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俺が小学校に上がったくらいの頃からだ。母が急に変わったのは。
突然教育熱心になりはじめ、なにかに焦るようにカレンダーや時計ばかり気にして、俺がなにをするにも勉強に紐付けしはじめた。
朝から晩まで可能な限り俺のそばにいて、寝食すら惜しんで、母はほとんどの時間を俺に知識を吸収させ、その運用を覚えさせるために費やすようになった。
最初のうちは、母がずっと傍にいてくれることが嬉しかった。
次は知らないことがわかることが楽しかった。
けれどそれがずっと続くうち、俺は次第に息苦しさや、寂しさを覚えるようになっていった。
なにせ何をするにも勉強だ。達也はなぜそう思うの、なにが正解かしら、どうすればいいと思う、あなたの意見はどう。
そんなことばかり朝から晩まで浴びせかけられ続ければ、子供の精神なんて簡単に疲弊する。俺はだんだんつらくなっていった。
それでも音を上げなかったのはひとえに、母が好きだったからだ。大好きな人がいつも傍にいてくれることが嬉しかった。でも。
勉強だと、知識なんだと言って、母はずっと俺のそばにいた。それでも、母子らしいコミュニケーションなんて、ほとんど取れていなかったように思う。
俺は母といつも一緒だったのに、いつも寂しかった。
小学二年生の終わり、二月のことだ。
雪がふりしきる冬の夜、厚いカーテンを閉めた部屋の中で、俺は母と本を読んでいた。
その頃の俺はとっくに寂しさに耐えかねていて、母の近くにいたいのに、隣にいる母は勉強の話しかしないから辛くて、どうすればいいかわからなくなっていた。
「……というわけなの。達也、わかった?」
「わかった……」
「じゃあ次に行くわね。それが終わったら、今の項目をテストしましょう」
「うん……ねえ母さん、もう眠たい」
逃げのように呟いても、子供の戯言なんてすぐに見抜かれる。母はまだ寝るには早いでしょ、と微笑んでテキストをめくった。黙ってうなずく。
淡々と読み上げられる文章と、挟まれる解説を聞きながら、俺はちらちらと何度も母の横顔を伺った。
さみしかった。文字じゃなくて俺を見てほしい。そう言えたらどんなにいいかと思った。
さみしい、つらい、もう疲れた。
勉強なんかより今日あったことを聞いてほしい。
笑って、手を繋いで、なにも考えずに遊びに出かけたい。
もうすぐ三年生になるのに、こんな風に思うのは恥ずかしい。
感情と思考がぐるぐると回った。俺はまだ子供で、自分の考えを整理することが、今よりずっと下手くそだった。
母はすぐに俺を見抜いて、どうしたのと尋ねてくる。やわらかい瞳で見つめられ、俺はとうとう、下を向いてごにょごにょと呟いた。
「お母さん、お願いがあるんだけど」
「あら、なあに」
「…………。……だ、抱っこ、してほしい……」
恥ずかしい気持ちより、寂しさが勝った。俺はもじもじと指先をすり合わせて、母の返事を待った。
数秒ののち、くす、とやさしい笑みの声が聞こえてくる。
「ええ、いいわよ」
いらっしゃい、と言われて、背後からふわりと抱きしめられる。久しぶりに感じる体温はあたたかくて、やわらかくて、なんだか安心するにおいがした。ほっとした。
けれど母は、俺の背後から手を回して、正面で本を広げはじめた。えっ、と小さな声が出た。背後の母が静かに笑う。
「抱きしめながらでも、勉強はできるものね。さあ、続きをしましょう」
「……うん」
そういうことじゃないのに。
痛烈な感情を、言うことはできなかった。俺はもそもそと口を動かして、母の指示通り、重要ポイントの朗読をはじめる。消え入りそうな声で続ける俺の背後で、小さな吐息の音がした。
──ごめんね、達也。
かすかな呼気はそう言っているように聞こえた。確信は持てなかった。
俺は戸惑い、朗読を止める。母は俺を咎めなかった。ただ本と一緒に俺を抱きしめて、
「……わたしの大切な達也」
かき消えそうな声で、それだけを呟いた。
その日の夜中のことだ。
俺はトイレに行きたくなって、夜の真ん中にひとりで起き上がった。
部屋を出て、真っ暗い廊下を進んでいると、階下からなにか声が聞こえた。なんだか言い争うような声だった。
怖いのと同時にどうしても気になって、俺はそっと階段を下りた。リビングのドアから明かりが漏れていた。
恐る恐る歩み寄ったとき、父の怒鳴り声が耳に飛び込んできた。
「──いい加減にしろ! おまえの妄言はもうたくさんだ!」
びく、と肩が跳ねた。中に入ることができなくなった。
俺は立ちすくんだまま、ガラス戸ごしに中の様子を覗き込んだ。
ソファに座り込んだ母の正面に、仁王立ちの父。母は肩をこわばらせ、首を振って、叫んでいた。
「わかってる! わかってるのよ! カメラなんかない、誰もわたしを見てないし、すれ違いざまに罵ったりしない。こんなの全部ただの悪い夢、わたしの思い込み、単なる妄想だって!」
「だったら──」
「でも。でも……!」
父の言葉を遮って、母は両手で頭を抱える。下を向き、何度も首を振って、抱えた頭に指が食い込んで、母はわかってるのに、と声を荒げた。
「見られてる感覚、聞こえたんだという自覚、この恐怖と不快感と、どうしようもない感覚は本当なのよ!」
父が耐えかねたように怒鳴る。
「それくらい我慢しろ! とっとと目を覚ませ!」
母はとうとう抱えた頭をかきむしって、うなだれて、ちがう、と声を絞り出した。
「……勝手に湧いてくるのよ。止めることができない。怖い。怖いの」
どうしたらいいかわからないの、と続く声は涙で濡れていた。その語尾が激しい舌打ちでかき消され、父は見たこともない凶悪な顔をしている。
母が泣いているところなんて初めて見た。父が怒鳴るのだって聞いたことはなかった。
なにかとても大きなことが起こっている、それだけはわかるのに、詳しいことはなにもわからない。ものすごく怖かった。
「おまえのせいで達也までおかしくなったらどうする! その責任を取れるのか!? 教育はおまえの仕事だ、いい加減しっかりしろ!」
「やめて……やめてよ……!」
泣き崩れ、肩を震わせている母は、とても小さく、頼りなく見えた。それを見て感じたのは、母がいなくなってしまうんじゃないかという、根拠のわからない予感だった。ほとんど確信に近い感覚だった。
(……っ)
怖い。恐慌に陥りそうになるのをかろうじて堪えて、廊下を走って階段を駆け上がる。
逃げるように布団に転がり込み、その夜はほとんど眠れなかった。
あの予感を知覚した瞬間の、足元が崩れ落ちるような恐怖を、俺は今でもうまく表現できない。
ただそれ以来、俺はことさら母にくっついて過ごした。母の教育に対して、文句を言うこともしなくなった。
勉強でもなんでもするから、ずっと母さんの傍にいたかった。そうしないと、俺が見ていないところで母が消えてしまうんじゃないか。そう思って、ずっと怖かった。
それから、四月になった。俺は三年生に進級した。
たしか、庭で生物の観察をしていたように思う。ただ、その日の母はどうにも様子がおかしかった。表情が沈んでいて、笑うことが少なく、無理して喋っているような感じがした。
モンシロチョウを捕まえて観察するということで、俺は網を振り回していた。でも、急に後ろから声が聞こえたのだ。
「達也」
絞り出すような声だった。俺は心配になって、蝶を追いかけるのをやめて、母の方へと振り返った。
母は思ったよりずっと俺の近くにいた。そっと庭先に膝をつき、俺の両肩に手を置いて、母はまっすぐ俺の目を覗き込んできた。なめらかな瞳の表面に、目をぱちぱちさせる俺が映っている。
「よく聞いて。お母さん、今から大切なことを話すから」
俺は黙って頷いた。母の言うことなら間違いないだろうと思ったからだ。母は俺を見つめたまま、噛みしめるように一つずつ言った。
「お母さんからのお願いよ。あなたは、他の誰より勉強して。たくさんの物事を見て。そして、偏りのない知識を身につけるの。きっとあなたを助けてくれるわ」
今生の別れみたいな口調だった。俺はたちまち寂しくなって、顔を歪めて首を振る。
「そんなの、いらない……なんで? 勉強ばっかりじゃなくて、俺、もっと母さんと──」
「聞いて、達也」
ぐっ、と肩に乗った手に力がこもった。俺は口をつぐむ。母は必死な目をしていた。
「知識はあなたを裏切らない。誰に奪われることもない。いつかあなたの周りに誰一人いなくなってしまっても、知識だけは最後まで、あなたを守ってくれる。わたしの、代わりに」
わたしの代わりに。それはつまり、母はもう俺を守ってくれないということだ。
急速にさみしさがこみ上げて、俺は泣きたくなる。
「なんで……なんでそんなこと言うんだよ……? ずっとそばにいてよ。いなくならないでよ!」
感情のまま駄々をこねると、泣きそうな顔の母がぎゅうっ、と俺を抱きしめた。久しぶりの、本もなにもない腕の中は、あたたかかくてやわらかかった。耳元で、押し殺した声が聞こえる。
「ごめんね、達也。お願い、お母さんと約束して。たくさん勉強するって。知識を身につけるって。お母さんを安心させてちょうだい」
母の声は震えていた。聞いたことのない、なにかたくさんのものを、必死でこらえた声だった。
俺はただ呆然と、答えるしかできない。
「わかった……約束する……」
「ありがとう、いい子ね」
ますます腕に力がこもる。耳のすぐ横、震えた声が、ずるい物言いをしてごめんなさい、と告げる。首を振って、そんなことない、とささやいた。
痛いくらいの力加減で抱きすくめられ、俺は母の首元にすがりつく。母がかすかに鼻をすする。
「……あなたが幸せでありますように」
祈るような言葉が、耳元で落とされた。それがあんまり切実に聞こえて、涙が勝手に一粒落ちた。
泣きたくなるほどきれいな、うす青い空の下。
タンポポの咲く庭で、春先の西風のにおいを感じながら、母の体温はとてもあたたかいのに、紛れもなくこのひとに守られていると確信できるのに。
この幸福はいずれ失われるのだと、無根拠にわかってしまう自分がつらかった。
それから一月も経たなかった。
ある日、急に母が暴れだした。物を投げつけ、奇声を上げて、泣いて喚いて怒鳴り散らして、それはまったく、俺の知っている母ではなかった。
押さえつけられ、猿ぐつわを噛まされた母は、父が用意しておいた車で隠れるように運ばれていった。
その日の深夜。俺はまったく眠ることができなかった。怖くて不安で、たまらなくて、そっとリビングの方に起きていった。
うすくドアを開けると、俺は寝ていると思ったのだろう。父は遠方から呼び寄せた祖父と二人で、ぼそぼそと話し合っていた。
「こんな年齢で発症なんて……」
「だから血筋をちゃんと見ろとあれだけ……」
「達也の発育……影響が……」
「むしろあれもどうなるか、知れたものではあるまい……」
なんの話をしているのか、はっきりとはわからない。でも、うっすらとした予感とか、恐怖とか、生々しいものが胸のうちを撫でていく。
なんだかたまらなく怖くなって、俺は慌てて扉を閉めた。恐ろしいささやき声は、ドアの向こうに閉じ込められて聞こえなくなった。
逃げるようにベッドに戻って、その夜も、俺は一睡もできなかった。




