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その日一日、三島は妙に静かだった。
授業中になにもしないのはいつものことだったが、昼食のときも、生研部での活動中も、やけに大人しかった。ちょっかいをかけてくることもなかった。
最初は頭の傷のせいかと思った。具合が悪いのを隠しているのかと。だが何度聞いても三島は平気の一点張りだった。
しびれを切らせて簡単な検査もどきをしてみたが、たしかに大きな異常は見られない。「だろ」と目を細める三島に、俺は引き下がるしかなかった。
口数が少ない三島を、気にかけつつ一日を終える。生研部の実験は順調で、仮説とデータの間に齟齬はほとんど見られなかった。マウスのケージを片付けて、準備室の鍵を閉めた。
じゃり、と鍵束をポケットに突っ込んで、かすかに俯く。あとは紙類を綴じればすべて終わりだ。
美しいデータばかりが並ぶ記録用紙。現実もこんな風に、予想通りになればいいのにと思った。だけどそんなのはただの願望で、どんなことだって思うようになった試しがない。当たることといえば不吉な予感だけだ。
振り返って、バインダーの中身をファイルに綴じている三島に呼びかけた。
「それ終わったら、帰るぞ」
返事はなかった。三島はぱたんとファイルを閉じて、棚に押し込んだ。無言で鞄を持ち上げる。中身のほとんどないそれはぺたんとしていて、軽そうだった。
かすかに俯いたまま、三島はじっと立っている。俺は軽く眉を寄せて、でもなにも言わなかった。同じように鞄を肩にかける。
とっとと帰って、今日は三島を早めに寝かせよう、と思ったとき。あ、と思い出した。
「……弁当箱、忘れた」
三島がちら、と俺を見上げる。あー、と頭をかいた。
「いくら空でも梅雨時だし、やばいよな。悪い、ちょっと寄り道するわ」
「……」
黙って頷く三島。俺はからりと生物室のドアを開けて、三島を先に通した。鍵を閉める俺を、三島は大人しく待っている。
「玄関で待つか」
無言で首を横に振られた。ついてくるらしい。
少し遅れて歩く三島とふたり、特別教室棟を抜けて、職員室に鍵を返して、教室までの階段を上った。三島は俺と並ぶことなく、淡々とした面持ちを軽く伏せて、ずっと黙っていた。
ちらちらと背後を気にしつつ、三島がなにか話したくなるまで待つべきか、と考える。
今朝の三島は様子がおかしかった。ベッドの上で俺の手にすがったのは、悪魔みたいな男じゃなく、不安定で危なっかしい、ただの未成年だった。
なにか思うところでもあるのかもしれない。だが、どうやって聞き出せばいいのか。あれこれ考えているうちに、気が付けば教室に着いていた。
から、と引き戸を開ける。昼過ぎから雲が引いてきた窓の外は、この季節には珍しい、はっきりした夕焼けが広がっている。室内がいちめん茜色に染まっていて、長く伸びた机や椅子の影が、床の上で複雑な影を作っていた。
(そういえば、初めて三島を知ったときも、こんな夕暮れだった気がする)
橙色の光に照らされて、泣きそうな顔で俺の机を蹴っていた姿。ぐず、と鼻をすすって、手の甲で眼鏡を持ち上げて、情けなく目元を拭っていた。
(猫殺し、か……)
もしも猫で済んでいたのなら、どれだけ良かっただろう。
いまだに忘れられない、喉仏に親指が食い込む感触を思い出す。立入禁止の警告表示の向こう、あちら側に、ふたりして真っ逆さまに落ちていく錯覚。
嫌な予感を振り切って教室に入った。橙色の床を踏みしめて机に歩み寄る。手慰みに落書きしたマウスの絵が、隅っこで掠れていた。
弁当箱の包みを手に取る。鞄に突っ込んで、さっさと帰ろう。三島のことも気にかかるし。
そう思ったときだ。
すっ、とすぐ真後ろに、人が立つ気配があった。うなじのあたりに吐息が触れた。
「え──っ、うわ!?」
襟の後ろ、首根っこを思い切り引っ張られて、バランスを崩す。
完全な不意打ちに、俺はしたたか尻餅をついた。がたん、とやかましい音を立て、椅子が倒れる。
「なに──」
起き上がるより先に乗り上げられた。腿の上にまたがられ、俺を引き倒した男、三島の顔がすぐ目の前に接近する。
両肘を床についた中途半端な姿勢のまま、俺は自分の上に乗っかった三島を、呆然と見上げていた。「なに……」と同じ台詞が勝手にこぼれる。
三島は、とても静かな目で俺を見つめていた。斜め横から照らされた夕焼けで、痩せた頬が橙に光っている。細い指先がゆっくりと、メガネを外して、無造作に放り捨てた。
かしゃん、と遠くで小さな音。思わず視線で追った俺の頬を、三島がすっと撫でる。びくっ、と肩が跳ねた。
そろそろと視線を戻す。目が、合った。
(あ──っ)
レンズなど一枚も通さない瞳が、あの名前のない宝石みたいにきれいな虹彩が、まっすぐに俺を覗き込んでいる。
なめらかな眼球の表面に、バカみたいに目を見開いた俺が映っていた。
「宗像」
少し掠れた、ささやき声が俺を呼ぶ。ぞく、と背筋が震えて、返事ができなかった。
ゆるゆると頬の皮膚をなぞられて、全身の産毛が逆立つような感覚を覚える。
ものすごい至近距離、まつげの一本一本まで見て取れる近さで、三島は俺をまっすぐに見つめて。はにかむような、あどけない顔で笑った。どくっ、と鼓動が鳴った。
「っ……」
いとけない、子供みたいな、まるでかつての三島みたいな。まじりっけのない、とても素直な笑顔だった。じん、と胸の底が切なくなって、俺は思わず口を開いて。
「みし──」
その口を、三島のそれで塞がれた。
呼びかけた語尾が口の中に消えていく。
くちびるに触れたのは少しぬるくて、やわらかい、生きた人間の粘膜だった。
現実から少し遅れて、認識がやってくる。自分がなにをされているのか、ようやく気付いた瞬間──全身の感覚がぶわっ、と鋭敏になるのがわかった。背の中心をぞくぞくしたものが走った。
呆然と床についたままだった手の甲に、三島のてのひらが重なる。ゆっくりと撫で回されて、びく、とまた身体がこわばる。
そっと手を掬い上げられて、指を絡めて、握られる。その間もくちびるは離れることなく、ぴったりと触れ合ったままだ。
俺はただ硬直して、バカみたいに呆然として、自分の内側をしきりに痺れさせる、知らない衝動に震えていた。
三島の指が絡みついた俺の手が、そっと持ち上げられる。触れ合ったくちびるの向こう側で三島がかすかに笑って、ちろ、と口の端を舐められた。ぞくっ、とした。
ふ、とくちびるが離れていく。
思わず目で追ってしまって、三島の口元が濡れて光っているのを見てしまった。さっと目元が熱くなる。それでも、目をそらすことができない。
持ち上げた俺の手に、三島がすり、と頬を擦り寄せた。心許ない子供みたいな仕草だった。弱くて、いとけなくて、力のない存在だと思った。
伏せていた三島のまぶたが持ち上がって、宝石みたいにきれいな目が俺を見る。無垢な、不思議な色合いが一度ゆっくりまばたいて、少しだけ細くなった。
絡みついていた指が、ゆるく動いて、俺の手を捉える。誘うように手を引かれて、少しずつ、少しずつ耳元に引き寄せられるのに、抗うことができない。
茜色に染まった教室の中、上気と夕焼けで赤くなった頬で、あどけない表情が笑った。純粋で、いたいけな、まごうことなき弱者の顔だった。
(っ……)
ものすごい勢いでこみ上げるのは、この男を加害したい、という欲望だった。
弱く無力な存在を、好きなだけ傷付けて、引きちぎって、切り裂いて、全部ばらばらにしてやりたい。呆然とした表情が赤い色で濡れていくのを、最後までずっと見ていたい。
「……ぁ……」
喉の奥が震えて、声が出なかった。腹の底で渦巻く、どす黒くて重たい現象が、ぐうっ、とせり上がって俺を侵食する。飲み込まれる。指先のすべてまで浸ってしまう。
(俺は、三島、を──)
心臓の奥で感情が光った。
大切にしたい、誰かこいつを幸せにしてくれ、この男は俺にとっての唯一だ。
たったひとつ綺麗だったものが、黒い欲望でどろどろに塗りつぶされる。
三島の手が、俺の指先を耳たぶに擦り付けた。指の腹に他人の皮膚が触れる感触が、ぞくぞくと俺を震わせた。爪の先がかち、とピアスの石に当たって、硬い感触を伝えてくる。
「──俺にしなよ、宗像」
子供みたいな顔で三島が笑う。濡れたくちびるから毒みたいな声が落ちる。
指先が震えるのは、拒絶のためか、欲望のためか。判別がつかない。喉が乾いて、からからの唾をかろうじて飲み込む。はっきりした嚥下の音。
震えながら指を動かして、ピアスをつまんだ。
三島が目を細くする。無垢な笑みが俺をまっすぐに見つめて、「いいよ」とほとんど吐息みたいな声が俺を誘惑する。
「ちゃんと見て。宗像が、俺を引きちぎるところ」
「っ──」
ほら、とささやかれ、口元にかかるやわらかな呼気だけで笑われて──それが、とどめだった。
指先に力がこもる。
じりじりと動く手に、三島がかすかに顔を歪める。その瞳が快楽じみたものに揺れて、うっすらと細くなる。
たっぷりした茜色に染まった教室内、長く伸びた机の影が俺たちの上にかかっている。空梅雨にふさわしくない夕焼けに染められて、上気しきった三島の頬が目元まで赤く染まっている。
蕩然とした瞳、あの名前のない宝石みたいにきれいな目が、うっとりと俺を見つめていた。涙じみたもので濡れた瞳に、我を失くした俺がなめらかに映っている。
ぞくぞくと背筋が震えた。電流のような欲望が全身をしびれさせて、こみ上げた興奮が俺の息をどんどん浅く、短くさせていく。はっ、はっ、と動物みたいな息を吐いて、半開きになった口、喉が乾いて仕方ない。
熱くなった指先が、興奮と欲望で震えながら、獰猛な力を込めていって、上気した顔を歪めた三島が、はあっ、と熱っぽい息を吐いて──
ぴっ、と。抵抗の感触がなくなった。
耳元から、ふっと指が離れていく。
ピアスをつまんだままの指先は、ぬる、と熱いもので濡れていた。喉の奥で三島がくっ、と笑った。
「っは、……は、はあっ、……は」
興奮の余韻で震える呼吸を、荒っぽく繰り返す。胸が激しく凹んでは膨らんで、どくどくと鳴る鼓動、新鮮な空気が少しずつ入ってくる。
ゆっくりと、ゆっくりと冷えていく興奮が去っていって。俺はようやく、自分がなにをしでかしたのかを、はっきりと自覚した。
(あ──俺、は……)
目の前で、蕩然とした顔のまま、三島がうっとりと笑っている。その耳から、ぱたっ、ぱたたっ、と赤い雫が滴り落ちた。ぬめる感触で指の腹がすべって、かつん、と手からピアスが落ちていく。
「お、れは──」
愕然と、していた。目の前の光景が信じられない。ほとんど忘我の表情で俺を見つめる三島。血のしたたる耳。床に転がる、汚れてしまった青いピアス。
(うそだ、俺、俺は──)
俺は三島になにをした。幸福になってほしい、一度でいいから与えられてほしい、こんな風になっていいはずのなかった、俺の唯一だった人間に。俺はいったい、なにをした。
絶望で心臓が震えた。喉の奥がこわばって、声がひとつも出てこない。目の前の男が、にこり、と笑った。するりと両手が伸びてくる。
そっと両手首を捕まえられて、やんわりと握られた。痩せた指先が手首に絡みつく、鮮烈な感触。
ゆっくりとそのまま、背後に押される。俺はあまりに呆然としていて、弱々しいくらいの力に、まったく抗うことができなかった。
教室の床に押し倒される。茜色の天井を背負って、三島が俺を覗き込む。
うっとりとした微笑みが、心底嬉しそうに俺を見下ろした。
ぱたっ、と頬に雫の感触。ぞくぞくするような血のにおい。それがつっ、と耳の方に滑り落ちる感覚があって、ぞわりとした。反射的に首をすくめた。
俺の上にのしかかって、三島の手がするりと頬を撫でてくる。表情のひとつも動かすことができない。多幸感に酔いしれた顔が、口付けの余韻で濡れたくちびるが、震えながら開かれる。
「青春ぜんぶ駄目にして、俺と台無しになろう。なあ、宗像──」
ゆっくりと、俺の上に影が落ちてきた。両手首を押さえられ、もう一度、やわらくて熱っぽい粘膜が、くちびるに押し当てられる。くちゅっ、とかすかに濡れた音。生理的なぞわつき。
ぐら、と足元がなくなる感覚があった。
この男とふたりで、ぎりぎりの縁を踏み越えて、もつれあって、真っ暗な闇の中をどこまでも落ちていく。底のない絶望と、震えるほどの恐怖と、残酷な後悔。
ぱた、ぱた、と俺の頬に赤がしたたる音がする。押し当てられたくちびるが甘ったるくて、猛毒みたいで、頭の奥がしびれてくらくらする。それでも。
(いやだ、俺は──だめだった、のに)
俺と三島じゃどこにも行けない。落ちるしかできない。俺たちは未成年で、なにもできなくて、こうして駄目になるしかできない。
(……どうして──)
──台無しになんか、なりたくなかったのに。
絶望的な破滅の感触が、ひたひたと俺の心臓を満たしていく。裏腹にくちびるの感触だけがいつまでも熱くて、生き物の情欲でひどく湿っている。
俺は指先ひとつ動かすこともできないまま、のしかかる三島の体温を、ずっと感じていた。
茜色の教室に、下校時間を知らせるチャイムが、長く響きはじめた。




