26
週末の土曜日。
俺はふたたび病院の、総合内科の椅子に座っていた。
あの、宗像の家で死骸を見つけた夕方から、頭痛やだるさが急激に悪化していたからだ。
勉強に身が入らない。ただそれは体調不良のせいだけじゃなくて、ともすればすぐ俺の頭を専有する、さまざまな記憶の想起とか、あの情動への渇望みたいなものとか、そういう理由もひそかに含まれていた。
先生は俺の再訪を歓迎してくれた。丁寧に話を聞こうとしてくれた。
身体のことだけじゃなく、日常のことや、思ったことも話してくれていい。それも大事な診断材料だから。
やわらかくそう言われて、なのに俺は体調不良を相談はできても、例のどうしようもなく俺を突き動かす情動とか、宗像とのこととかを、ひとつも話すことができなかった。理由の判然としない、後ろめたいためらいが、俺の口を妙に重くした。
ひととおり話し終わると、先生はぱちぱちとタイピング音を鳴らし、そしてキイ、と椅子を回して俺に向き直った。
「そうだね。診断としては前と変わらないけど……もし君さえよかったら、別の科を紹介するのは、どうかな」
言葉を選ぶような、慎重な口調だった。
うっすらと、どこを紹介されるのか察する。俺は少し詰まったような早口で、いいです、と言った。
「大丈夫なんです。ちょっとその、……薬だけ、もらえれば」
先生はそう、とやさしく言うと、ゆっくりと俺に尋ねる。
「栄養剤を続けて出しておこう。他の薬はどうしたい? 眠れるようになるものとか、不安を取るようなもの」
「……」
俺は少し黙り込んで、迷った。
あれこれと思考が、頭の中で回っている。
睡眠薬や抗不安剤なんて飲みたくない。そんなの俺には必要ない。
俺は普通だし、まだ大丈夫だし、どうしようもなく堪えているなんて、まだ、思いたくない。
ちょっと体調が悪いだけ。眠れてないから。
頭が痛くてだるいのは、睡眠不足のせい。食事が雑なのがいけなかったのかもしれない。
生活リズムだって、生研部と勉強があって乱れてる自覚はある。不摂生が悪かった。
そう、ちゃんと食べて、夜きちんと眠れば、きっと。眠れさえすれば。
たくさんの弁明と帳尻合わせと言い訳をして、小さく頷く。
蚊の鳴くような声で、言った。
「眠れるのだけ、ください……普通の、なんか、ぜったい強くないやつ……」
「……わかったよ」
先生はくるりと椅子を回し、マウスを操作する。かち、かち、とクリック音。
「栄養剤……はまだあるみたいだね。眠れる薬を出しておこう。きっとよく眠れるはずだよ」
「はい……」
処方を終えると、先生は椅子をくるりと回転させ、少しだけ真面目な顔をした。
「とても軽い薬だけど、慣れないうちは次の日も眠いかもしれない。自転車やバイクなんかは控えたほうがいいかもね。あと、体育とかも気を付けて。それから、飲んで眠れないなと思っても、自己判断で量を加減するとかは、絶対にしないように」
「……はい」
「じゃあ、二週間分出しておくから、なくなったらもう一度来てくれるかな。予約を入れておこう」
「え……」
俺はおずおずと顔を上げる。
たしか前は、栄養剤を一ヶ月分もらえたはずだ。なんで半分なんだろう。
あんまりしょっちゅうここまで来るとなると、勉強に差し支えが出てしまう。交通費だって安くない。
たどたどしく問いかけると、先生はああ、とだけ言って、少し言葉を止めた。困ったようなやさしい笑み。
「今回からの薬は、一回の処方が二週間分で上限と決まってるんだ。法律でね」
「……そう、なんですか」
「何度も来る手間をかけてしまって申し訳ないけど」
「いえ……その……大丈夫です」
「ありがとう。じゃあ、診察はこれでおしまい。次もまた会えるのを待ってるからね」
「えっと……ありがとう、ございました……」
処方箋を挟んだファイルを渡され、俺は立ち上がり、ぺこりと頭を下げる。
荷物を持ってドアを開け、最後にもう一度お辞儀をして、診察室を出る。
先生はきちんと椅子をこちらに向けて、最後まで俺を見送っていた。
もう用のなくなった総合内科を歩き、会計に向かう。
廊下を歩きながら、俺はそっと胸元に抱いたファイルを見下ろした。
先生の言葉が蘇る。何度も来る手間をかけてしまって。
ということは、二週間経ったらまたこの薬が出て、その次の二週間後も、同じ薬をもらうんだろうか。
(いつまで? ……ずっと?)
じわじわと、なんとも言えない気持ちがこみ上げる。
法律で二週間分しか出せない薬。次の日は自転車に乗るなとも言われた。体育にも気を付けろとか、絶対にたくさん飲むなとも。
(なんか……)
眠れさえすればそれでいいと、一回頷いただけなのに。なんだか、ずるずると事が大きくなっていっているような気がする。
腹の底がそわそわして、怖いような、不安なような、なんとも言えない心許なさ。
ぎゅう、とファイルを抱きしめた。足を早める。
違う、と何度も心の中で唱えた。
俺はまだ普通だし、大丈夫だし、なんともない。
頭が痛いのも身体がだるいのも熱っぽいのも、味があんまりわからないのも、なんだか世界がぼんやりしているのも、ぜんぶ睡眠不足のせいだ。寝たら治る。眠れさえすれば。あの薬は、それだけの。
右、左、と前に送る爪先がどんどん早くなって、ほとんど小走り、くらいの速度まで上がっていく。
通り過ぎる人たちが、不躾にも院内で走る俺を迷惑そうに眺めている。ごめんなさいと思うのに、速度をゆるめることができない。
とうとう、どんっ、と肩の端が誰かにぶつかった。あっ、と振り返る。
「ご、ごめんなさ──」
「……三島?」
「え……──あ、うわあ!」
走りながら振り返ったせいで、脚がもつれた。ひっくり返りそうになる。あわあわと腕を振り回す俺に、ぶつかった相手が慌てる気配。
「──っと」
ぱしっ、と二の腕を掴まれ、引っ張り上げられる。
礼を言おうとして、真正面からその人を見て──ようやくそれが、宗像なのだと気が付いた。
え、の形で口が固まる。宗像が呆れる。
「おまえ、ほんっとすぐその顔するな」
「む、む、宗像」
どうして、と口が動いた。
宗像はそれには答えずに、気が付けば落ちてしまったファイルを床から拾い上げる。胸元にほい、と押し付けられ、俺は慌てて落とさないよう抱き止めた。
「なんで……」
反射的に尋ねて、なんでも何もない、とすぐ思い至る。
宗像は母親に会いに来たのだ。今日は着替えの類は持っていなさそうだけど、普通に考えたらそうだろう。
宗像は俺の思考を読んだのか、かすかに顔をしかめた。ちら、と胸元のファイルに視線が落とされて、俺は慌ててそれを背後に隠そうとする。
「……体調、悪いの」
「す、少し。不摂生で、栄養不足だって」
そう言いながら、心臓がどくどく言うのを感じる。
だってこのファイルには処方箋が挟まっている。中を見られたら宗像のことだ、書かれている薬がどんなものかなんて、きっとすぐに気付いてしまうに違いない。
だが、宗像はかすかに目を細めて、そう、と言うだけだった。俺がなにかを隠したがるのに気付いたからだと、わかっていた。この完璧で出来た男は、他人の秘密を勝手に暴き出したりなんて絶対しない。
俺はかすかに安堵して、背後に隠したファイルをそっと胸元に戻した。
「宗像は、お母さんのお見舞い?」
「お見舞い……お見舞い、ね」
かすかに宗像が笑う。俺は首をかしげた。
宗像の瞳が、なんともいえない笑みの形になって、彼はだったら、と言う。
「一緒に来るか?」
「え──でも」
いいんだろうか。だって家族のお見舞いに、いきなり部外者の俺がついていって、宗像の母親だってびっくりするだろう。宗像からすれば俺は友達らしいが、それでも多少は憚られる。
俺の「いいの?」の視線を正しく拾ったのだろう、宗像はいいんだよ、と言った。
「おまえ、会計するだろ。付き合うよ。それ終わったら、今度は俺に付き合って」
「わ、わかった……」




