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けれど、宗像の家に入ることは出来なかった。
玄関ドアの前で、あの父親が待ち構えていたのだ。
その姿を見留めた瞬間、宗像がぴくっと立ち止まった。
俺はぜんぜん気が付いていなかったので、大きな背中に鼻先をぶつけそうになって、慌てて立ち止まる。そろそろと宗像の後ろから顔を出して、あの父親がいることに気付いた。
宗像は、しばらく黙って立っていたが、小さくため息をつくと歩きはじめた。
数歩近付いて、玄関口の父親を見る。宗像の父親は、なにかとても冷たい、鋭い表情をしていた。
宗像が、俺の胸元に鞄を押し付ける。うわ、と受け止めていると、宗像が呆れたように口を開いた。
「あのさあ。だから嘘の予定を──」
「またやったんだな、達也」
ほとんどかぶせるように、糾弾の声が乗る。
宗像はちっ、と小さく舌打ちをすると、斜め下あたりに視線を落とした。
「……やってない。ていうか、庭先をぼこすか掘り返すの、いい加減やめろよ」
「おまえが言うのか、それを」
「だから、やってないって言って──」
宗像が言うのを遮って、父親が、俺たち──いや、俺を手招きする。
え、と半開きになった口のまま、俺はきょろきょろと辺りを見回した。他に誰もいない。やっぱり、俺のようだ。
「え、えっと……なんですか」
「三島くんだったか。君にも証人になってもらう」
「え……」
そう言うと、宗像の父はスーツの内側からスマホを取り出した。なにか操作している。
宗像はその間、顔をしかめてじっと立っていた。頬のあたりが、かすかに引きつっている。
宗像の父が、すっとスマホの画面を見せた。そこには、あの裏庭が映っていた。下にシークバーがある。
無骨な手がそれを動かしはじめたとき、宗像が動いた。
「ッ……やめろよ! 三島は関係ないだろ!」
ばっ、と俺とスマホの間に割り込んで、荒い口調で父に食って掛かる。
父親はというと、どけ、と短く言うだけだった。
「おまえがしたことを、人様に見てもらうといい」
「それで問題になるのは俺だけじゃない、父さんもだ」
「……脅しの質が低いな。どきなさい」
「やめろ」
「どくんだ、達也」
「よせよ!」
ぐい、と肩に手がかかって、それでも宗像はどこうとはしない。ぐっと足を踏ん張っている。
けれど、俺は見てしまった。
もみあう二人の隙間、ちらりと一瞬だけ見えた画面の中。
宗像の横顔があの色のない目をして、鮮やかな翅を一枚ずつ引きちぎって、ばらばらと放り落としている──そのさまを。
すうっ、と背中のあたりから何かが抜け落ちていく、なんとも言えない感覚があった。
ああやっぱり、と思った。
(……宗像、だったんだ)
あの大量の蝶を、殺していたのは宗像だった。
違っていてほしいと思っていた。でも予感はずっとそこにあって、俺が見ないふりをしていただけだった。
真実は晒されてしまった。知らなかった頃にはもう、戻ることはできない。
「いい加減にしろって! 三島も、……──」
宗像が必死の顔で振り返って、俺の表情を見て唐突に言葉を飲む。
もしかして、とくちびるだけが動いた。
「見えた、のか」
「……っ」
黙って、うなずく。宗像がひくっ、と喉を鳴らして、止まった。
だらりと両腕を垂らし、彼はすべてが露見した罪人のような顔で、その場に立ち尽くしている。父親がはっ、と笑った。
「監視カメラをしかけておいて正解だった。静江の妄言も、たまには参考になる」
うなだれた宗像が、ぼそりと言う。
「……そういう言い方、するなよ……」
その声は本当に小さくて、震えていて、なにか恐れとか不安とか、そういうものが大量に入り混じった、とても頼りないものだった。
俺はただなにも言えなくて、立っているしかできない。この空気の中、ひとつでも余計なことをすれば、なにか取り返しのつかないことが起こるんじゃないかと思って、怖くなる。でももしかしたら、それはもうとっくに起こっているのかもしれなかった。
あの動画は蝶殺しの証拠だ。宗像の弱みだ。完全無欠、完璧で出来た男の、たったひとつの致命的な汚点。それを俺は知ってしまった。それなのに──なにひとつ嬉しくない。
完全に黙ってしまった宗像に、父親が歪んだ表情を浮かべた。
「やはり狂人の息子は、狂人というわけか」
嫌悪もあらわな口調。とたん、宗像がばっと顔を上げた。
「母さんは関係ない!」
父親はまたそれか、とため息をつく。心底うんざりしたような顔だった。
淡々とした、咎める言葉が滑りだす。
「おまえ、隠れて何度も静江に会ってるそうだな」
「……ッ!」
今度こそ、宗像がはっきりと顔色を変えた。ちがう、と言う声は弱々しく震えていて、最後の抵抗、みたいな感じだった。父親が呆れたような息を吐く。
「看護師を問い詰めたらすぐ話してくれた。なんだったら、証言書を書かせてもいい」
「そうやって、すぐ他人を巻き込むの、やめろよ……」
「おまえも同じやり方をしたばかりだろう。三島くんをだしに使って」
びく、と俺が身を強張らせる。たぶんあのときの、下手すぎる言い訳のことだ。
違うのに、あれは俺が勝手に口出ししただけで、宗像はなにもしていないのに。
そう思ったのに、口に出すことができない。俺は痩せた棒きれみたいに立っているしかできない。
「とにかく。おまえには失望した」
「……」
「なにもかも完璧にこなすから、父さんの満足するような人間をやってみせるから、着替えの差し入れだけは許してほしい。そう言われたから、ここまで譲歩してやったんだ。それを……親の期待を裏切って」
宗像はうつむいて、震える声で、父さんの期待なんか知らない、と吐き出した。
「俺は、俺はただ、母さんに会いたくて……」
「だが、おまえは約束を破った。それも、二つも。だったら、わかっているな」
「……っ!」
絶望的な顔をして、宗像がそろそろと面を上げる。
父親はため息まじりに腕組みをすると、まるで宣告のように言った。
「約束を破った以上。もう二度と、おまえが静江に会うことはない」
「な──っ」
宗像の表情が凍りつく。待ってくれ、と震えてよれた、掠れ声がこぼれ落ちる。
そのすべてを完全に黙殺して、父親ははっ、と吐き捨てた。
「やっぱり、温情をかけたのが間違いだったか。何度も言っただろう、おまえのためを思ってのことだというのに」
「俺のため……?」
宗像が、震えながら顔を上げる。そして、きっ、と目元を険しくした。叫び声。
「なにが俺のためだ、俺の発育に悪影響、ってなんだよ!? 父さんは母さんの語る言葉が怖いだけだろ!? でも、病人が語る物語に本気で巻き込まれるほど、俺だってもう子供じゃない!」
悲痛な声の残響、それすら消えないうちに、宗像の父が怒鳴り返す。
「──だったらあの蝶はなんだ! おまえも母親の仲間だろうが!」
「ッ……!」
それで宗像は完全に黙ってしまった。それは、とつぶやき、下を向く。
宗像の父はふん、と鼻を鳴らし、いいか、と声を低くした。
「あれは知らないところに転院させる」
「え──待っ、待ってくれ!」
「今から私は病院に向かう。その足で手続きする。どこへ移すかは教えん。探し回っても無駄だ」
「な、そんな、待って、それだけは──」
「なにを言ってももう聞かん。おまえの嘘も言い訳も聞き飽きた」
吐き捨てる声は残酷で、冷徹だった。絶望的な顔をして、宗像が必死に言いすがる。父の腕に取りすがり、頼む、と繰り返した。
「だったらせめて、一度だけでも顔を」
「駄目だ。おまえは来るな。転院の書類を覗き見でもされたらたまらんからな」
「じゃあ、声だけでいい、頼むから……!」
「ったく……いい加減にしろ!」
掴まれた腕を激しく振り払って、父親は宗像の横をすり抜けていく。
待ってくれ、と叫び声。振り返らない背中が、捨て台詞を最後にひとつ。
「いいか、狂ったふるまいは二度とするなよ。おまえを監視しているからな!」
「待っ……──」
肩を怒らせ、宗像と良く似た大股で、父親が遠ざかっていく。
愕然と立ち尽くす宗像のほうを、振り返ることすらしようとしない。
父親が駅の方へ続く角を曲がって、その姿が完全に見えなくなったとき、
「……っ、……くそ……ッ……!」
宗像がその場に崩れ落ちた。
膝を付き、握った拳がだん、と地面を叩く。
くそ、くそっ、と何度も叫んで、宗像の背はぶるぶる震えていた。
ぱたぱたっ、と地面に水滴が落ちて、その場所の色を濃くしていく。
初めて見る、痛ましいほどに感情を顕にした、宗像の姿だった。
俺はそろそろと歩いて、宗像のすぐ傍に立った。斜め上からでも、少しだけ表情が見えた。
泣き崩れ、歯を食いしばり、掠れた慟哭を絞り出す、宗像の顔。なにも飾り気のない、制御もひとつも効いていない、ただの生きた人間の。
ああ、と思った。強烈な情動に胸が震えて、じいん、と切なくなる。
(なんて、きれいな──)
内側に、あの流星が落ちてきた。
圧倒的な質量のリアルが、火花を散らす音。ちかちかとまぶしくて、炎のように熱くて激しくて、俺をどうしようもなく惹きつける、あの情動。
俺はその場に立ち尽くしたまま、肋骨のあいだ、心臓の奥、自分の中のいちばん深い場所が、ひどく震えるのを感じていた。
ぎりぎりの縁で、暴力的な衝動に耐えるとき。うっすらとあのドアが開く。
その隙間から覗いた宗像の中身、本当の心は、くらくらするほど強烈に俺を魅了した。
宗像の、閉じたドアを開けた先に眠っていた、美しいもの。
彼の本心、本質、なにも隠されていない、ありのままの一番、やわらかい場所。
きっと剥き出しの魂が、今、目の前に投げ出されている。それがはっきり、わかった。
今までに感じたことのないほど強烈な情動。
身体中の産毛の先までじいんとしびれるような感覚に、震えながら耐える。
ありとあらゆる感情がぐちゃぐちゃになって、宗像の瞳の上を次々と、現れては消えていく。
美しい流星みたいなその推移を見つめながら、俺は自分の中を走り抜けていく、甘ったるい毒のような感覚を感じていた。
(俺は……、……)
俺にはなにもない。
誰の目にも映らず、空っぽの中身に知識だけを詰め込んで、不安定な足元の重心を、ようやく保っていられる、それだけの存在。
誰も俺に気付かない。誰も俺の姿を映さない。
見てくれると信じていた母だって、ほんとうは俺のことなど認識すらしていなかった。
俺はただ一人で、半透明であいまいな、水みたいに無味無臭の世界を、ぼうっと歩くだけだった。
(でも、今、ここにあるものは)
間違いなく、なにかとてもリアルで、切実で、真に迫った、本当の──
宗像がえづくように何度か咳き込んで、ぐっ、と目元を拭った。
ぐしゃぐしゃになった激情をなんとか、整えようとするそぶり。なにもかもが元に戻る気配。
ああ、また一瞬が逃げてしまう。捕まえなきゃ。ずっとここにいなきゃ。
(お願いだから──今すぐ、時が止まればいい)
心の底からそう願った。二度と動き出したくないと思った。
もうどこへだって行きたくない、未来などひとしずくも欲しくはない。
この瞬間を永遠にしたい、そう本当に思ってしまって、そして──ひたひたと足元に押し寄せる、良くない予感、それが一気に水かさを増し、俺をひといきに飲み込んだのが、わかった。
俺を包む情動に完全に身を任せて、圧倒的なものに流される感覚に酔う。
くらくらと蠱惑的な、悪い薬みたいな中毒の余韻が、俺の身体中をしびれさせる。ものすごく気持ちがいい。
俺は情動の導くまま動いて、心が勝手にある方向へ引きずられていくのを、もはやまったく止める気にならなかった。
泣き崩れる宗像の前にひざまずいて、ゆっくりと差し伸べた手、しびれるような感覚に任せて、口を開いて。
「なあ宗像、──……」
──たぶんこの瞬間、俺は本当に、悪魔に魂を売ったのだと思う。
宗像が、俺の言葉に呆然と目を見開いて息を呑む。
その音が、俺にはまるで、美しい天上の音楽みたいに感じられた。
18歳未満のファウスト・前編
── 三島凪の契約 ──
《了》




