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それから、三島と俺、そして父の奇妙な同居生活がはじまった。
ただ、同居とはいえ、父は多忙だ。帰宅は遅く、夕食をともにすることも滅多にない。ただ朝だけはちらほらと三人でいることがあって、そのたびに俺は死ぬほど気まずい思いでパンを口に運んでいた。
父は新聞を広げて一言も喋らなかったし、三島は目を伏せて淡々とコーヒーを飲んでいる。俺だけがいつもいたたまれない気持ちで、父と三島と俺という、不自然なダイニングに縮こまっていた。
当たり前のように三島が洗い物を担当し、父は夕食の有無だけを告げて家を出ていく。
俺はなにもしていない自分を持て余しつつ、身支度をして三島と同じ電車に乗った。
そうして数日が過ぎた。家でも部活でも三島とともに過ごす日々は、どこか息苦しくて、不安定で、甘いような怖いような、得体の知れない緊張に満ちていた。
教室では〝完璧〟の形を保っている。部活は三島とふたりだし、家でさえ様子のおかしな三島と、寝るまで一緒に過ごしている。心休まる時間など一秒たりとも存在しない。俺はだんだん疲弊していった。
久しぶりの雨、梅雨のそれにしては激しすぎる水の音が、窓の外でざあざあ響いている。
がらんとした生物室の中、俺と三島はやや離れたところにぽつんと座っていた。
生研部の活動は、ほぼ停止していた。
最低限のマウスの世話だけして、他にはなにもしていない。下校時間を知らせるチャイムが鳴るまで、無言で椅子に座っているだけだ。
室内に漂う、なんとも言えない緊張感。息が詰まる。
俺は逃げるように襟元に手をやった。雨のせいもあるだろう、ゆるい空調しか入らない生物室はじめじめと暑い。
ちら、と少し離れた三島を見やった。横顔がぼんやりと、どことも知れぬ場所を見つめていた。
三島の怪我は少しずつ回復している。それでもガーゼはまだ取れないようで、治りかけ特有のどす黒い痣が痛々しかった。
ヘアピンで留められた耳元から、きれいなピアスが覗いている。海の底みたいな青。ぞわぞわする。
三島がなんのために、わざわざピンをつけているのか。うっすらとした予想はあるものの、深く考えたくはなかった。
俺は視線を逸らそうとして、けれど身勝手な視線があの青に吸い付けられるのを、どうしても止めることができなかった。
ぞくぞくと現象が動き出す。衝動をばらまき、欲望を掻き立てて、俺の底で黒いものが渦を巻く。
あの青色を、親指で撫でて、優しくつまんで、できるだけゆっくりと引っ張りたい。まだ薄いかさぶたの残るピアスホールを、今度こそ引きちぎってやりたい。
想像するだけで全身の産毛が逆立った。皮膚のいちばん薄い表面がなぞられたようにぞくぞくして、俺は自分を飲み込もうとする現象に、押し流されてしまいそうになる。
ふと、三島がこちらを向いた。ばちっ、と視線が交わる。その途端――彼は淡い微笑みを浮かべた。
誘うような、罠にはめるような、甘ったるい毒みたいな表情だった。
「どうしたんだよ、宗像」
笑みと吐息にまみれたささやき。その声音からは、俺がなにをどうしたいのか、完全にわかっている、という意図が伝わってきた。
目を背けたいのにどうしてもできなくて、俺はただ動物みたいに喉を鳴らす。三島がくっ、と笑った。
「すごい顔」
「……うるせえよ」
楽しげな声にイライラする。だけど同時にぞくぞくするほどそそられる自分がいて、うんざりした。
もう嫌だ、あっちに行きたい、楽になりたい、どうせ三島は拒否しない。それがはっきりわかるから、余計につらかった。
ぎりっ、と手を握り込んで、俺を震わす現象に耐える。
不条理で、理不尽で、ちっぽけな人間の力などまるで及ばない大きなもの。それでも、飲み込まれるわけには行かない。理由はわからない。もう母は戻ってこないのに、なぜ。
喉がからからに乾いて、どうしても目が逸らせない。バカみたいだと自分でも思う。それでも、逃げることができない。
三島が笑う。立ち上がり、椅子がかたりと鳴る音。
三島が、ゆっくりと歩み寄ってきた。ぴくっ、と俺の肩が揺れる。逃げたい、と思うのと同じくらい、逃げたくない、という情動が襲ってきて、混乱した。
すぐ隣の椅子に三島が腰を下ろす。ピンで留めた耳元を晒したまま、彼はやや上目遣いで俺を見上げた。ぞわぞわした。
脳裏に蘇るのはあのときのことだ。
崩れ落ちた俺が慟哭して、熱っぽい指が俺の顔を上げさせた、あのときの。薄く開いたくちびるから漏れた言葉まで思い出して、俺は苦々しく口を開いた。
「……あのときの、あれ。どういう意味」
「ん? どれだっけ」
明らかにわかっている口調で言われて、苛立ちと抵抗を込めて三島を睨む。それなのに彼はどこ吹く風とばかりに微笑んでいる。ますます強く睨みつけた。
ふ、と息を吐く音がする。三島が軽く肩をすくめた。やっぱりすごい顔、と小さな声。
「俺にしなよって言ったやつ?」
「覚えてんじゃねえか……」
「まあな」
三島は軽く目を伏せて、くすりと笑った。そして視線を持ち上げる。
眼鏡の向こう、危なっかしい、あの不思議な色の瞳が、じわりとにじんで揺れていた。
眼差しが細くなって、三島の手がするりと伸びてくる。
膝の上できつく握った手に触れられて、びくっ、と身体がこわばった。楽しそうな笑い声。
「俺が怖い?」
「んなわけ、ねえだろ……」
「そう」
ゆっくりと手を持ち上げられる。
握り込んだ指を、一本ずつ開かれて、三島の指がそっとてのひらに絡みつく。手を握られただけなのに、全身が囚われているようだと思って、身体中の皮膚がぞわぞわした。
さっきからずっと笑みを隠さない三島が、そのまんまの意味だよ、とささやく。
「そのまま、って――」
「だから。そのまま」
つい、と握った手を引かれた。抵抗したいのに、なにもできない。
なすすべなく手を引かれ、ピンのせいであらわになった耳元に、俺の手が近付いていく。三島が微笑む。
「いいんだよ、引きちぎっても」
「っ……!」
呼びかけは、まるで悪魔のようだった。
語尾の掠れた、俺より少し高い声。震えそうになる。一瞬で欲望がこみ上げて、腹のいちばん底で、現象がぐるぐると喉を鳴らす。指先がびりびりと痺れて、じいん、となにかが背を震わせた。
くちびるを噛み締めて、必死に耐える。どうして耐えているのか、理由がわからない。耐えるだけの根拠など俺にはもうとっくに残っていなくて、それでも、バカみたいな忍耐を続けている。
三島が、しょうがないものを見るような目で俺を見つめた。やわらかな眼差しが、硝子レンズの奥で光っている。
ざあざあと雨の音がする。外も中もこんなに湿気に満ちているのに、じっとりした皮膚感覚、それなのに喉の奥ばかりが乾ききっている。
「じゃあ、……手伝ってあげる」
歌うような声がした。指先をいじられて、耳を摘まされる。その上から、痩せた手が重ねられた。
ぴったりと触れ合った皮膚から、じわじわとなにかが浸透してくる。怖いような甘いような、毒みたいな、悪魔的なものが。
三島はうっすらと笑うと、ゆっくりと、俺の手ごとピアスを引っ張った。ひくっ、と喉の奥が鳴る。
少しずつ細くなるピアスホール。どくどくと心臓が鳴って、逃げたいのに続けたい自分が、俺をどうしようもなく混乱させた。
「やめろ」
三島は聞き入れない。ただ淡々と、俺の手を操っている。
「ちがう――」
今すぐにやめさせたい。ずっと続けていたい。もっとほしい。どろついた赤い色が、あの青を汚すのを、どうしても見てみたい。
「やめてくれ、」
どくん、どくん、と全身が脈動した。
ぶるぶると心臓の奥が震えて、欲望と拒絶と、恐怖と陶酔が、俺をばらばらにする。
指先に勝手に力がこもりそうになる。三島の補助を超えて、ほしいままに振る舞いたくなって、でも――
「三島――ッ!!」
ほとんど悲鳴、みたいな声だった。
ばしっ、と三島の手を振りほどく。殴るような勢いで振り抜かれた手はかすかに震えていて、三島がぱちぱちとまばたきをする。
耳元は――無傷だ。無事だった。
はあッ、はあッ、と肩で息をする。心臓が、破れそうなほど脈打っていた。
じいんとした余韻に身体中が満ちていて、ぞくぞくした痺れがまだ、ちっとも抜けてくれない。目を閉じてそれに耐えた。
「……」
ふ、と吐息が聞こえた。うなだれたまま、そろそろと顔を上げる。
三島は薄く目を細めて、つまらなさそうに俺を見下ろしていた。
「……いくじなし」
それだけを言って、三島は淡く微笑んだ。
本当に、一度も、見たことのない顔だった。
(この男は――どうしてしまったんだ)
まるで別人だ。あの愚かで単純でわかりやすく、誠実で真面目だった三島は、もはやどこにも見つからなかった。
ほとんど呆然と顔を上げる。自失したままの俺をよそに、三島はさっさと立ち上がって、なにやら準備をはじめていた。
「解剖。今日はどうするんだ」
「……っ」
そんなこと、する気にもなれない。〝現象〟に余計な餌をやりたくなかった。これ以上ひどいことになりたくない。
ゆるゆると首を振る俺を見て、ふうん、と三島は紙を取り出す。ぺらりとめくったそれは、解剖の手順書だった。
それきり、三島はふいと身を翻した。準備室と生物室を行き来して、解剖道具を用意する。マウスのケージを取り出して、換気扇のスイッチを入れる。
ぶん、という駆動音と共に、室内の空気がゆっくりと循環しはじめた。
「俺の話、聞いてたのかよ」
今日はしないって言ったろ、と続けようとして。ぱちん、とゴム手袋をつけた三島が、すっとハサミを手にするのを見て絶句した。おまえ、と言いかけて、言葉にならない。
三島がちらりと俺を見て、揶揄するように笑った。
ケージの中に突っ込んだ手が、一匹のマウスを掴み出す。腹を上にして転がし、バンドで固定する。うごめく小動物の手足。三島が目を細める。
「麻酔は――いいよな」
「っ……」
返事が、できなかった。
三島は俺の返答など待っていないようで、うん、と小さな相槌を唱えている。「えーっと」と手順書を見る視線が、紙の上を滑っていった。かちかちと中空で動かしたハサミが光る。
雨の音。じっとりした、水っぽい空気。息を呑む俺、静かな目の三島。
──その日、三島はひとりでマウスを解剖した。胃潰瘍はできていた。




