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気分が悪い。コンディションは最悪だった。
あの解剖のあと、俺と三島はまったく無言のまま家路についた。同じ電車の中で視線を合わせずGに揺られて、傘と傘のおかげで少し離れた距離を歩いて、黙って家の鍵を開けた。
そうして、簡単な着替えを済ませて、リビングとダイニングにわかれて座って、夕食が届くのをじっと待った。本を読む気にもなれなかった。
テーブルの上に両肘をついて、組んだ手の上に額を置く。胸糞の悪さにじっと耐えた。
思い出されるのは血の匂いと、ハサミが肉を裂いていく音。そして鋭く高いマウスの悲鳴だ。
三島は麻酔を使わなかった。マウスの悲鳴は最初は耳に痛いくらいだったが、すぐに聞こえなくなった。
あんなもの学術でもなんでもない。ただの悪趣味な露悪行為だ。
わかっているのに、俺はどうしても、三島の行為から目をそらせなかった。嫌になる。
腹を開かれ、ばらばらにされていくマウスを見て、俺の心はわずかしか高揚しなかった。
それよりも、視界の隅でしきりに存在を主張するピアスの方が、よほど強烈に俺を魅了した。そのことがなにより堪えた。
(俺は、まだ――大丈夫でいられるのか)
蝶を殺した。マウスを殺した。猫は殺さなかった。
でも、俺はいずれ、三島を。
血の匂いが充満する生物室で、こみ上げたのは間違いない加虐欲だった。
すぐ目の前に残虐に潰されていく小動物がいたというのに、俺の注意は三島のほうにばかり向いていた。
怖かった。自分がどうなってしまうか、どうすればいいか、まるでわからない。
あの男を加害したい、その欲望の輪郭が、日に日にはっきりしていくのが、怖かった。
永遠みたいな時間がだらだらと過ぎて、ポーン、とチャイムの音。
はっと顔を上げる。カーテンが閉まっていた。どうやら三島が勝手に閉めたらしい。
俺はのそのそと立ち上がると、インターホンを確認した。
いつもの配達員だ。夕食の時間らしい。張り詰めた息を吐いた。玄関に向かい、デリを受け取る。
ダイニングに戻ると、三島はすでに箸を並べていた。すっかり慣れた手順で、グラスが二つ並べられる。中身は麦茶だ。三島が勝手に買ってきたものだった。
「……食事、来たから」
「うん」
言葉少なに準備して、対面に座って食事を取る。
三島の箸は相変わらず、びっくりするほど進んでいなかった。ほとんどの料理に手を付けきれず、いつも半分以上残すこともざらだった。
これ以上痩せたらぶっ倒れるぞ、と思って、でもこの男はすでに一度倒れている。そこまで思い出して、あのベッドの上で見上げてきた蕩然とした眼差しが蘇って、ぞくっとした。必死で振り切る。
はあっ、と息を吐いて箸を下ろした。眉間に寄った皺、目の間をぐりぐりと揉む。
疲れていた。家の中ですら気が休まらない。そんなのはずっと昔からだったけれど、三島が来てからはなおさらだった。
(俺が唯一安らげる場所は、もう――……)
じわり、と苦い感情がこみ上げる。
あの格子で囲まれた白い病室で、母の前に座っている間だけは、他の誰でもない、ただの宗像達也で、母さんの息子でいられた。息継ぎの間だけでも自由にできた。思ったことをそのまま話せた。
(でも、母さんは二度と戻ってこない)
父は有言実行の人、やるからには徹底する人物だ。本気を出せば、母の居場所を隠すことなど造作もない。『おまえを監視している』という言葉だって本気だろう。下手したら家中にカメラがあってもおかしくない。まるで母の妄想みたいだ。
現実にうんざりして、箸を握り直したとき。三島がかちりと箸を置く音がした。顔を上げる。三島の食事はほとんど減っていなかった。今日はとりわけ食が細い。思わず顔をしかめた。
「おまえ、もうちょっと食わないと――」
「なあ、宗像」
ぽつり、とした声に言葉を飲み込む。
三島はすっと顔を上げると、不思議な色の瞳で俺を見つめた。静かに言う。
「宗像って、俺のことばっか気にしてるよな」
「え……」
「こないだの怪我とか、俺のうちのこととか、食事がどうとか、ちゃんと寝てるかとか」
「それは」
三島の言うとおりだった。嫌悪と拒絶はたしかにある。それでも、俺はなんだかんだ三島を気にかけていた。
だってしょうがないだろう、三島の様子はどう見ても尋常じゃなくて、誰が見てもその豹変ぶりは明らかだったのだから。
苦い気持ちで黙っている俺を見て、三島が小さく息を吐く。ふ、と頬のあたりに皮肉げな笑みが浮かんだ。
「あのとき、俺のために病院に行くのを止めたから、こんなことになってるのにな」
「……っ」
半ば笑み混じりの、皮肉みたいな声に、ぐっと憤りがこみ上げる。
なんでこの男は、わざと俺を逆撫ですることばかり言うのだろう。失言なんかじゃない、明らかに狙って放たれた言葉に、俺はじっと苛立ちを耐える。
反応のない俺に、三島がつまらなさそうな顔をした。ますます嫌悪が大きくなる。そうだよ誰のせいだと思ってるんだ、怒鳴りたい気持ちを必死に抑えた。
だってそんなのはただの八つ当たりだ。あの終わり方はたしかに三島のせいだった、でも。俺が母を取り上げられたのは三島のせいじゃない。契約をやぶったせいだ。
ひたすらにくちびるを噛んだ。こんな怒り、正当でもなんでもない。俺はたしかに合理的になれない子供だけど、わかっていて理不尽を他者にぶつけることはできなかった。
それでも睨むことだけは避けられなくて、俺は歯を食いしばって三島を見据える。苛立ちもあらわな視線、それでもなにかすることだけは駄目だと、テーブルの上できつく手を握りしめる。
力の込め過ぎで白くなった俺の手を、三島の視線が淡々と見下ろした。つまらないものを見る目。ふ、と小さな声。
「ああ、そういうこと」
納得したように三島が言った。にこ、とわざとらしい笑みが浮かぶ。
「もしかして。あのお母さんと離れられて、ほっとしてる?」
「な――っ」
「まあ、そっか。あんな人の面倒ずっと見るなんて、ろくなもんじゃないよな」
「ッ……」
耐えろ。それだけを言い聞かせて、でも。
三島が笑う。細くなった目、上がった口角から、楽しげな、からかうみたいな声が発せられた。
「よかったな、宗像」
混じりっ気のない祝福、みたいな口調で言われて──とうとう、かっ、となった。
ガッ、と椅子を蹴って立ち上がる。顔が熱くなって、食いしばった歯がぎりぎり音を立てる。
「クソが!! おまえに何がわかんだよ!!」
だん、とテーブルを殴った。こっ酷い激情が心臓をぐちゃぐちゃにした。
はっ、はっ、と息が短くなって、こいつのせいで、こいつさえいなければ、頭の中で思考がぐずぐず回る。
こんな奴さえいなければ、もう少しでも、まともな終わり方があったかもしれないのに。なにもかもわかった上で、どの面下げて、笑って、こんな暴言を。
「ッ……!」
気が付けばグラスを掴んで、思い切り投げていた。ほぼ直線の軌跡を描き、三島の頬をかすめたグラスが壁に叩きつけられる。水気混じりのけたたましい音。びしゃっ、と壁に薄茶色が飛び散って、ばらばらと破片が床に落ちる。
「……」
その全てを受け止めて、三島は――黙ったまま座っていた。まったくの平常だった。
治りかけていた頬の痣、その上にぴっ、と赤い線が走っている。みるみるうちにそこがじわりと滲んでいって、血が一筋、つうっと頬の上を伝っていった。
「あ――……」
バカみたいにまばたきを繰り返して、現実をようやく認識する。
壁を汚して伝い落ちる麦茶、砕け散ったグラスの破片、そして三島の傷。
(俺、は――)
ふら、と一歩後ろによろめいた。座ろうとして、椅子が倒れてることに気付いて、かくりと身体が傾ぐ。俺はふらふらと姿勢を崩したまま、片手で顔を覆った。震える声が喉の奥から絞り出される。
「……悪い……」
消え入りそうな声だった。それくらい、自分の行為に堪えていた。
傷付けたいなんて、その欲望に流されたいなんて、思いたくはなかったのに。行動になんて移すつもりはなかったのに。
けれど三島はとても静かな目で俺を見つめて、
「どうして」
それだけを淡々と尋ねた。そして、眼鏡の向こう、あの不思議な色合いの目を細めて、よくわからない微笑みを浮かべた。ぞっとした。
怖かった。この男は一体どうしてしまったんだ。
三島がなにを考えているのか、ちっともわからない。ただただ得体が知れない。
単純で愚かだったはずの男が、今の俺にはまるで正体のわからない悪魔みたいに見える。
三島、と呼びかける声はあまりにもかすかで、返事などひとつも返ってこなかった。
呆然と立ち尽くす俺を放って、三島は静かに立ち上がると、黙ってグラスの破片を片付けはじめた。




