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それから、俺たちの同居生活がふたたび始まった。
俺と三島と父親の、奇妙で不格好な生活。とはいえ、父はほとんど俺たちに関与しなかった。
今はちょうど四半期を切り替えたばかりで、なにかと忙しいらしい。基本的に帰宅は深夜で、数日家に戻らないこともしょっちゅうだった。
ただ、ごくたまに訪れる三人の朝食は、やはりあまりにもぎこちなかった。レシートを出すようになった三島が作った朝食を並べて、なんとも言えない空気の中、無言で食器の音だけが響く。
父は仏頂面で当たり前のように食事を取っていたし、三島は淡々とコーヒーだけを飲んでいる。俺はいたたまれなさに耐えつつ、以前よりちゃんとした朝食を無理やり口に押し込むのだった。
片付けだの掃除だの、三島が家のことを勝手にやることも増えた。そういうのやめろ、と言っても、どうせ暇だし慣れてるから、と言われてしまう。うまい反論ができなかった。
三島が暇、というのはその通りだった。あれだけやっていた読書も勉強も、三島は一切しなくなっていた。
空いた時間を埋めるように家事全般に手を出して、それでもすることのない夜は、ベッドの上で壁にもたれてぼうっとしていた。
俺は毎晩、三島の母に電話を入れた。三島にあんなことをした相手と話すのは苦痛だったが、培った〝完璧〟を駆使して穏やかな会話を作った。
三島の母は相変わらずだったし、俺は本当のことなんて一つも教えない。三島くんはうちでちゃんと勉強しています、反省もしています、そういう嘘ばかりをずらずらと電波に乗せた。
そうして、新しい日々が馴染みはじめたころ。
午前の授業を終えて、さて昼休みだな、というタイミング。俺は教科書を机に押し込んで、昼のパンを出そうとしていた。
ごそごそと鞄をさぐっていると、ふと目の前に影が落ちた。顔を上げる。表情のない三島が、机の横に立っていた。
レンズ越し、静かな目でじっと見下ろされて、ひるむ。ひりつきはじめる警戒心。耳元のピアスが光って、終わらせてくれという言葉が蘇る。
さすがにこんなところで、妙な真似はされないと思うが。それでもつい及び腰になって、なんだよ、なんて口にしていた。
三島は俺の狼狽など気にも留めず、すっ、と手に持ったものを差し出した。布で包まれた四角いもの。どう見ても弁当だった。
とん、と机の上に弁当を置かれて、俺は思わず三島を見上げた。
「……なに、これ」
「こないだのお礼」
なんだっけか。しばらく考えて、そういえばパンをやったことがあったか、と思い至る。
三島は淡々とした表情で、おまえいっつも惣菜パンとかばっかだから、と言った。
「あ、ああ……」
それはそうだけど。だからって、教室で渡すのはどうなんだ。家を出る前に渡せばよかっただろうに。
顔をしかめる俺を放って、三島はさっさと席に戻る。そして肩越しにこちらを振り返ると、とんとん、と机を叩いた。こっちに来い、ということだろう。
教室中の視線が集まるのを感じる。それはそうだ。自分がかなり目立つ人間だとは自覚している。一方の三島は真逆だとも。
そんな三島が、俺に弁当を渡して、自分の席に呼びつけているのだ。目立たない方がどうかしている。
はーっ、とため息が漏れた。それでも三島は振り返ったまま、じっと俺を見つめている。
これは行くまでやめないな、と思ったので、しょうがなく立ち上がった。弁当を手に、三島の席に歩み寄る。
「……ん」
とんとん、と正面の位置を叩く。座れということだろう。仕方なく、三島の前の席に座った。
ちら、と壁際で話し込んでいた、この席の主を見る。彼にはすでに、三島は部活が一緒だから、ときどき椅子を借りていいか、と頼んでいる。
俺の伺う視線に、慌てたような頷きが返ってきた。椅子を使う許可は出たらしい。それはいいのだが、しかし。
(視線がすげえな……)
教室中の注目が、針のように突き刺さるのを感じる。いたたまれない。
俺と三島が生研部の部員なのはみんな知っている。だが、普通ただの部活仲間に弁当は持ってこない。手作りならなおさらだ。
だが、三島は視線を気にしたそぶりもない。俺は思わずこぼしていた。
「なんのつもりだ」
「なにが」
「だって──」
言いかけた俺に被せるように、三島が言う。
「俺はおまえの家にいることを、隠すつもりはないけど」
わざとらしい、はっきりした声だった。教室が一気にどよめく。な、と口を半開きにした俺に向かって、三島が薄く笑った。
「宗像はまずい? 俺なんかと暮らしてること、ばれるの」
「それは……別に……」
「そう。よかった」
それだけ言って、三島は弁当を広げた。ピンで留めているはずの髪をかきあげるような仕草。耳元の青いピアスが存在を主張して、ぞくりと思わず目を背ける。
三島が小さく笑った。絶対に、わかった上で、こうされている。
それがはっきりわかるのに、抗うことができない。絡め取られていくような、操られるような、恐怖じみた感覚があった。
背を丸めて弁当を広げる。中身は三島のものとまったく同じだった。夕食と朝食の残りを詰めただけだが、俺が普段食べてるパンに比べればそうとうマトモだ。
いただきます、と挨拶して箸をつける。三島の料理は正直、味付けにかなりのムラがある。やたらしょっぱい日もあれば、ほとんど味がしないときもしょっちゅうだった。今日も卵焼きは無味に近い。
(たぶん、味覚障害出てんだろうな……)
そろりと三島を伺った。うまいんだかまずいんだかわからない顔をして、彼はただ淡々と箸を運んでいる。弁当は俺のそれよりずいぶん小さい。それすら残すことが多いのを知っている。
(ほんと、無理にでも食わせねえと)
またぶっ倒れられては敵わない。俺はいちおう三島の親からこいつを任されている身だし、なにより、意識レベルが下がってリミッターが外れた三島と接するのは危険すぎた。俺にとっても、三島にとっても。
「そういえば、おまえ、病院は」
ぴくっ、と三島が手を止めた。返事はない。俺はため息を押し殺した。
「薬……も、飲んでねえよな」
三島はじっと黙っている。その顔色は相変わらず青白くて、健康でないのは明らかだった。
「……あのなあ。処方された薬はちゃんと飲め」
「どうせ栄養剤と睡眠導入剤だし」
「だったら尚のことだろ」
栄養も睡眠も、どう見ても足りていない。なにがどう『どうせ』なのか。
どう説教したものかと頭を痛めていると、ふ、と三島が笑う声がした。顔を上げる。
「いらない。だってどうせ、宗像が終わらせてくれるから」
俺の、全部を。そう続ける声は静かで、でも奥の方に熱っぽい響きがあって、悪魔的だった。ぞくっ、とする。机に置いた手がぴくりと跳ねた。
三島がそっと箸を置く。するりと手が伸びてくる。白い指の先が、とんとん、と俺の人差し指の爪を叩いた。いたずらじみた動きで、三島の人差し指が、掬い上げるように俺の指を取る。
絡めた指を、きゅっと握られた瞬間。押し寄せるようにあの電車内のことが蘇った。たった一本きりの指をつないで、諦念みたいな顔をしたまま、曖昧なGに揺られた夕方のことを。
(俺は──やっぱり、バカだ)
あのときの感情ごと思い出して、切なくなる。こみ上げる、泣きたいような情動が、触れ合った場所を離したくないと主張する。でも。
この細い指をつかまえて、どうしたいのか。へし折りたいのか、触れあいたいのか、俺にはどうしてもわからない。三島への感情は複雑すぎて、あの現象から来るものなのか、もっと違う場所が震えているのか、ちっともはっきりしない。
俺の沈黙をどう取ったのか、三島はくすりと笑った。
「いいじゃん。友達だろ」
ちがう、と今すぐ答えたい。俺たちが友達だったことなんか一度もない、おまえを終わらせるための友達になんかなりたくない。
でもじゃあ、俺たちはなんなんだ。それだけがどうしても、わからない。
三島が笑っている。破滅の予感に対するうっすらした恐怖と、相反して満ちてくる、静かでとても切ないもの。
その正体がまるでわからないまま、俺はぐっと箸を握りしめた。
まだ半分以上残っている弁当箱を、正面の三島がぱたんと閉じた。




