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【完結・BL】転校生に学年トップを奪われたから弱みを握ろうと友達のフリして近付いたらとんでもない修羅場が待っていた  作者: Ru
【中編 / 01】 一人目のファウスト

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 俺が小学校に上がったくらいの頃からだ。母が急に変わったのは。

 

 突然教育熱心になりはじめ、なにかに焦るようにカレンダーや時計ばかり気にして、俺がなにをするにも勉強に紐付けしはじめた。

 

 朝から晩まで可能な限り俺のそばにいて、寝食すら惜しんで、母はほとんどの時間を俺に知識を吸収させ、その運用を覚えさせるために費やすようになった。

 

 最初のうちは、母がずっと傍にいてくれることが嬉しかった。

 次は知らないことがわかることが楽しかった。

 けれどそれがずっと続くうち、俺は次第に息苦しさや、寂しさを覚えるようになっていった。

 

 なにせ何をするにも勉強だ。達也はなぜそう思うの、なにが正解かしら、どうすればいいと思う、あなたの意見はどう。

 そんなことばかり朝から晩まで浴びせかけられ続ければ、子供の精神なんて簡単に疲弊する。俺はだんだんつらくなっていった。

 

 それでも音を上げなかったのはひとえに、母が好きだったからだ。大好きな人がいつも傍にいてくれることが嬉しかった。でも。

 

 勉強だと、知識なんだと言って、母はずっと俺のそばにいた。それでも、母子らしいコミュニケーションなんて、ほとんど取れていなかったように思う。

 俺は母といつも一緒だったのに、いつも寂しかった。

 

 小学二年生の終わり、二月のことだ。

 雪がふりしきる冬の夜、厚いカーテンを閉めた部屋の中で、俺は母と本を読んでいた。

 

 その頃の俺はとっくに寂しさに耐えかねていて、母の近くにいたいのに、隣にいる母は勉強の話しかしないから辛くて、どうすればいいかわからなくなっていた。

 

「……というわけなの。達也、わかった?」

「わかった……」

「じゃあ次に行くわね。それが終わったら、今の項目をテストしましょう」

「うん……ねえ母さん、もう眠たい」


 逃げのように呟いても、子供の戯言なんてすぐに見抜かれる。母はまだ寝るには早いでしょ、と微笑んでテキストをめくった。黙ってうなずく。

 

 淡々と読み上げられる文章と、挟まれる解説を聞きながら、俺はちらちらと何度も母の横顔を伺った。

 さみしかった。文字じゃなくて俺を見てほしい。そう言えたらどんなにいいかと思った。

 

 さみしい、つらい、もう疲れた。

 勉強なんかより今日あったことを聞いてほしい。

 笑って、手を繋いで、なにも考えずに遊びに出かけたい。

 もうすぐ三年生になるのに、こんな風に思うのは恥ずかしい。

 

 感情と思考がぐるぐると回った。俺はまだ子供で、自分の考えを整理することが、今よりずっと下手くそだった。

 

 母はすぐに俺を見抜いて、どうしたのと尋ねてくる。やわらかい瞳で見つめられ、俺はとうとう、下を向いてごにょごにょと呟いた。

 

「お母さん、お願いがあるんだけど」

「あら、なあに」

「…………。……だ、抱っこ、してほしい……」


 恥ずかしい気持ちより、寂しさが勝った。俺はもじもじと指先をすり合わせて、母の返事を待った。

 数秒ののち、くす、とやさしい笑みの声が聞こえてくる。

 

「ええ、いいわよ」


 いらっしゃい、と言われて、背後からふわりと抱きしめられる。久しぶりに感じる体温はあたたかくて、やわらかくて、なんだか安心するにおいがした。ほっとした。

 

 けれど母は、俺の背後から手を回して、正面で本を広げはじめた。えっ、と小さな声が出た。背後の母が静かに笑う。

 

「抱きしめながらでも、勉強はできるものね。さあ、続きをしましょう」

「……うん」


 そういうことじゃないのに。

 痛烈な感情を、言うことはできなかった。俺はもそもそと口を動かして、母の指示通り、重要ポイントの朗読をはじめる。消え入りそうな声で続ける俺の背後で、小さな吐息の音がした。

 

 ──ごめんね、達也。

 

 かすかな呼気はそう言っているように聞こえた。確信は持てなかった。

 俺は戸惑い、朗読を止める。母は俺を咎めなかった。ただ本と一緒に俺を抱きしめて、

 

「……わたしの大切な達也」


 かき消えそうな声で、それだけを呟いた。




 その日の夜中のことだ。

 俺はトイレに行きたくなって、夜の真ん中にひとりで起き上がった。

 

 部屋を出て、真っ暗い廊下を進んでいると、階下からなにか声が聞こえた。なんだか言い争うような声だった。

 

 怖いのと同時にどうしても気になって、俺はそっと階段を下りた。リビングのドアから明かりが漏れていた。

 

 恐る恐る歩み寄ったとき、父の怒鳴り声が耳に飛び込んできた。

 

「──いい加減にしろ! おまえの妄言はもうたくさんだ!」


 びく、と肩が跳ねた。中に入ることができなくなった。

 俺は立ちすくんだまま、ガラス戸ごしに中の様子を覗き込んだ。

 

 ソファに座り込んだ母の正面に、仁王立ちの父。母は肩をこわばらせ、首を振って、叫んでいた。

 

「わかってる! わかってるのよ! カメラなんかない、誰もわたしを見てないし、すれ違いざまに罵ったりしない。こんなの全部ただの悪い夢、わたしの思い込み、単なる妄想だって!」

「だったら──」

「でも。でも……!」


 父の言葉を遮って、母は両手で頭を抱える。下を向き、何度も首を振って、抱えた頭に指が食い込んで、母はわかってるのに、と声を荒げた。

 

「見られてる感覚、聞こえたんだという自覚、この恐怖と不快感と、どうしようもない感覚は本当なのよ!」


 父が耐えかねたように怒鳴る。

 

「それくらい我慢しろ! とっとと目を覚ませ!」


 母はとうとう抱えた頭をかきむしって、うなだれて、ちがう、と声を絞り出した。

 

「……勝手に湧いてくるのよ。止めることができない。怖い。怖いの」


 どうしたらいいかわからないの、と続く声は涙で濡れていた。その語尾が激しい舌打ちでかき消され、父は見たこともない凶悪な顔をしている。

 

 母が泣いているところなんて初めて見た。父が怒鳴るのだって聞いたことはなかった。

 なにかとても大きなことが起こっている、それだけはわかるのに、詳しいことはなにもわからない。ものすごく怖かった。

 

「おまえのせいで達也までおかしくなったらどうする! その責任を取れるのか!? 教育はおまえの仕事だ、いい加減しっかりしろ!」

「やめて……やめてよ……!」


 泣き崩れ、肩を震わせている母は、とても小さく、頼りなく見えた。それを見て感じたのは、母がいなくなってしまうんじゃないかという、根拠のわからない予感だった。ほとんど確信に近い感覚だった。

 

(……っ)


 怖い。恐慌に陥りそうになるのをかろうじて堪えて、廊下を走って階段を駆け上がる。

 逃げるように布団に転がり込み、その夜はほとんど眠れなかった。




 あの予感を知覚した瞬間の、足元が崩れ落ちるような恐怖を、俺は今でもうまく表現できない。

 

 ただそれ以来、俺はことさら母にくっついて過ごした。母の教育に対して、文句を言うこともしなくなった。

 

 勉強でもなんでもするから、ずっと母さんの傍にいたかった。そうしないと、俺が見ていないところで母が消えてしまうんじゃないか。そう思って、ずっと怖かった。


 それから、四月になった。俺は三年生に進級した。

 

 たしか、庭で生物の観察をしていたように思う。ただ、その日の母はどうにも様子がおかしかった。表情が沈んでいて、笑うことが少なく、無理して喋っているような感じがした。

 

 モンシロチョウを捕まえて観察するということで、俺は網を振り回していた。でも、急に後ろから声が聞こえたのだ。

 

「達也」


 絞り出すような声だった。俺は心配になって、蝶を追いかけるのをやめて、母の方へと振り返った。

 

 母は思ったよりずっと俺の近くにいた。そっと庭先に膝をつき、俺の両肩に手を置いて、母はまっすぐ俺の目を覗き込んできた。なめらかな瞳の表面に、目をぱちぱちさせる俺が映っている。

 

「よく聞いて。お母さん、今から大切なことを話すから」


 俺は黙って頷いた。母の言うことなら間違いないだろうと思ったからだ。母は俺を見つめたまま、噛みしめるように一つずつ言った。

 

「お母さんからのお願いよ。あなたは、他の誰より勉強して。たくさんの物事を見て。そして、偏りのない知識を身につけるの。きっとあなたを助けてくれるわ」


 今生の別れみたいな口調だった。俺はたちまち寂しくなって、顔を歪めて首を振る。

 

「そんなの、いらない……なんで? 勉強ばっかりじゃなくて、俺、もっと母さんと──」

「聞いて、達也」


 ぐっ、と肩に乗った手に力がこもった。俺は口をつぐむ。母は必死な目をしていた。

 

「知識はあなたを裏切らない。誰に奪われることもない。いつかあなたの周りに誰一人いなくなってしまっても、知識だけは最後まで、あなたを守ってくれる。わたしの、代わりに」


 わたしの代わりに。それはつまり、母はもう俺を守ってくれないということだ。

 急速にさみしさがこみ上げて、俺は泣きたくなる。

 

「なんで……なんでそんなこと言うんだよ……? ずっとそばにいてよ。いなくならないでよ!」


 感情のまま駄々をこねると、泣きそうな顔の母がぎゅうっ、と俺を抱きしめた。久しぶりの、本もなにもない腕の中は、あたたかかくてやわらかかった。耳元で、押し殺した声が聞こえる。

 

「ごめんね、達也。お願い、お母さんと約束して。たくさん勉強するって。知識を身につけるって。お母さんを安心させてちょうだい」


 母の声は震えていた。聞いたことのない、なにかたくさんのものを、必死でこらえた声だった。

 俺はただ呆然と、答えるしかできない。

 

「わかった……約束する……」

「ありがとう、いい子ね」


 ますます腕に力がこもる。耳のすぐ横、震えた声が、ずるい物言いをしてごめんなさい、と告げる。首を振って、そんなことない、とささやいた。

 

 痛いくらいの力加減で抱きすくめられ、俺は母の首元にすがりつく。母がかすかに鼻をすする。

 

「……あなたが幸せでありますように」


 祈るような言葉が、耳元で落とされた。それがあんまり切実に聞こえて、涙が勝手に一粒落ちた。

 

 泣きたくなるほどきれいな、うす青い空の下。

 タンポポの咲く庭で、春先の西風のにおいを感じながら、母の体温はとてもあたたかいのに、紛れもなくこのひとに守られていると確信できるのに。

 

 この幸福はいずれ失われるのだと、無根拠にわかってしまう自分がつらかった。




 それから一月も経たなかった。

 ある日、急に母が暴れだした。物を投げつけ、奇声を上げて、泣いて喚いて怒鳴り散らして、それはまったく、俺の知っている母ではなかった。

 

 押さえつけられ、猿ぐつわを噛まされた母は、父が用意しておいた車で隠れるように運ばれていった。

 

 その日の深夜。俺はまったく眠ることができなかった。怖くて不安で、たまらなくて、そっとリビングの方に起きていった。

 

 うすくドアを開けると、俺は寝ていると思ったのだろう。父は遠方から呼び寄せた祖父と二人で、ぼそぼそと話し合っていた。

 

「こんな年齢で発症なんて……」

「だから血筋をちゃんと見ろとあれだけ……」

「達也の発育……影響が……」

「むしろあれもどうなるか、知れたものではあるまい……」


 なんの話をしているのか、はっきりとはわからない。でも、うっすらとした予感とか、恐怖とか、生々しいものが胸のうちを撫でていく。

 なんだかたまらなく怖くなって、俺は慌てて扉を閉めた。恐ろしいささやき声は、ドアの向こうに閉じ込められて聞こえなくなった。

 

 逃げるようにベッドに戻って、その夜も、俺は一睡もできなかった。



 

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