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週末は憂鬱だ。
父が休みのときは家の空気が地獄みたいでいたたまれない。そうでないときはそうでないときで、三島と二人きりで一日過ごさなければならない。
今日は後者だった。家の中には俺と三島しかいない。憂鬱だった。
朝からいつもの走り込みを済ませる。現象を落ち着かせるためのおまじない。母を奪われた今となっては、もはや意味のない行為だと思っていた。
でも、三島の首を絞めたとき、わかった。
母がいてもいなくても関係ない。俺はまだ人間でいたい。三島の思うようにはならない。絶対に。
その決意を守るためにも、できることはすべてしなければならない。自分を律するのには慣れている。耐えなければならなかった。
あの悪魔みたいな誘惑に、いつまで抗えるかわからない。それでも、諦めたら終わってしまう。それが怖かった。
数キロの走り込みを終えて、額をぬぐって家に戻る。
朝食はすでにできていた。食卓に三島はいない。台所を覗けば、水切りカゴに三島のマグカップが伏せてあった。どうやら先に〝朝食〟を済ませたらしい。
(……ほんと、もうちょっと食わせねえと)
三島は、食事なんて最低限しか取っていない。きっと味覚障害のせいもあるだろう。なにも味がしないものを、無理やり詰め込んだって苦痛なだけだ。
さらに毎朝のコーヒーだ。空きっ腹にそれしか入れなくて、胃が荒れないわけがない。食欲なんて余計に落ちるだろう。
どうしたもんか、と眉間に皺を寄せる。いちおう、三島が唯一まともに食事を取るタイミングはある。俺と差し向かいで弁当を広げるときだ。あのときだけは、三島も普段より食べている。
(あれ、あんま続けたくねえんだけどな……)
教室中の視線が集まって皮膚がぴりぴりするし、食事を終えて席に戻ると、友人たちの問いたげな雰囲気がいたたまれない。
明らかに事情がありそうということで、表立ってつっこまれたことはない。それでも、興味本位の空気だけは痛いほど感じられて、俺はいつもなんとか話題をそらすのだった。
ため息交じりにテーブルに付く。無駄にきちんとした朝食にも、すっかり慣れてしまった。
今日は無味か過味かどっちだろう、と思いながら箸を取る。相変わらず、三島の料理は味のばらつきがひどい。
味のない味噌汁と塩辛すぎるおひたしを交互に口に入れて、すべて平らげて。流しに皿を下げておく。どうせ後で三島が洗うだろう。
(そういや、三島はどこだろう)
家の中にはいると思うのだが。また暇だからとあれこれ掃除でもしてるんだろうか。
まあいい、とシャワーを浴びる。着替えを済ませて、今日はどの本を読もうかな、と考えた。そういえば、未読の本が減ってきていた。そろそろ本屋に行ってもいいかもしれない。
つい、三島を連れて行ったら喜ぶかな、なんて考えていた。ベストセラーの小説を立ち読みしながら、きらきらした目で頬を上気させていたあの姿。
思い浮かべてすぐ、ひどい気持ちになった。あの単純でわかりやすかった三島はもういない。彼の誠実は失われて、代わりに悪魔みたいなささやきが訪れた。俺の時間を止めてくれ。甘ったるい呼びかけが、耳にこびりついて離れない。
振り切るようにぎゅっと目を閉じて、開けて。濡れた髪のまま階段をのぼった。本以外にも読むものはある。どうせなら面倒で放置していた、専門的すぎる英語論文にでも手を出してみようか。
二階の廊下に出て、自室に戻ろうとしたときだ。ふと、ひとつのドアが開いているのが目についた。俺の部屋じゃない。その隣だ。
(隣って──あ)
あの部屋が、なんの部屋なのか。それを思い出して、俺はすうっと血の気が引くのを感じた。
慌てて駆け寄り、室内に踏み入る。入れっぱなしの空調の風が頬を撫でる。ラックまみれの部屋の真ん中で、後ろ姿の三島が立っていた。
「……三、島」
ぽつりと呼びかける。三島が振り向く。その顔には静かな笑みが浮かんでいた。眼鏡ごしの瞳が細くなって、宗像、と俺を呼ぶ。
「やっと来たんだ。何日ぶりかな」
「あ……」
何日ぶりかなんて、もう思い出せない。この部屋の存在すら忘れていた。いつだって空調が入れっぱなし、電気もつけっぱなしの、薄ら寒い飼育室──
「全滅してるよ」
「っ……!」
三島がにこりと笑った。当たり前だよな、と笑い声。
「箱の中に囲い込んだ生き物を、世話もせずにずっと放置したんだ。死んで当然だよな」
「……あ……」
俺は呆然と、飼育箱を見た。ばらばらと地に落ちて、丸くなった幼虫たち。明らかに死んでいる。
成虫のカーテンは三島の手によって開けられていて、箱の中には蝶の死骸が散らばっていた。
黄色と黒、警告表示と同じ色の、大量の翅たちが、箱の底に折り重なっている。
(そんな──)
生き物を見殺しにした。身勝手に繁殖して、箱の中に閉じ込めて、それなのに世話することを放棄して、死ぬまで放置した。
いずれ自分で殺すつもりの生物だったのに、その事実は俺の罪悪感をひどく刺激した。
死ぬまで存在を忘れられ、関心なく放置される。ただ殺すよりひどいと思った。
愕然としている俺を見て、三島が楽しげに笑う。
「もったいないことしちゃったな」
なにがどうもったいないのか、言われずともわかっていた。こみ上げるのは嫌悪だ。三島の発言に対するものと、自分自身に対するものと。
三島が、成虫の飼育箱を開けた。無造作に腕を突っ込んで、蝶の死骸をひとつかみ取り出す。見せつけるみたいに手を開いた。
ばらばらと床に落ちる翅。警告表示の色。ひどい眩暈がした。
この男に、俺はとっくに踏み込まれている。絶対に入っちゃいけない場所に、三島は容易に入り込む。俺のことをぐしゃぐしゃにする。
顔を歪めて立ち尽くす俺に、三島はくす、と笑いかけた。
「ああでも、もう必要ないんだっけ」
「どういう……意味だ」
あまりにも力ない返答に、三島はうん、と一歩踏み出す。靴下の足が蝶を踏む。
近寄ってきた人影に、下からそっと覗き込まれて、淡い微笑みが俺を見つめる。ぞくぞくするのと同じくらい、もうやめてくれと思う。悪魔みたいな、甘ったるい声。
「お母さんも、知識も、マウスも蝶もなくったって。宗像には──俺がいるもんな」
心底嬉しそうに微笑まれて、ぐらり、とした。足の裏が急に心許なくなって、心と身体が一気に揺らぐ。
楽しげな三島の声は、刃物みたいに俺を刺した。腹を裂くマウスも翅をむしる蝶もいなくても、おまえには俺がいる。それはつまり、
(おまえ、自分のこと、そんな風に思ってるのか)
とっくにわかっていた事実だった。それでも、心が痛かった。
訪れたのは痛切な、悲しみに似た、痛いような切ないような深い情動。あの現象を打ち消すほど強い、名前を知らない強烈な感情。
「ちがう……」
気が付けば、震える声が絞り出された。三島がぴくりと反応する。伺うような視線。震えながら口を開いた。
「おまえは、蝶とは違う」
「じゃあ、なんだよ」
わからない。わからないけれど、三島は、三島だけは違う。おまえは俺に蹂躙されていい存在じゃない。殺されていい人間じゃない。
三島はいい奴だった。愚かでも誠実だった。いくらごまかしても構わない、大丈夫というたった一言に操を立てて、恐怖に耐えるような男だった。俺のどうしようもない吐露に、わかるよと言ってくれた人だった。もっと幸福になるべきだった。
泣きたいような気持ちになる。どうしてこんなことばかり起こるんだ。どうせ罰だというのなら、俺だけでよかったのに、なんで、三島まで。
手を握りしめ、耐えている俺を見て、三島がやんわりと苦笑した。拳の上からそっと撫でられて、ぞくりとする衝動が押し寄せる。震えながらそれに耐えた。
傷付けたくない。まだここにいたい。人間でいたい。どうしてかはわからない、それでも、俺は三島と一緒に、あちら側には落ちたくない。
「やっぱり、宗像にはまだ早いかな」
あのときの、接近する電車に向かって黄色い線を踏み越えたときと同じ口調で、三島が言う。違うんだと思う。
(本当に、そういうんじゃないのに)
どうして、わかってくれないんだ。
どうしようもなく悲しかった。それでも現象は俺の中で渦を巻いていて、この男を加害したい、その欲望が、ずるずると俺を駄目にする。
大切にしたいのと同じくらい殺したかった。この男の首に手をかけて、喉元に刃物を突き立てたら、どれだけすっきりするだろうと。そんなことを思う自分がいちばん、嫌だった。
握りしめた拳を、三島が指一本ずつほどいていく。てのひらを重ね、指を絡めて、ゆっくりと手を握られる。こみ上げるのは哀切な感情だ。たとえ悪魔みたいな天敵でも、こいつは幸福になるべきだった。なのに。
「なあ、友達だろ。俺の時を止めてくれよ」
おまえを信じてるんだ。ささやきは毒みたいに俺を痺れさせた。絶対に嫌だと思った。かろうじて入るぎりぎりの力で、三島の手を振りほどく。ほとんど無力な抵抗に、それでも三島は素直に手を引いた。
「ほんと、いくじなし」
甘ったるい笑い声。眩暈がする。そういうんじゃない、言いたいのに、くちびるが動かない。
俺は無力感に耐えて下を向いた。三島がまた笑って、後始末しようか、と俺を誘った。
二人で、大量の蝶や幼虫、それからケージの中身を処分した。
死骸とはいえしょせん蝶だ。哺乳類でも鳥類でもない。なにか特別な埋葬が必要とも思えなかった。庭先に埋めることも考えたが、数が数だ。現実的ではなかった。
しょうがなく燃えるゴミに出すことにした。ビニールに大量に詰め込まれた生き物だったものと、彼らの暮らしていた残骸。見るだけで、罪悪感と自責の念が俺をひたすら打ち据える。
量が量だったため、キッチンの奥にあるいちばん大きなゴミ箱に突っ込んだ。台所にこんなものを捨てるのはためらわれたが、三島が構わないと言ったのだ。
「どうせ俺しか使わないし、ここ」
そう言われては返す言葉もない。俺は素直にゴミ箱に袋を入れて、蓋を閉じた。
三島が踏み潰した死骸の鱗粉で、飼育室の床は汚れていた。それをすっかり拭き取って、手を洗って、ダイニングに戻った。キッチンに三島の姿が見えた。
三島はゴミ箱の前に立っていた。横顔には淡々とした無表情が張り付いていて、彼は無造作にゴミ箱の蓋を持ち上げた。腰を曲げ、中身を覗き込む仕草。
じっ、と眼鏡の奥の瞳が、中の死骸を見つめる。名前のない宝石みたいな、危なっかしい瞳。それがすうっと細くなって、三島は嬉しそうに笑った。ぞっとした。
「──やめろ」
ダイニングのほうから、短く呼びかける。三島はふとこちらを向き、あの不思議な色の眼差しで俺を見て、笑って。ゴミ箱の蓋をぱたんと閉じた。
「うん。そうだな」
なんの頷きかわからない相槌。痩せた手が、ゴミ箱の表面をそうっと撫でる。慈しむように目元が細くなり、三島は小さく息を吐く。
それはまるで、同類を弔うような手付きだった。




