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そして週末がやってきた。
その日は俺の待ち望んだ、『正式に母に会っても許される日』だった。
着替えと身の回りの品を持っていって、渡すだけ。いてもいい時間は長くて一時間程度だ。
それでも、誰に咎められることもなく母の顔を見られるのは、心から嬉しかった。
朝、走り込みとシャワーを済ませてダイニングに出た。肉体的に自分を追い込んでいると、あの〝現象〟が落ち着くような気がして、走るのは習慣になっていた。
水分を取らないとな、とダイニングを見渡すと、父親の姿が見られない。あれ、と思って時計を見る。
本来なら朝食を取っているはずの時間だった。出張や早く出るなんてことは聞いていない。それにテーブルの上には食事の用意がされたままだ。
トイレかな、と思って視線を走らせたとき、窓の外、裏庭に見覚えのあるスーツが見えた。ぎくりとした。
窓のほうへ、一歩だけ前に出る。ガラスの向こうに目をこらす。
父は地面を見下ろして、あちこち確認するような仕草をしていた。何気なく外に出たというふうではなかった。目つきは険しく、なにかを暴こうとしてるみたいに見える。
俺は自分の心臓がうっすら冷えるのを感じた。
ひととおり見終わったのだろう、父がふっと面を上げる。厳しい顔がゆっくりとこちらにめぐって、窓ガラスごしに目が合った。
父が戻ってくる。から、と窓を開けると父は何事もないかのようにダイニングテーブルについた。
「……おはよう」
「ああ」
俺の呼びかけに返事をして、父は外に出た理由を言わなかった。あからさまに不機嫌そうだ。俺が病院に行くのが不服なのだろう。
とはいえ、契約は契約だ。俺が完璧でいる以上、父は一度も、表立って俺を止めることはしなかった。ただ、俺に少しでも瑕疵があれば、その限りではないのだろう。
せめてご機嫌取りのため、俺は父にコーヒーを入れる。二人分のそれを正面同士にならべ、俺も椅子につく。簡単なものばかりが並ぶ食卓で、俺は父から少し遅れて朝食をとった。
「父さん。今日の夕食って」
「必要ない。いつもの時刻に届くから、おまえはそれを食べるように」
「……わかった」
父は忙しい人だ。祖父の作った会社を継ぐために、今がいちばん大事な時期なのだという。
幼い頃から、ゆくゆくは達也もうちを継ぐように、と言われていた。母はそういうことは達也に選ばせないと、と言っていたが、父も祖父も聞く耳を持たなかった。
父や祖父に期待をかけられるたび、困ったように俺を抱きしめていた母を思い出す。
(……母さん)
もうすぐ会える。それも、隠れたりこそこそしたりせず、今日だけは、誰に咎められることもなく、自由に。
それだけで心の底が、ちりちりと喜びで炙られたようになる。そわそわと落ち着かなくて、遠足の前夜の子供みたいな気持ちだった。
俺は朝食を取りながら、ひたすら父の機嫌をとり続けた。もう少し正確に言うと、父の機嫌を損ねるような言動を、全力で避け続けた。
父は普段よりずっと不機嫌で、少しでも俺の態度が崩れたら、即座に面会を禁止しかねない様子だった。いつもより更に頑なだった。
(まずいな……)
ここ数日で感じていた違和感が、ゆっくりと確信へ変わっていく。
ずぶ濡れで帰って、真っ暗なソファに座っていたあの日から、父はだんだん、俺の正気を疑い始めているようだった。
ことあるごとに尋問のような問い詰めが入り、監視のような目で見られる。さりげない〝探り〟の回数が、加速度的に増えていた。
今まで、蝶を殺しても、隠れて母に会っていても、すっかり騙されていてくれたのに。どうやら今度から、もう少し慎重に行動しなければならないようだ。
そこまで思って、うんざりする。
隠れて母に会うのはともかく、蝶を殺すのに慎重になるというのはどうなんだ。殺す前提で動いてどうする。やらないのが一番だ。でも。
蝶の翅やラットの悲鳴にまじって、ちらちらと三島の顔が脳裏をよぎった。
あの男と出会ってからだ、と思った。
あの男は俺を駄目にする。加害を誘う風貌、おどおどした目つきと痩せた身体、俺の現象を勝手に動かしていく、耳元に光る青色のピアス。
俺はいつまで、耐えていられるのだろう。
父の前で、いつまで完璧をやれるのだろう。わからなかった。
(それでも──なにひとつ、悟られるわけにはいかない)
俺にはあのひとが必要だ。たった一人、かつて俺を守ってくれたひと。
堂々と母に会える権利を、どうしても手放す気にはなれなかった。
落ち着かない気持ちのまま朝食を終えた。完璧な息子を装ったまま父を見送って、ため息を懸命に殺して、ドアが閉まるのを見届けた。
それでも、ひとりになった家の中で着替えや身の回りのあれこれを用意して、玄関を出る頃には、沈んだ気分はすっかりなくなっていた。母が待っているのだと思うと、どんなことでも耐えられる気がした。
俺は空梅雨の薄明るい日差しのもと、弾む足取りでバス停へと向かった。荷物の重さも気にならなかった。




