38
捨て台詞とともに去っていく父の背中を、ただ、呆然と見つめていた。
無駄に仕立てのいいスーツ、それが角を曲がって消えていったとき、少し遅れて実感がやってきた。
もう二度と母に会えないという実感が。
「……っ、……」
指先が絶望に震えた。
なにもかももう駄目だと思った。
俺を止めてくれるものも、抑えてくれるものも、すべて奪い去られてしまった。
俺の傍には誰もいない。もうなにも、なにひとつ、俺を守ってくれるものはない。
崩れ落ちるのを止めることができなかった。がくりと膝をつく。
衝動のまま地面を殴りつけて、打ち付けた部分がひどく痛んだ。背を丸めて、勝手に嗚咽がこぼれだす。
「……くそ、くそ……ッ……!」
あんまりだと思った。
俺にはもうなにもない。誰も傍にいてくれない。守ってくれるものがない。
これから一生、ずっとひとりで戦っていくのか。
ぼたぼたと涙が地面の色を変えて、そのとき、ざっ、と静かな足音がした。三島だった。
ああ最低だ、と思って、それなのに、したたる水を止めることができない。
(嫌だ──嫌だ……ッ)
叫ぶように何度も繰り返す。胸の内を、失意と絶望がしきりに打ちのめした。
嫌だった。叫ぶように思った。
他の誰でも構わない、でも、こいつだけは嫌だ。
こんな最低の、卑怯で、ずるくて、ちっぽけで、見苦しい奴の前で泣きたくない。
こんな男の前なんかで。
ひどい嫌悪と情けなさとみじめさが入り混じって、ありとあらゆる感情が胸を乱した。
ぐしゃぐしゃになった精神で、それでも体裁を保とうとする。見苦しい咳が何度か吐き出された。
俺はぐっと目元を拭って、立ち上がろうと腿に力を込めた。
だが、それより先に、目の前に影が落ちた。三島だ。痩せた人影が、俺の前にひざまずいていた。
そっと手を伸ばされ、熱を帯びた指先が頬に触れる。訪れたのは間違いなく、この男への嫌悪と反発だった。
それなのに、なにかが尽き果てた俺は、三島のことを払いのけることすらできなかった。
そっと顔を上げさせられ、生っ白い、思ったよりはきれいな顔が、静かに近寄る。
眼鏡ごし、薄いガラスを隔てて、あの名前のない宝石のような色の瞳が、俺をじっと見つめている。
それが薄く細まって、発声の直前の呼気の音、三島のくちびるが開かれて。
「なあ宗像、──……」
(……──なんだ、それ)
耳に流し込まれたのは、信じられない言葉。
呆然と目を見開く。
ほとんど絶望的な気持ちで息が詰まって、喉の奥が小さく音を立てた。
目の前の最低な男が、淡く目を細めて微笑んでいる。
──俺の中のなにかが動き出す、どうしようもない音がした。




