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【完結・BL】転校生に学年トップを奪われたから弱みを握ろうと友達のフリして近付いたらとんでもない修羅場が待っていた  作者: ルー
【中編 / 02】 境界を保つための

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 誰かが──ついてきている。

 病院の廊下を歩きながら、俺はぴくりと指先を震わせた。


 明らかにつけられている。足音の間隔が同じだし、俺が止まると後ろの足音も止まる。勘違いということはないだろう。


 手近なガラス窓を使って背後を確認する。そこに映っていたのは予想外の人影だった。


 痩せた身体、雑に伸ばした黒髪、眼鏡の奥の不安定な瞳。

 間違いない、三島だ。ため息をつく。


(あいつ、なにやってんだ。こんなとこで……)


 どうして病院にいるかは知らないが、どうせたまたま院内で俺を見つけて、思わず後を付けてきたのだろう。

 まったく、普段は消極的で受け身なコミュ障のくせに、なんで変なところで無駄にアクティブなんだ。意味がわからない。


 母との面会は弱みでもなんでもないが、俺の内面のやわらかいところに直結している。それに精神を病んだ親に会いに行っていることなんて、ただの部活仲間のクラスメイトに話すべきことでもない。


(……撒くか)


 さっと判断して、俺はエレベーターを諦めた。

 普通ならエレベーターを使ったほうが撒きやすいのだろうが、相手は三島だ。

 バカ正直に同じ箱に乗り込んで、しつこく付け回す可能性も捨てきれない。だったら階段のほうがマシだ。


 母の病棟は七階だった。足早に階段を登り続ければ、三島の体力だとすぐに無理が来るだろう。それで足が止まったところを一気に引き離せばいい。そうしよう。


 しかし、階段をいくら足早に上っても、三島は脱落しなかった。思った以上に食いついてきた。へろへろの足音はいつまで経っても消える気配がない。


 正直、ここまで根性があるとは思わなかった。なんでその根性を、俺の弱みを握ることなんかに発揮しているのかはわからないが。


 遠回りして本格的に撒こうかとも思ったが、約束の時間が迫っていた。俺はしょうがなく諦めて病棟に向かった。どうせ三島は閉鎖病棟に入れない。母との時間は邪魔されない。だったら、もうどうでもよかった。


 俺は病棟の入り口で母を待った。三島はわかりやすく壁の向こうから顔を覗かせていたが、さすがに近付いてくる気配はなかった。


 約束の時刻を過ぎても現れない母を待って、何度もちらちらと時計を見る。時間がすぎるたび、そわそわした感覚が強くなり、三島のことなんて気にならなくなっていく。


 ようやくガラス戸の向こうに母を見留めた瞬間、俺はすべてのことから解放されたような気分になって、久しぶりに心から笑った。三島のことは、完全に頭から消えていた。



 今日の母は陰性症状がきついらしく、ずいぶんぼんやりしていた。

 俺と一緒に病室に戻ったあとも、ずっと空を見つめたまま、ベッドにぽつんと座り込んでいる。


 しばらく風呂に入れていないらしく、母の身なりは乱れていた。俺は母に声をかけると、長い髪にそっと櫛を入れはじめた。


「母さん、ちゃんと食べてる? 少し痩せた気がする。具合が悪い時はしょうがないけど、最低限のものだけでも食べたほうがいいと思う」


 返事はない。毛先から丁寧に解きほぐして、べたついて絡まった髪が少しずつ整っていく。俺はそっと髪を撫でると、そういえばさ、と言った。


「引っ越してすぐのテスト。ちゃんと学年トップ取れたよ。ずいぶん前にやったところだから忘れてるかと思ったけど、わりと覚えてた。母さんの言う通り、毎日知識を入れてるからかな」


 母はぴくりともしない。俺は最後まで髪を整え終えると、さて、と着替えを取り出した。


「じゃあ、パジャマ変えようか。ちょっとごめんな」


 ボタンを外し、腕を取り、体位や重心をあちこち移動させて、俺は痩せた母の服を脱がせた。濡れたタオルで身を清めた。


 その間も俺はとりとめなく、あったこと、思ったこと、したいこと、やってみたいことなんかを話し続けた。

 母はなんの反応もしなかったけれど、それでもよかった。こうやって一緒の空間にいられることが嬉しかった。


 学校でも家でも、たとえ一人の空間でも。我慢ばかりして、ずっと自分を抑え続けていた。耐えて耐えてぎりぎりの縁で踏ん張って、なんとか自分を保っていた。本当に、必死だった。


 でも、今だけは、格子で囲まれたこの、誰も入れない空間にいるときだけは。なにひとつ飾らない、本当に素直な自分でいられた。たった一時間でも自由でいられる。なにより大切な時間だった。


 最後まで着替えを終えさせ、よいしょ、と母を座らせる。ぼうっとしたままの母、痩せた頬にかかった髪をそっと払いのけて、笑った。


「そうだ。最近、生研部で実験を進めてるんだ。またどこかで賞が取れたら、母さんに見せてあげるから」


 腰をかがめ、焦点の合わない瞳を覗き込む。母はぼんやりした目でまばたきを繰り返し、口がうっすら半開きになっていた。思わず声が出ていた。


「……なんか、三島みたいだな」


 言って即座に後悔した。いくらなんでも、母とあんな男を比べるものじゃない。


 三島の、え、という形で半開きになった口、動揺するとすぐ吃るところ、ちらちらと俺のことばかり伺って、ちょっと彼女みたいな扱いをするだけで、すぐに真っ赤になるところ。

 こんな場所で思い浮かべたいものでもないのに、勝手に浮かぶ考えに眉をひそめた。そのとき。


「…………たつや」

「母さん?」


 ようやく、母の瞳に光が戻った。焦点が俺のあたりで結ばれて、ゆっくりと動いたなめらかな眼球が、俺を捉えていく気配。

 母は半開きだった口を動かして、三島って誰、と静かに聞いた。


「あー……えっと」


 言葉に詰まる。三島のことなんて、ここで話もしたくない。

 でも、聞かれた以上答えないわけにもいかない。母の前で、変な嘘をつきたくはなかった。


 かすかに苦笑を浮かべ、うーん、と小さくつぶやく。


「同じ部活の、クラスメイト。俺が部長で、三島は副部長」

「……部活……?」

「生物研究部」


 母はぼんやりと首をかしげる。俺の言葉がわかっているのか、いないのか、どうにもはっきりしない。

 それでも構わなかった。俺は使用済みのタオルやパジャマを袋に突っ込むと、椅子を引っ張り出し、ベッドの傍に座った。笑いかける。


「部活は面白いよ。生き物のことがわかるのは楽しい」


 母はぼんやりと頷いた。嘘の言葉ではなかった。

 でも、生研部のことを考えると、よくわからない感情や、ぐちゃぐちゃと混乱した考えが湧いてくる。

 マウスの悲鳴と、三島の瞳と、俺の内側を占領し、しだいに大きくなっていく〝現象〟のことと。

 俺はかすかに目を伏せて、でもさ、と言った。


「でも、俺──……ちょっと疲れてるのかも」


 率直な言葉に返ってくるのは、そうなの、という実にうっすらした反応。それでも、返ってくるだけかなりマシだ。


 俺は椅子の上で背を丸め、膝のあいだでゆっくり指を絡め合わせた。小さなため息が漏れる。


「……母さんと会うために、ずっと、いろいろ頑張ってきたよ。行きたくもない学校を受験して、合格だけもぎとって、頭下げて近所の学校に通わせてもらって。成績もトップを取って、普段付き合う友達も選んで、なにもかも完璧にして、悪いところや駄目なところを、一個ずつ全部消していってさ」


 一度口を開くと止まらなかった。勝手に、ぼろぼろ言葉が出てくる。弱音のような、吐露のようなそれを、堪えることができない。


 俺はじっと俯いて、できるだけ感情的にならないようにと、それだけはせめて耐えて、言った。


「でも……いつまでそれを続ければいいのか、わからない。楽になりたいと思う。母さんの傍にいたいのは本当なのに、なにもかも投げ出してしまいそうな俺がいる」


 浮かんだのは飼育室での三島だ。俺のカーディガンを羽織って、その眼球に黄色と黒の色彩を映していた、あの。


 母はほとんど喋らなかった。ただ静かに息をして、うっすらと視線だけがこちらを向いている気配がある。

 返答がなくても、がっかりはしなかった。そういう病気だと、とっくに思い知っているからだ。


 母の無言よりずっと俺の感情を乱すものを堪えて、下を向いたまま、俺はぎゅっと組んだ指に力を込めた。祈りのような仕草だった。


「……ずっとここにいたい」


 泣き言が、ぽつり、と漏れていた。表情が歪むのを感じる。

 もう一度、絞り出すように、ずっとここにいたい、とささやく。


「帰りたくない。もう戦いたくない。なんにも考えずに、ここで、母さんと一緒に暮らしたい」


 情けない声だった。喉元にまったく力が入らなかった。俺はただうなだれて、押し殺したため息をつく。


 とても疲れていた。いつまで頑張ればいいんだろうと思った。三島なんかを家に上げて、あまつさえ蝶を見せてしまうくらいには、今の俺は参っている。それを思い知らされた。


 せめて乱れてしまわないよう呼吸を制御して、懸命になにかを堪えていると、ふと目の前が暗くなった。え、と顔を上げる。


 ベッドから身を乗り出した母が、そっと俺を覗き込んでいた。母さん、と声が出る。母は応えるように手を伸ばして、俺の頬にやさしく触れた。じいん、と胸の底が震えるような感覚を覚えた。


「……達也。大丈夫。大丈夫よ」


 それだけ言うと、母は少しいびつに笑う。そして、俺の頭を胸元に抱きしめた。懐かしいにおいがして、かつてやわらかかった母の腕の中は、すっかり痩せて骨っぽくなっていた。


 じわ、と視界がにじむ。俺はうん、とだけ言うと、母の袖をそっと握った。目を閉じて、小さく息を吸い込んで、ささやく。


「大丈夫。俺はまだ頑張れる」

「無理なんて、しなくていいの」

「違うよ」


 そういうんじゃない。言って、俺はそっと腕の中から顔を上げる。黒に近い焦げ茶の瞳、なつかしい母の眼差しと視線を合わせて、笑いかけた。


「俺はまだ大丈夫。まだ頑張れるよ。だって、知識は俺を裏切らないから。最後まで俺を守ってくれる。あの日、母さんが教えてくれたことがあるから、俺はまだ──」


 そこまで言ったとき、気付く。

 母はきょとんとした、まったく不思議そうな顔で、俺を静かに見下ろしていた。

 え、とかすかに瞠目する。母は目を丸くして、かすかに小首をかしげて。


「──知識が? どうして?」


 心底、わけがわからない、という顔で、言った。どう見ても、嘘もごまかしもなにもない、本心からの言葉だった。


(あ──……)


 浮かべた笑みが引きつった。うそだ、と思った。

 俺はほとんどすがるような気持ちで、知識だよ、と上ずった声を上げる。


「母さんが教えてくれたんだろ。知識は俺を裏切らないって。誰にも奪われないって。俺がひとりになっても、最後まで守ってくれるって」

「…………?」


 母が首を傾げる。いとけない、少女のような仕草。すがりつく指先が震えた。なあ、と呼びかける。


「わたしの代わりに、って。言っただろ……?」


 引きつって震える声で、頼むよ、と必死に言い募る。やめてくれと思う。そんなのはあんまりだとも。

 けれど母はただ、ゆっくりとまばたきをして、とても純朴な声で、


「……なんのこと……?」


 それだけを、ぽつりと言った。本当になにも知らない、ひとつもわからない、という表情だった。

 それで、母の記憶からはあの思い出が綺麗に消えてしまったのだと──はっきり、わかった。


「──ッ……」


 じわじわと、胸のずっと奥のほうで、なにか冷たいものがせり上がってくる。暗くて冷たくて、いやな感触の、ほとんど絶望に似た、でももっと暗くて重くて苦くるしい、なにかが。


 母は不思議そうな顔で俺を見つめている。首をかしげ、どうしたのと問いたげに俺を見つめて、かすかに笑みを浮かべる。


「達也は、頑張り屋さんだものね。えらいわ」

「…………っ」


 返事が、ひとつもできなかった。

 あの大切な思い出が、母の中からすっかり消え去ってしまっているという事実が、俺をひたすら打ちのめした。


 重い衝撃にも似た、えぐれるような胸の痛み。心臓がじくじくと引き絞られて、喉が苦しくて、こんなのは今さらなのに、思った以上にショックを受けている自分がわかる。


 みじめで、バカみたいだった。


 母はもう俺を守らない。その役割を知識に託して、あちら側に行ってしまった。

 俺の傍にはもう誰も立っていないし、あたたかいものなど存在してはない。あの光景はもう二度と戻らない。そんなことは、とっくの昔から、


(わかっていた、つもりだった──)


 でもそれは、つもり、なだけだった。ただの虚勢、つまらない強がりだった。


 本当はなんにもわかってなんかいない、納得なんて、ひとつもできていない。

 だってこんなに寂しくて、苦しい。むごたらしい事実に、打ちのめされてしまいそうになる。


 呆然とする俺をおいて、母はようやく意識がはっきりしてきたようだった。おどおどと、不安そうに辺りを見回しはじめる。腕を伸ばして、窓から俺を隠そうとする仕草。どうやら、〝監視〟の気配を感じてきたらしい。


「達也。どうしよう。聞こえたわ。またあいつらよ。ストーカーが」

「……」

「逃げなきゃ。ここにいちゃ駄目、でも、どうすれば……」

「──母さん」


 俺の心は痛いほど凍りついているのに、どうして言葉と笑顔だけはこんなになめらかに出てくるのか、不思議だった。


 俺は母を安心させるためだけの笑顔を、完璧さを作る上で身につけた、外でしか使ったことのないそれを浮かべて、大丈夫だよと母に笑いかけた。立ち上がってカーテンをしゃっと閉めた。


「カーテンさえ閉めていれば、外のあいつらも手出しできない。それでも不安なら、そうだな、今度、この部屋をぜんぶ調べてあげるから」


 また新しい〝カメラ〟が必要だと思った。あれの在庫があまりない。そろそろ取り寄せを頼んだ方がいいだろう。工作した〝カメラ〟は、父に見られないようにしなければ。


 ほとんど自動的な思考、淡々と動いていく頭の中と、完全に取り残された感情と。俺はすっかり乖離したふたつの間にひとりで立ちつくしたまま、母の不安をひたすら宥め続けた。


 それは外界で培った完璧な仮面の使い方と完全に同じ方法で、俺が唯一自由でいられる場所をなくしたのだという、純然たる事実を示していた。



 

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