて、弱々しいくらいの力に、まったく抗うことができなかった。


 教室の床に押し倒される。茜色の天井を背負って、三島が俺を覗き込む。

 うっとりとした微笑みが、心底嬉しそうに俺を見下ろした。


 ぱたっ、と頬に雫の感触。ぞくぞくするような血のにおい。それがつっ、と耳の方に滑り落ちる感覚があって、ぞわりとした。反射的に首をすくめた。


 俺の上にのしかかって、三島の手がするりと頬を撫でてくる。表情のひとつも動かすことができない。多幸感に酔いしれた顔が、口付けの余韻で濡れたくちびるが、震えながら開かれる。




「青春ぜんぶ駄目にして、俺と台無しになろう。なあ、宗像──」




 ゆっくりと、俺の上に影が落ちてきた。両手首を押さえられ、もう一度、やわらくて熱っぽい粘膜が、くちびるに押し当てられる。くちゅっ、とかすかに濡れた音。生理的なぞわつき。


 ぐら、と足元がなくなる感覚があった。

 この男とふたりで、ぎりぎりの縁を踏み越えて、もつれあって、真っ暗な闇の中をどこまでも落ちていく。底のない絶望と、震えるほどの恐怖と、残酷な後悔。


 ぱた、ぱた、と俺の頬に赤がしたたる音がする。押し当てられたくちびるが甘ったるくて、猛毒みたいで、頭の奥がしびれてくらくらする。それでも。


(いやだ、俺は──だめだった、のに)


 俺と三島じゃどこにも行けない。落ちるしかできない。俺たちは未成年で、なにもできなくて、こうして駄目になるしかできない。


(……どうして──)




 ──台無しになんか、なりたくなかったのに。




 絶望的な破滅の感触が、ひたひたと俺の心臓を満たしていく。裏腹にくちびるの感触だけがいつまでも熱くて、生き物の情欲でひどく湿っている。


 俺は指先ひとつ動かすこともできないまま、のしかかる三島の体温を、ずっと感じていた。

 茜色の教室に、下校時間を知らせるチャイムが、長く響きはじめた。





 

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