89
その晩、久しぶりに夜に父の顔を見た。
ようやく四半期切り替えの際のトラブルが一段落ついたから、そろそろ家に帰れと社員たちに嗜められたのだという。余計なことを言ったものだ。
本当に珍しい、三人での夕食は、やっぱり地獄みたいに空気が重かった。
仏頂面で箸を運ぶ父と、淡々と食事を残す三島、痛いほどの沈黙と秒針の音ばかりが満ちるダイニングで、小さくなって料理を口に押し込む俺。そこそこの値段がするはずのデリの、味なんてちっともわからない。
もっとも、俺と三島の差し向かいで食事をするときも、会話なんかほとんどない。三島はちょくちょく俺にちょっかいをかけてきたが、俺がぜんぶ無視して逃げたのだ。
あの男の甘言に耳を貸してもろくなことにならない。それでも、手を伸ばして戯れみたいに触られると、さすがに心が揺れて、反応を返してしまう。
最近は俺が動揺するのが面白いのか、三島はよく俺に触れてくるようになった。
教室ではそこまでではないものの、ひとたび放課後になれば、彼を押し留めるのは難しい。生研部の準備中でも実験中でも、ひとときも油断できなかった。
(だから、ある意味、幸いなんだろうか)
父が今、食卓にいるのは。気が重くなる。まさか母ではなく父に、いてほしいと願う日が来るなんて思わなかった。そこまで思って、思い浮かんだかつての笑顔に胸が痛んだ。西風の気配が蘇る。
母はどうしているのだろう。あれ以来、母の転院先をずっと、さり気なく探している。
父が尻尾を出すはずがない、わかっていても、あれこれ探りを入れるのをやめられなかった。思いつく限りの病院に電話を入れて、息子だと告げて、でも教えてなどもらえるはずもない。
母はもう見つからない。ほとんど確定した諦念に抗って、弱々しい抵抗を続けている。
ただ、これが父にばれたら、余計ややこしいことになるのはわかっていた。あまり表立った動きはできなかった。もどかしい。
(母さん……あと一度だけでいい、俺を守ってほしい)
怖いんだ、なにもかもが。父も、三島も、恐ろしい現象も、ときどき見え隠れする、あちら側の風景も。喉仏の感触も、一本だけ絡めあった指も、二人して落ちていく破滅の予感も。怖くてたまらない。
ぐるぐるとめぐる思考に耐えていると、ぱちっ、と箸を置く音がした。父だった。無言で立ち上がり、空になった容器とグラスを手にキッチンへ向かう。ごちそうさまくらい言えよと思ったが、わざわざ突っ込む気にもなれなかった。
唐突に、すっと三島が顔を上げる。痩せた手が箸を下ろして、もう食事を終えるのかと思ったが、そうじゃなかった。レンズ越しの視線が、つっとキッチンの方を向いている。
なにかを追うような視線に、つられて振り返った。ちょうど父が、空の容器をゴミ箱に捨てるところだった。キッチンの奥の、うちで一番大きなゴミ箱に。
「あ……っ」
思わず腰が浮くのと、父の表情が凍りつくのとが、ほとんど同時だった。
「……達也」
地を這うように低い声がして、びくりと肩が跳ねる。ゆっくりと振り返った父の表情は、感情がすべて抜け落ちたようで、威圧的で、怖かった。ちがう、と声が漏れる。
「待ってくれ。そうじゃない」
「なにがだ」
「だから、それは、俺がやったんじゃなくて──」
「また言い訳か? 口先ばかり無駄に育って」
「ち、違う!」
今度こそはっきりと誤解だった。だが父は聞く耳を持たない。大股でキッチンから出てくると、俺の前に立ちはだかった。鋭い眼光に見下されて、俺は思わず立ち上がる。
「そうじゃない。俺はやってない。カメラでもなんでも見ればいい、絶対に俺じゃない!」
「強く言えば信用を得られるとでも思ったか。信用がほしいなら、その前科をすべて無くしてみせろ。話はそれからだ」
「無茶言うなよ……!」
本当に、違うのに。まるで信じてもらえない。だがすべて自分の行いが招いたことだ。痛いほど過去を悔やんだ。くそっ、と汚い言葉を吐き捨てて、俺は手を握りしめる。苦々しく父が言った。
「やはり甘すぎたか。今からでも矯正が必要だな」
「なんだよ矯正って……本当に、俺じゃないのに……!」
絞り出す俺に、とうとう父がしびれを切らした。いい加減にしろ、と叫び声。
「だったら誰だと言うんだ! くだらない言い訳を──」
「──俺です」
ぽつっ、と声が割り込んだ。
俺の口から、は、と間抜けな声が漏れた。完全に予想外のところから来た声に、父も俺も静止する。しいん、と部屋が静まり返る。
動いたのは父が先だった。ゆっくりと厳しい表情をめぐらせて、声の主──三島のほうを見る。少し遅れて、俺も同じ動作をした。
三島は、俺のことも父のことも見てはいなかった。ただ淡々と俯いたまま、静かに俺です、ともう一度繰り返した。
父がゆっくりと三島のほうに歩み寄る。低い、押し殺した声で問いかける。
「どういうことだ」
「俺がやったんです。見つかったのは失敗でした。台所は俺しか使わないと思っ──」
ガンッ、と大きな音がした。思わずびくりと肩が縮こまる。父がテーブルを殴った音だった。
三島は怯えたそぶりも見せず、ちら、とテーブルに叩きつけられた拳を眺めただけだった。
父は激しく舌打ちをして「おまえか」と吐き捨てる。
「おまえが、達也をそそのかしたのか」
「そうです」
「ッ、何言って、三島──」
「俺が焚き付けたんです。殺してもいいって、もっとやればいいって、隠せば平気だって」
ぎりぎりと歯を食いしばる音。父の顔がみるみる赤くなった。
「きさま」と発せられた声は、低く掠れきっていた。
「私は、とんだ愚か者だったようだ。きさまみたいな奴に、条件を持ち出したなんて」
「そうですね」
(待っ──なに、条件……?)
完全に置いていかれた俺を、三島がちら、と見る。淡々とした瞳のまま、彼は「そういうことだよ」と言った。
「俺をここに置いてもらう条件」
そう言って、ぱた、とスマホをテーブルに置く。
すっ、とロックを解除した画面には、メールの送信フォルダがあった。ずらずらと並ぶメール、そのすべてに写真が添付されている。宛先に書かれた名前は、父のものだった。
「な──っ……!」
思わずスマホをむしり取る。そこには、俺の姿が何枚も映っていた。学校で、生研部で、食卓で、自室で。テキストにはずらりと、時刻と俺の行動が細かく記されている。
(こんなものが、〝条件〟って──)
ぐら、と足の底が揺れた。スマホが手から滑り落ちる。ごとっ、と重い音を立てて床にぶつかる電子機器。三島も、父も、それを気にも留めなかった。
うっすらと三島が笑う。挑発的な視線が、父を見上げた。
「残念でしたね。よりによって俺なんかに、息子の監視を頼むなんて」
「ッ──!」
父の顔が激しく歪んだ。「達也!」と叫び声。反射的にびくっとする。
ぐるっ、と父の身体がこちらに向いた。大股で歩み寄られ、俺は数歩後ろに下がる。
すぐ目の前に、憤りで歪んだ顔があった。「おまえは」と掠れた声。
「私はいつも、付き合う相手は選べと言ったな」
「っ──それ、は」
「残虐な真似は二度とするなとも言った」
「……ッ」
父の手が、テーブルに置かれた空の花瓶を手に取った。ぞっ、とした。
「静江はもう条件にもならんが……罰は必要だ。わかるか」
「わ──」
わかって、たまるか。言いたいのに、喉の奥が縮こまって、うまく言えない。
父は絶対だ。物心つく前、ずっと小さな幼児の頃から、それを叩き込まれて生きてきた。ここまで激怒した父を見たことがない。震えるほど怖かった。でも。
「ち、がう……三島じゃ、ない……」
これだけは言わなければならないと思った。なけなしの勇気を振り絞って口にした。
だが、俺の反発は父の怒りに火を付けた。これ以上ないはずの目の前の表情が、さらに激しく歪む。いい加減にしろ、と震える声。
「あれも違う、これも違うだと!? 子供でももう少しマシな言い訳をする!」
「ちが、だって──」
「ッ……父親に、」
視界の隅で、父の腕が翻る。細長い花瓶を握り込んで、振りかぶったそれが室内の明かりでにぶく光っている。
(あ──ッ)
頭を抱えたのは反射だった。背が丸くなり、とっさに防御の姿勢を取る。
ぎゅっと目を閉じるのと同時に、叫び声が降り落ちてきた。
「口答えを、するな!!」
「っ……!」
空を切る音。ゴッ、と鈍い打撃音。ひっ、と喉の奥が鳴る。
だが、明らかにひどい音がしたはずなのに。いつまで経っても痛みは訪れなかった。
代わりにやってきたのは、腹のあたりになにか、どっ、と重いものがもたれかかる感触。
おずおずと目を開けた。そこには、
「三島……!?」
こめかみを殴打され、血を流してふらついている三島がいた。
あ、と間抜けな声を上げる俺の身体にもたれかかり、三島がずるずると床に崩れ落ちる。
「おまえ、なにして──」
片脇の下に手を差し込んで、支えた。それでもバランスが取れなくて、三島はずるりと床に尻餅をつく。二の腕を掴む形になって、俺は呆然と三島と、それから父を交互に見た。
ちっ、と激しい舌打ちの音。放り捨てられた花瓶が、床の上でゴッ、と音を立てる。その底部が血で汚れているのが見えて、ぞっと恐怖がこみ上げた。
「──気分が悪い。私は仕事に行く」
吐き捨てるようにそれだけ言うと、父は荒々しくダイニングを出ていった。ばしん、と耳に痛いほどの音量でドアが閉まる。重く荒い足音。しばらくして、玄関ドアの開閉音と、錠が回る音がした。
それきり、嘘みたいに静かになる。
俺は呆然として、ただバカみたいにぼうっとしていた。
下の方から、はっ、はっ、と短い息の音。我に返る。
見下ろせば、崩れ落ちた三島は荒く短い息を何度も繰り返していた。こめかみが腫れ上がって、血がにじんでいる。痛々しい傷だった。
ぐっ、と助け起こす。思ったよりあっさりと引っ張り上げることができた。手応えはひどく軽い。だがそれは三島が立ち上がろうとしたためではなく、体重が軽すぎるせいだった。
よろめいた三島の身体をとっさに支えて、おい、と呼びかける。
「おまえ──なにやってんだ、バカ!」
「……は、ははは、なんだろうな」
力なく笑う三島。だが顔色は真っ白で、くちびるは震えている。脈を取ってみると異常なくらい早かった。非常事態の興奮で、脳内物質の分泌がおかしくなっているのだろう。
「っ……バカか、ほんとに……!」
見せてみろ、とこめかみの傷を見る。血こそ出ているが、傷は表面だけだ。なら、と俺は三島に呼びかけた。
「気持ち悪いとかあるか。手に力は入るか。指先のしびれと、あと目の見え方──」
「脳は無事」
確認事項の意味を正しく取った三島は、端的に状態を告げる。手をかざして、ほら、しびれてない、と言う。だがその指先は小刻みに震えていて、俺は思わず三島の手を握りしめた。
「ほんと、なにやってんだよ……」
「さあ」
自分でもわからない、という声に、胸の奥が切なくなった。「バカか……!」と何度目になるかわからない罵倒を繰り返す。
「おまえ、俺以外にこういうこと、されたくないんじゃなかったのかよ……」
絞り出した声に、三島が黙り込む。ふーっ、と息を吐く音がして、かすかな微笑みが真っ白い頬に浮かんだ。そうだけど、と笑み混じりの声。
「だって。友達だろ」
そんなこと理由になってたまるか。言いたいのをぐっと堪える。
友達だなんて嘘ばっかりだ。俺たちが友達だったときなんて、一度もなかった。そんなこと、俺も三島もわかっているはずなのに。
三島が、脈打つ心臓をなだめるように胸に手を置く。以前の三島がよくやっていた仕草に、ぐっと切ない気持ちになる。色のないくちびるから、あのさ、と声が聞こえた。
「たぶん俺、おまえのためなら、なんでもできるよ。だから」
「っ……」
だから、俺の時間を止めてくれ。そう続くのはわかっていた。それでも、痛いほど心が揺れた。そんなことちっとも嬉しくない、と思った。
続く言葉なんかひとつも聞きたくない。それ以上を封じるように、ぐっと三島を引き寄せた。
細すぎる身体を抱きしめて「バカが」と耳元で言う。三島は一瞬だけ息を呑んだけれど、抵抗しなかった。
ただ小さく笑って「なあ」と俺に呼びかける。
「ちょっと、……疲れたかも」
少しでいい、眠りたい。そうささやく三島に、わかったと返事をした。かたくなに食べない、眠らない男が、こんなことを言うのは初めてだった。
よろめく身体を支えて、ゆっくりと部屋に連れて行く。簡単にこめかみの手当をして、ベッドに横たえて、布団をかぶせた。眼鏡を外してやった。それくらい自分でできると言う言葉はすべて無視した。
「最低でもあと六時間は注意して見とくからな。具合おかしかったらすぐ言えよ」
「わかってる……」
頭部の怪我は油断できない。俺が言い含めると、三島はかすかに苦笑する。
どうせ、と続いた言葉の先を聞きたくないと黙殺して、さっさと寝ろと呼びかけた。
三島がふっと目を閉じる。それきり、彼はあっという間に眠りに落ちていった。
「……」
静かだった。がらんとした自室の中に、三島の寝息だけがかすかに聞こえている。俺は机から椅子を引っ張り出すと、ベッドの傍に据え付けた。腰を下ろす。
膝の間で指を組んで、じっと三島を見下ろした。白い頬、少しずつ血色の戻ってきたくちびる、ガーゼを当てられた痛々しいこめかみ。
俺のためならなんでもする、だから終わらせてくれと、俺だけに加害されたいのだと、そう願っている男。
「っ……」
手を伸ばして、こめかみのガーゼに指先で触れた。反応はない。じわりと赤がにじんできたガーゼは痛ましくて、悲しくなる。襟首から覗く赤い傷すらちっとも治りきっていなくて、無性に苦しくなった。
心臓の奥がひどく痛くて、やるせなかった。
なんでこんなことばかり起こるのかわからない。いつもいつも、どうしてこんな風になってしまうのだろう。
見下ろした三島の寝顔は静かだった。いとけない、子供みたいな寝顔だった。きっと幸福になるべき男だった。苦しくて仕方なかった。
(どうして、三島が)
こいつがずっとずっと苦しんできたのは、こんな風になってしまったのは、ひとつだって三島のせいじゃないのに。どうして。
ヘアピンが髪にからまって、耳元では青いピアスが光っている。俺の意志とは関係なく、ぞわぞわするものが湧いてきて、そっと手を伸ばしていた。
ゆっくりと指の腹でピアスの表面を撫でて、渦を巻く汚いものにひたすら耐える。
加害したい、引きちぎりたい、ほとんど渇望じみた欲望が苦しくて、自分自身を心底嫌悪した。
なんでこんな現象があるんだろう。こんなものさえなければ、もう少しマシな現実が待っていたかもしれないのに。
どうしようもない理不尽を、これほど苦しく思ったことはなかった。痛いほどの悲しみが俺を襲った。
ピアスを撫でる指を離して、乱れた前髪をそっと整える。散らばった髪の合間に現れる、閉じた目元は穏やかで、とても静かだった。いとけない寝顔だった。こんな風になっていい男ではなかった。
(この男が、誰かに大切にされてほしい)
俺じゃない誰かに、まっとうに大事にされて、きちんと守られてほしい。一度も与えられることのなかったものを、誰かが三島にそそいでやればいい。俺じゃない、誰かが。
頼むからお願いだと、誰とも知らぬ人物に祈った。
どうか幸福であってほしい。どうしようもない天敵でも、破滅を招く男でも、俺にとっての悪魔でも。それでも、俺は三島に幸せでいてほしい。
「……っ」
閉じたまぶたの裏で、じわりと熱いものがにじんだ。
理由などわからない、感情の名前なんて、ひとつたりも知りはしない。それでも、この男は俺にとっての唯一だと思った。それだけが全てだと感じた。
その夜、俺は眠らずに椅子に座って、ずっと三島のそばにいた。
規則的な寝息がちゃんと続いていることを数十分おきに確認して、泣きたいような気持ちのまま、無事に朝が来ることを一晩中願っていた。




