59
胸の底に穴が空いたような、ひどい虚無感のまま面会を終えた。
空っぽの感情で廊下を歩き、来たばかりのエレベーターに乗ると、見覚えのある人影があった。三島。
「……三島」
「む、宗像じゃん」
淡々とした目で三島を見つめる。俺はごにょごにょと挨拶じみたことを言う三島を無視して、彼の隣に身をもたせかけた。ゆっくりとドアが閉まる。
そわそわとこちらを伺う気配。無造作に腕を組み、俺はほとんどなにも考えないまま、言った。
「……おまえ、さっき病棟で、俺のこと見てたろ」
びくっ、と隣の肩が跳ねる。あまりにもわかりやすい。
「あ、や、やっぱ宗像だったんだ。似た人いるなーって、思ったんだ……」
おどおどとした口調とわざとらしい言い訳に、今日ばかりは腹も立たなかった。そんなことは、もうどうでもよかった。
俺は黙ったまま、ちら、と三島の方を見る。眼鏡の奥で揺れている、怯えたような瞳。無意識に加害を誘う、自分だけは絶対に悪者の立場になろうとしない、そんな卑怯な人間の。目元が歪む。
「──……っ」
──おまえみたいな人間、俺はいちばん嫌いだよ。
そう言いかけて、でも。
それより先に三島が、思いつめたように叫んだ。
「お……お父さんには黙ってるから!」
ぴく、と組んだ腕が痙攣した。言いかけた言葉を飲み込む。
ごちゃごちゃした思考が頭の中をひたすら回った。今日の面会は『正式』だとか、おまえに口を出される謂れはないとか、でも父親にあれこれ言われたら面倒なのは本当で、これからも俺が戦い続けるのなら、トラブルの芽は積んでおくべきだ、とか。
だから俺は、あらゆる言葉を飲み込んで、
「──……頼むわ」
ただそれしか、言うことができなかった。
ちょうどそのタイミングで、電子音と共にドアが開く。外の西日が差し込んでくる。
俺はかすかに目を細めると、エレベーターの外に三島を誘った。
振り返った先、強烈に差し込んだ光を浴びた三島は、ためらうように目をすがめていて、なにを考えているのかよくわからなかった。どうでもよかった。
空っぽの感情のまま、バス停で三島と並んでバスを待った。
長ったらしいベンチの端と端にふたりで腰掛けて、三島がちらちらと俺を伺うのを、完全に無視して過ごした。
本当なら、もっと笑うなり話しかけるなり機嫌を取ってみせるなり、するべきだった。
でも今の俺は三島の前だと言うのに、自分を取り繕うことが、まったくできていなかった。
果てのない、だらだらした沈黙のすえ、一台のバスがロータリーを回ってくる。駅には行かないやつだ。ただあれは〝カメラ〟を買う家具屋に行くバスだから、たまに使っていた。
三島が逃げるように腰を浮かせたのを、言葉だけで止める。別に勘違いで乗ってもらってもよかったのだが、さすがに駅からまったく正反対のバスに乗せるのはためらわれた。
三島はそうなんだ、とだけ言うと、おずおずとベンチに戻る。ちらちらと伺う視線をされて、本当なら俺はそれを無視するべきだった。でも、胸のうちに満ちた虚無感みたいなものが、俺の口を勝手に動かした。
「……たぶん、見てたと思うけど。うちの母親、ここに入院してんだ」
「そ……そうなんだ」
「そう」
他に言うべきこともない。母の存在そのものは、俺の弱みにはなり得ない。それでも、あまり大勢に知られたいことでもない。ただ、相手は三島だ。こんな奴には吹聴する友人もいないだろう。
(まあ、いいか……どうでも)
薄曇りごしの西日をさえぎり、目の前でバスが口を開ける。空気の漏れる音。俺はただ座ったまま、顔に落ちた影を感じながら、黙っていた。
思い浮かぶのは母の顔、あの春に見た、なにより大切だったはずの思い出だった。それからたった今見てきた、なにを言ってるのかわからない、という、不思議そうな表情も。心臓の奥が痛い。
(ほんとうに……大切な、記憶だったのに)
どうしてこんなことばかり起こるのだろう。
俺はいつまで戦っていればいいのだろう。
母はもとには戻らない。あの光景は二度と戻ってこない。
そんなことはわかりきっていて、それでも、手放すことができない。落ちるわけにはいかなかった。
ずっと戦い続けなければならない。
ひとりでも、苦しくても、痛くても泣きたくても、絶対に外に出してはならない。
倒れたら終わりだ。俺は完璧じゃなきゃいけない。
まだここにいたい。たとえ戻らなくても傍にいたい。どうしても失いたくはなかった。
バスのドアが閉まった。プシュー、と音を立て、傾いたバスが戻っていく。
「……知識は、俺を裏切ったりしない」
勝手に言葉が漏れていた。ほとんどおまじないのような、呪文のような、今となってはただ、すがりつくためだけの言葉だった。
たとえ母の記憶からあの約束が消えたとしても、もうとっくに、俺の周りには誰ひとりいなくなっていたのだとしても。知識は俺を裏切らない。それだけは、まだ俺を守ってくれる。そのはずだ。
すぐ隣で、三島が小さく息を呑む音がした。でも俺は、彼のほうを向いてなにかを言ってやるだけの気力が、ひとつも残っていなかった。
出ていったバスの向こうから雲間が途切れて、鋭い西日が目を焼いた。
三島も、俺も、ずっと黙ったままだった。無性に苦しかった。




