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それきり、俺の生活からぱったりと母がいなくなった。
入院したとわかったのは半年もあとだった。会わせてくれと頼み込んで、でもそれは許されなかった。
母のことで父と激しく言い争ったのは、俺が九歳になる四日前のことだった。
母があんなことになったのに、その年の誕生日を、以前となんら変わりなく祝われたことが、とても怖かったのを覚えている。
母がどういう病気で入院したのか、うっすらとわかりはじめたのが十歳の頃。
会いたいとどんなに言っても聞き入れられなかった理由や、父たちが母を恐れてその存在を隠した訳がわかったのも、だいたい同じ頃だった。
それから──俺の底で眠っていた〝現象〟が、ゆっくりと目を覚ましはじめたのも。
最初に殺したのはアリだった。
戯れに、長く伸びた列を踏み潰した。他愛ない殺し方だった。
それから水をかけたり洗剤をかけたり虫眼鏡で焼いたり、一匹ずつ手足をもいでパーツをばらばらにしたりした。気持ちがよかった。
次に手を出したのはカブトムシだった。同じようにバラバラにしたり、アリよりは大きいから中身もある程度確認ができた。面白かった。
虫を殺すことでわかったことを文章にまとめたら、大人たちからさんざん褒められた。天才児だとか将来有望だとかおだてられて、だから俺は『これはやっても大丈夫なことなんだ』と思い込んだ。
怖くても不安でもひとりぼっちでも、どんなにどろどろしたものが俺の中身を汚しても。生き物を殺せばすごくさっぱりした。まだ大丈夫だと、明日から頑張れると思えた。
俺は心置きなく〝現象〟に身を任せ、そいつはどんどん大きくなっていった。
六年生のときだ。俺の素行に満足した父が、初めて、母への面会を許してくれた。
三年ぶりに見る母は容色こそ衰えていなかったものの、表情はすっかり変わり果てていた。
笑みがほとんどなくなり、こわばった顔で、ずっとなにかに怯えていた。俺がいくら誰も見張ってなんかいないと言っても、なにも言われていないと訴えても、信じてはくれなかった。会話すらほとんど成立しなかった。
そういう病気なのだと、とっくに理解していたつもりだった。それでも、ショックだった。
失意のまま帰宅して、俺は手近な虫を殺した。
母との面会以来、解剖の頻度はさらに増えた。
手当たりしだいに昆虫をばらばらにして、足りないときは小遣いを崩して買い集めさえした。買っても買っても、俺の周りに虫はほとんど増えなかった。殺してしまうからだ。
父はとうとう俺を怪しんで、問い詰めた。どうしてこんなに大量の昆虫を解剖するんだ、データを取るには多すぎる、と。
その言葉に、すっきりするから、と答えたとき。
父の顔色がざあっと変わったのを、今でもはっきり覚えている。
父は俺を罵り、嘆き、母を呪った。見たこともない形相で俺を睨んだ。独り言のような叫び声が怒鳴った。
「やはり血筋か……! どうしたって狂人の息子は狂人になるというのか。いくらあそこまで聡明だったからと、あんな血の女を選んだりしなければ──」
「ッ……母さんをそんな風に言うな!」
反射的に叫んでいた。父はぎろりと俺を睨んで、でも、俺だって黙ってはいられなかった。
髪を振り乱し、ぎっと目を剥いて、俺は力いっぱい叫んだ。
「母さんはそういう病気なだけだ、ただ苦しんでるだけだ! そんな目で見るな!」
しかし父は俺の言葉など聞き入れもせず、ものすごい声で怒鳴り散らした。
「だったら! おまえの行動はなんだ! この──狂人が!!」
「え──それは、だって、」
(──なんで?)
言葉が出なかった。それは父の言葉に答えられないからではなく、状況が理解できなかったからだ。
俺の行動はなにも変わっていない。虫をばらばらにして、わかったことを書いただけだ。
今までみんな褒めていたじゃないか。俺は別に、今、急に行動を変えたりはしていない。それなのにどうして。
誰にも見えない、口にしないとわからない、俺の腹の中のことを伝えただけで、それは〝悪いこと〟になってしまうのか。
学術的目的で虫を殺すのと、すっきりするから殺すのと。俺以外の人間にとって、いったいなにが違うっていうんだ。俺の中身なんて誰も、誰にも見えはしないのに。
意味がわからなくて、怖かった。
俺以外の人間が急に得体の知れないものになってしまったようで、世界が急に反転したみたいで。唐突に理解不能になってしまった周囲のすべてが、ただただ恐ろしかった。
父は絶句した俺を『反省した』と捉えたらしい。捨て台詞をいくつか吐いて仕事に戻って、それだけだった。呆然とした俺だけが残された。
それ以来、母さんに会いたい、会わせてくれといくら頼み込んでも、父は絶対に首を縦に振ってはくれなかった。
何度も何度も頼み込み、ほとんどすがりつく俺にうんざりしたのだろう。中学にあがった冬、俺が十三になったころ。父は〝約束〟を持ち出してきた。
「そんなにあれに会いたいのなら、会っても平気だという証拠を見せてみろ。おまえが正常な人間であるということを示せ。それができている間は、身の回りの差し入れだけなら許可してやってもいい」
その頃には、俺はあの〝現象〟がどういうものなのか、虫を殺して回ることが、世間ではどれだけ悪魔的な行いとされるのか、正しく認識していた。父の言いたいことも、俺にどうあってほしいのかも。
「……わかった」
断る理由はひとつもなかった。父はおまえを見張っているぞ、と脅しをかけてきたが、俺は怖いとも、嫌だとも思わなかった。
──これは契約だ、と思った。
母と交わしたあの約束とはぜんぜん違う。約束というのはもっとやさしい、あたたかな、祈りに近い結びつきだ。父の提案したそれとは全く違う。だからこれは契約なのだ。
俺はきっと、ずっと昔に悪魔に魂を売っている。
俺の内側を汚すどろどろしたものを拭い去る、他の方法をなにも知らない。この現象の、うまい取り扱い方もわからない。どうすればいいかなんて見当もつかない。
それでも、首を横には振れなかった。
俺は深々と頭を下げた。父に許しを請うた。
お願いします、と心から言った。
「俺は完璧な人間になる。父さんを、完全に満足させてみせるから。だから──母さんに、会わせてください」
なんでもする。どんな自分にだってなる。
だからどうか、あの人との繋がりを切らないでほしい。
俺を守ってくれた、たったひとりの人なのだから。




