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18歳未満のファウスト・中編
──宗像達也の抵抗──
知識は俺を裏切らない。
一度身につけた知識は誰に奪われることもない。侵害されることもない。
たとえ俺の周りに誰一人いなくなっても、知識だけは俺のことを最後まで守ってくれる。
知識という極めて理性的な存在、人類を人類たらしめる叡智の結晶。
それだけが、俺をこちら側につなぎとめてくれる。
「……」
指先に力がこもった。ざら、という感触が指先に伝わる。
鱗粉の滑らかさを存分に感じながら、俺はゆっくりとアゲハの翅をむしった。
ぶつっ、とクチクラが構成する外骨格がちぎれる鈍い感触。
胸部についた三対の脚がばたばたともがく。
翅をむしるときはいつも、体部を潰さないよう細心の注意を込めているつもりだ。指先を、鱗粉以外で汚すのは好きじゃない。幸いにして今回も、翅をむしられた蝶の体部は無事だった。
鱗粉でしめった指先を開く。はらはらと翅が落ちていく。
黄色と黒の鮮やかな色彩。立入禁止の警告表示みたいな色。
俺は腰をかがめ、その上にそっと蝶の体部を置いた。
苦痛にだろうか、うごめく脚はしだいに力を失っていく。
その行為を、何度か繰り返した。
携帯用の飼育箱から蝶を取り出し、翅をむしっては胴体をその上に乗せる。
すっかり飼育箱が空になったころ、俺は小さく息をつくと、スニーカーの右足を持ち上げた。ぱらぱらと靴の裏から砂が落ちる。息を吸う。
そして地面にうごめく蝶を、一気に踏み潰した。
足の裏に独特の感触が伝わる。それを拭き取るように踏みにじる。何度も、何度もそれをしているうちに、俺の内側で起こる衝動じみた現象が、少しずつ鎮まっていく。
すっかりすべての蝶をすりつぶし、俺は不思議な静謐をじいんと味わっていた。
心臓が静まりかえり、俺は軽く指先をすり合わせる。さらさらした鱗粉の感触が心地よかった。
スニーカーの靴先で土を掘り返し、大量の死骸を埋める。
ざっと土をかぶせると、俺は上を向いてはあっ、と息を吐いた。
知らない土地の空は薄青くて、澄んでいて、俺にはあまりにも似つかわしくなかった。
(……まだ、大丈夫だ)
胸のうちで何度も唱える。
俺はまだ大丈夫。
虫を殺すのは珍しくない。
羽虫なんて誰でも殺してるし、大型昆虫なら蜂の駆除だってある。
まだ、そこまで外れてない。いつでも戻れる。
「……大丈夫」
ぼそりと唱える声は、見慣れない、真新しい家の裏庭にぽつんと響いた。
そろそろ時間だった。新生活の初登校に、遅れるわけにはいかない。
俺は最後にざっ、と靴の裏を土で拭うと、黙って身を翻した。
土の端から黄色と黒の翅が、かすかにはみ出していた。
※
簡単な自己紹介を終えて、用意された席に向かう。
教室中の人目を浴びながら歩く中、視界の隅に一つの席がちらついた。
誰も彼もが俺に注目する中、そいつだけは一心不乱にタブレットに顔を伏せていた。
読書しかできない、電子書籍ユーザー向けのタブレットだ。すれ違いざま、一瞬だけ文字が見えた。ゲーテの戯曲だった。
(うわ、カッコつけた趣味してんな……)
朝からタブレットでドイツ古典。一瞬だったのでつむじしか見えなかったが、伸ばしっぱなしの雑な黒髪といい、痩せた背中の様子といい、あまり活発な奴ではないらしい。学校でわざわざゲーテを読むあたり、彼の中の中学二年生はまだ落ち着いていないようだ。
まあ、よくある話だ。わざわざ囃し立てるようなことでもない。
俺は黙って席に着くと、教師の声を聞きながら、そいつの背中をぼんやり眺めた。
あの戯曲、たしかファウストとかいう知恵者が悪魔に魂を売って、衝動的な欲望に身を任せて好き放題する話だ。
小間使いのように彼に尽くす悪魔をさんざん振り回し、欲望のままに振る舞うファウストを見て、どっちが悪魔だ、と思ったのを覚えている。
(悪魔、か……)
つらつらと流れていく連絡事項。明日の中間考査の注意事項、三者面談についてのプリント配布など。
そのすべてを機械的に受け流し、俺は悪魔について思いをはせる。
瞬きの隙間、まぶたの裏に浮かぶのは、さっき殺した蝶の死骸。
……たぶん、俺はとっくに悪魔に魂を売っているのだろう。
そんなことはわかっていた。
それでも、こうする他に方法がない。
俺は別の手段を知らない、うまい方法も、上手な取り扱い方もわからない。どうしようもない中で、それでもあがくしかない。
知識という理性の象徴を重石のように腹の底に詰め込んで、すぐに揺らいでしまう自分を繋ぎ止める。それでもぐらりと揺らぐものを、蝶の死骸で食い止める。それしか、知らない。
ため息を押し殺す。隣の女子がとんとん、と机を指先で叩いてきた。
ね、試験範囲わかる、とささやきかけられ、俺は笑顔を返す。悪いけど教えてくれる、と声を潜めた。
渡されたメモをありがたく頂戴する。そこに書かれた範囲は、数年前、中学に入ったころにやった箇所だった。たぶんまだ忘れてはいない。大丈夫だ。
「……ありがと。助かった」
俺は感謝を込めて彼女にささやきかけた。彼女は嬉しそうにはにかむと、いいのいいの、と手を振った。
ホームルームはもうじき、終わろうとしていた。




