58
誰かが──ついてきている。
病院の廊下を歩きながら、俺はぴくりと指先を震わせた。
明らかにつけられている。足音の間隔が同じだし、俺が止まると後ろの足音も止まる。勘違いということはないだろう。
手近なガラス窓を使って背後を確認する。そこに映っていたのは予想外の人影だった。
痩せた身体、雑に伸ばした黒髪、眼鏡の奥の不安定な瞳。
間違いない、三島だ。ため息をつく。
(あいつ、なにやってんだ。こんなとこで……)
どうして病院にいるかは知らないが、どうせたまたま院内で俺を見つけて、思わず後を付けてきたのだろう。
まったく、普段は消極的で受け身なコミュ障のくせに、なんで変なところで無駄にアクティブなんだ。意味がわからない。
母との面会は弱みでもなんでもないが、俺の内面のやわらかいところに直結している。それに精神を病んだ親に会いに行っていることなんて、ただの部活仲間のクラスメイトに話すべきことでもない。
(……撒くか)
さっと判断して、俺はエレベーターを諦めた。
普通ならエレベーターを使ったほうが撒きやすいのだろうが、相手は三島だ。
バカ正直に同じ箱に乗り込んで、しつこく付け回す可能性も捨てきれない。だったら階段のほうがマシだ。
母の病棟は七階だった。足早に階段を登り続ければ、三島の体力だとすぐに無理が来るだろう。それで足が止まったところを一気に引き離せばいい。そうしよう。
しかし、階段をいくら足早に上っても、三島は脱落しなかった。思った以上に食いついてきた。へろへろの足音はいつまで経っても消える気配がない。
正直、ここまで根性があるとは思わなかった。なんでその根性を、俺の弱みを握ることなんかに発揮しているのかはわからないが。
遠回りして本格的に撒こうかとも思ったが、約束の時間が迫っていた。俺はしょうがなく諦めて病棟に向かった。どうせ三島は閉鎖病棟に入れない。母との時間は邪魔されない。だったら、もうどうでもよかった。
俺は病棟の入り口で母を待った。三島はわかりやすく壁の向こうから顔を覗かせていたが、さすがに近付いてくる気配はなかった。
約束の時刻を過ぎても現れない母を待って、何度もちらちらと時計を見る。時間がすぎるたび、そわそわした感覚が強くなり、三島のことなんて気にならなくなっていく。
ようやくガラス戸の向こうに母を見留めた瞬間、俺はすべてのことから解放されたような気分になって、久しぶりに心から笑った。三島のことは、完全に頭から消えていた。
今日の母は陰性症状がきついらしく、ずいぶんぼんやりしていた。
俺と一緒に病室に戻ったあとも、ずっと空を見つめたまま、ベッドにぽつんと座り込んでいる。
しばらく風呂に入れていないらしく、母の身なりは乱れていた。俺は母に声をかけると、長い髪にそっと櫛を入れはじめた。
「母さん、ちゃんと食べてる? 少し痩せた気がする。具合が悪い時はしょうがないけど、最低限のものだけでも食べたほうがいいと思う」
返事はない。毛先から丁寧に解きほぐして、べたついて絡まった髪が少しずつ整っていく。俺はそっと髪を撫でると、そういえばさ、と言った。
「引っ越してすぐのテスト。ちゃんと学年トップ取れたよ。ずいぶん前にやったところだから忘れてるかと思ったけど、わりと覚えてた。母さんの言う通り、毎日知識を入れてるからかな」
母はぴくりともしない。俺は最後まで髪を整え終えると、さて、と着替えを取り出した。
「じゃあ、パジャマ変えようか。ちょっとごめんな」
ボタンを外し、腕を取り、体位や重心をあちこち移動させて、俺は痩せた母の服を脱がせた。濡れたタオルで身を清めた。
その間も俺はとりとめなく、あったこと、思ったこと、したいこと、やってみたいことなんかを話し続けた。
母はなんの反応もしなかったけれど、それでもよかった。こうやって一緒の空間にいられることが嬉しかった。
学校でも家でも、たとえ一人の空間でも。我慢ばかりして、ずっと自分を抑え続けていた。耐えて耐えてぎりぎりの縁で踏ん張って、なんとか自分を保っていた。本当に、必死だった。
でも、今だけは、格子で囲まれたこの、誰も入れない空間にいるときだけは。なにひとつ飾らない、本当に素直な自分でいられた。たった一時間でも自由でいられる。なにより大切な時間だった。
最後まで着替えを終えさせ、よいしょ、と母を座らせる。ぼうっとしたままの母、痩せた頬にかかった髪をそっと払いのけて、笑った。
「そうだ。最近、生研部で実験を進めてるんだ。またどこかで賞が取れたら、母さんに見せてあげるから」
腰をかがめ、焦点の合わない瞳を覗き込む。母はぼんやりした目でまばたきを繰り返し、口がうっすら半開きになっていた。思わず声が出ていた。
「……なんか、三島みたいだな」
言って即座に後悔した。いくらなんでも、母とあんな男を比べるものじゃない。
三島の、え、という形で半開きになった口、動揺するとすぐ吃るところ、ちらちらと俺のことばかり伺って、ちょっと彼女みたいな扱いをするだけで、すぐに真っ赤になるところ。
こんな場所で思い浮かべたいものでもないのに、勝手に浮かぶ考えに眉をひそめた。そのとき。
「…………たつや」
「母さん?」
ようやく、母の瞳に光が戻った。焦点が俺のあたりで結ばれて、ゆっくりと動いたなめらかな眼球が、俺を捉えていく気配。
母は半開きだった口を動かして、三島って誰、と静かに聞いた。
「あー……えっと」
言葉に詰まる。三島のことなんて、ここで話もしたくない。
でも、聞かれた以上答えないわけにもいかない。母の前で、変な嘘をつきたくはなかった。
かすかに苦笑を浮かべ、うーん、と小さくつぶやく。
「同じ部活の、クラスメイト。俺が部長で、三島は副部長」
「……部活……?」
「生物研究部」
母はぼんやりと首をかしげる。俺の言葉がわかっているのか、いないのか、どうにもはっきりしない。
それでも構わなかった。俺は使用済みのタオルやパジャマを袋に突っ込むと、椅子を引っ張り出し、ベッドの傍に座った。笑いかける。
「部活は面白いよ。生き物のことがわかるのは楽しい」
母はぼんやりと頷いた。嘘の言葉ではなかった。
でも、生研部のことを考えると、よくわからない感情や、ぐちゃぐちゃと混乱した考えが湧いてくる。
マウスの悲鳴と、三島の瞳と、俺の内側を占領し、しだいに大きくなっていく〝現象〟のことと。
俺はかすかに目を伏せて、でもさ、と言った。
「でも、俺──……ちょっと疲れてるのかも」
率直な言葉に返ってくるのは、そうなの、という実にうっすらした反応。それでも、返ってくるだけかなりマシだ。
俺は椅子の上で背を丸め、膝のあいだでゆっくり指を絡め合わせた。小さなため息が漏れる。
「……母さんと会うために、ずっと、いろいろ頑張ってきたよ。行きたくもない学校を受験して、合格だけもぎとって、頭下げて近所の学校に通わせてもらって。成績もトップを取って、普段付き合う友達も選んで、なにもかも完璧にして、悪いところや駄目なところを、一個ずつ全部消していってさ」
一度口を開くと止まらなかった。勝手に、ぼろぼろ言葉が出てくる。弱音のような、吐露のようなそれを、堪えることができない。
俺はじっと俯いて、できるだけ感情的にならないようにと、それだけはせめて耐えて、言った。
「でも……いつまでそれを続ければいいのか、わからない。楽になりたいと思う。母さんの傍にいたいのは本当なのに、なにもかも投げ出してしまいそうな俺がいる」
浮かんだのは飼育室での三島だ。俺のカーディガンを羽織って、その眼球に黄色と黒の色彩を映していた、あの。
母はほとんど喋らなかった。ただ静かに息をして、うっすらと視線だけがこちらを向いている気配がある。
返答がなくても、がっかりはしなかった。そういう病気だと、とっくに思い知っているからだ。
母の無言よりずっと俺の感情を乱すものを堪えて、下を向いたまま、俺はぎゅっと組んだ指に力を込めた。祈りのような仕草だった。
「……ずっとここにいたい」
泣き言が、ぽつり、と漏れていた。表情が歪むのを感じる。
もう一度、絞り出すように、ずっとここにいたい、とささやく。
「帰りたくない。もう戦いたくない。なんにも考えずに、ここで、母さんと一緒に暮らしたい」
情けない声だった。喉元にまったく力が入らなかった。俺はただうなだれて、押し殺したため息をつく。
とても疲れていた。いつまで頑張ればいいんだろうと思った。三島なんかを家に上げて、あまつさえ蝶を見せてしまうくらいには、今の俺は参っている。それを思い知らされた。
せめて乱れてしまわないよう呼吸を制御して、懸命になにかを堪えていると、ふと目の前が暗くなった。え、と顔を上げる。
ベッドから身を乗り出した母が、そっと俺を覗き込んでいた。母さん、と声が出る。母は応えるように手を伸ばして、俺の頬にやさしく触れた。じいん、と胸の底が震えるような感覚を覚えた。
「……達也。大丈夫。大丈夫よ」
それだけ言うと、母は少しいびつに笑う。そして、俺の頭を胸元に抱きしめた。懐かしいにおいがして、かつてやわらかかった母の腕の中は、すっかり痩せて骨っぽくなっていた。
じわ、と視界がにじむ。俺はうん、とだけ言うと、母の袖をそっと握った。目を閉じて、小さく息を吸い込んで、ささやく。
「大丈夫。俺はまだ頑張れる」
「無理なんて、しなくていいの」
「違うよ」
そういうんじゃない。言って、俺はそっと腕の中から顔を上げる。黒に近い焦げ茶の瞳、なつかしい母の眼差しと視線を合わせて、笑いかけた。
「俺はまだ大丈夫。まだ頑張れるよ。だって、知識は俺を裏切らないから。最後まで俺を守ってくれる。あの日、母さんが教えてくれたことがあるから、俺はまだ──」
そこまで言ったとき、気付く。
母はきょとんとした、まったく不思議そうな顔で、俺を静かに見下ろしていた。
え、とかすかに瞠目する。母は目を丸くして、かすかに小首をかしげて。
「──知識が? どうして?」
心底、わけがわからない、という顔で、言った。どう見ても、嘘もごまかしもなにもない、本心からの言葉だった。
(あ──……)
浮かべた笑みが引きつった。うそだ、と思った。
俺はほとんどすがるような気持ちで、知識だよ、と上ずった声を上げる。
「母さんが教えてくれたんだろ。知識は俺を裏切らないって。誰にも奪われないって。俺がひとりになっても、最後まで守ってくれるって」
「…………?」
母が首を傾げる。いとけない、少女のような仕草。すがりつく指先が震えた。なあ、と呼びかける。
「わたしの代わりに、って。言っただろ……?」
引きつって震える声で、頼むよ、と必死に言い募る。やめてくれと思う。そんなのはあんまりだとも。
けれど母はただ、ゆっくりとまばたきをして、とても純朴な声で、
「……なんのこと……?」
それだけを、ぽつりと言った。本当になにも知らない、ひとつもわからない、という表情だった。
それで、母の記憶からはあの思い出が綺麗に消えてしまったのだと──はっきり、わかった。
「──ッ……」
じわじわと、胸のずっと奥のほうで、なにか冷たいものがせり上がってくる。暗くて冷たくて、いやな感触の、ほとんど絶望に似た、でももっと暗くて重くて苦くるしい、なにかが。
母は不思議そうな顔で俺を見つめている。首をかしげ、どうしたのと問いたげに俺を見つめて、かすかに笑みを浮かべる。
「達也は、頑張り屋さんだものね。えらいわ」
「…………っ」
返事が、ひとつもできなかった。
あの大切な思い出が、母の中からすっかり消え去ってしまっているという事実が、俺をひたすら打ちのめした。
重い衝撃にも似た、えぐれるような胸の痛み。心臓がじくじくと引き絞られて、喉が苦しくて、こんなのは今さらなのに、思った以上にショックを受けている自分がわかる。
みじめで、バカみたいだった。
母はもう俺を守らない。その役割を知識に託して、あちら側に行ってしまった。
俺の傍にはもう誰も立っていないし、あたたかいものなど存在してはない。あの光景はもう二度と戻らない。そんなことは、とっくの昔から、
(わかっていた、つもりだった──)
でもそれは、つもり、なだけだった。ただの虚勢、つまらない強がりだった。
本当はなんにもわかってなんかいない、納得なんて、ひとつもできていない。
だってこんなに寂しくて、苦しい。むごたらしい事実に、打ちのめされてしまいそうになる。
呆然とする俺をおいて、母はようやく意識がはっきりしてきたようだった。おどおどと、不安そうに辺りを見回しはじめる。腕を伸ばして、窓から俺を隠そうとする仕草。どうやら、〝監視〟の気配を感じてきたらしい。
「達也。どうしよう。聞こえたわ。またあいつらよ。ストーカーが」
「……」
「逃げなきゃ。ここにいちゃ駄目、でも、どうすれば……」
「──母さん」
俺の心は痛いほど凍りついているのに、どうして言葉と笑顔だけはこんなになめらかに出てくるのか、不思議だった。
俺は母を安心させるためだけの笑顔を、完璧さを作る上で身につけた、外でしか使ったことのないそれを浮かべて、大丈夫だよと母に笑いかけた。立ち上がってカーテンをしゃっと閉めた。
「カーテンさえ閉めていれば、外のあいつらも手出しできない。それでも不安なら、そうだな、今度、この部屋をぜんぶ調べてあげるから」
また新しい〝カメラ〟が必要だと思った。あれの在庫があまりない。そろそろ取り寄せを頼んだ方がいいだろう。工作した〝カメラ〟は、父に見られないようにしなければ。
ほとんど自動的な思考、淡々と動いていく頭の中と、完全に取り残された感情と。俺はすっかり乖離したふたつの間にひとりで立ちつくしたまま、母の不安をひたすら宥め続けた。
それは外界で培った完璧な仮面の使い方と完全に同じ方法で、俺が唯一自由でいられる場所をなくしたのだという、純然たる事実を示していた。




