27
白っぽい病院の廊下を、連れ立って歩く。
宗像は俺より半歩ほど先を淡々と進み、迷うことなく会計の列の前で止まった。
「俺、あっちのソファで待ってるから。終わったら声かけて」
「う、うん」
おずおずと列の最後尾に並ぶ。会計を済ませ、番号の表示待ちになる。ディスプレイを見ると、俺の番号はそう遠くはなさそうだった。
宗像のいるはずのソファに向かうが、そこには宗像ではなくおばあさんが座っていた。
あれ、と思ったとき、おい、と声をかけられる。宗像は壁にもたれかかって、ひらりと俺に手を振っていた。駆け寄る。
「こんなとこにいたんだ」
「混んできたからな」
どうやらあのおばあさんは、宗像に席を譲ってもらったらしい。相変わらず、宗像の立ち居振る舞いはそつがなく、完璧だ。俺はふうん、と隣の壁に背をもたせかける。そういえば、と思った。
(今、別に忌々しいとか、思わなかったな……)
前はあんなに、宗像の完璧さが鼻についたのに。今はそんなことより、こいつの事情とか、閉じたドアの向こう側にあるものとかの方が、ずっと気になっている。
壁に持たれたまま、なんとなくの沈黙。俺はそろりと隣を伺う。宗像がちら、とこちらを見た。
「番号、何番」
「あ……385」
「もうすぐだな」
「うん」
それきり、また黙り込む。
宗像はなんだかいつもより少しだけ表情が乏しくて、俺は斜めがけの鞄、ストラップを意味もなく握ったり離したりして、なんとも言えない手持ち無沙汰に耐えた。
「……なあ」
しばらくの沈黙ののち、急に宗像が口を開く。ぴくっ、と指先が動いた。
そろりと見上げて、なに、と返事。宗像は視線だけを俺によこすと、ややためらいがちに言った。
「おまえやっぱり、どっか具合悪いの」
「っ……」
ぎゅっ、とストラップを握りしめる。心臓が少しだけ冷たく、早くなる。
さっき鞄に詰め込んだ処方箋、その存在を、どうしても知られたくない。
俺はどう答えたものか迷って、中途半端に口を開きかけては閉じて、そのとき。宗像がふっと顔を上げた。
「──ああ、番号ついたな」
「そ、あ、え? ……あ、うん、ついた……」
なんでそこまで吃るんだ、という顔で宗像が見てくる。
ごにょごにょと口の中で、行ってくる、とつぶやくと、俺は早々にその場を後にした。よかった、と思った。
(あんまり突っ込まれると、心臓に悪い……)
俺は嘘をつくのが得意じゃない。外の人とまともに接したことがほとんどないから、嘘のつきかただって教わらなかった。家ではむしろ、嘘なんてついたら死ぬほど叱られたし。
正直にしなさい、きちんと生きなさい、勉強に身を入れて、生活は毎日規則的に。
悪い食べ物は食べないこと、良くない友達とは付き合わないこと、先生にも当たり外れがあるから、全てを鵜呑みにしないこと。
言われたときは意味がわからなくても、親の言うことは絶対に聞くこと。
そのすべてをきちんと守って生きてきた。でも、たった一回のインフルエンザで、あっという間に俺は透明になってしまった。
何が正しくて何が間違っていたのか、俺のなにが悪かったのか、中三の冬、俺はどうすればよかったのか。そんなこと、今だってまだわからない。
(……なにも考えずに、ゆっくり寝たい)
勉強のことも、家のことも、不安定な自分の足元のことも、宗像のことも。
なにも考えずに、今はずっと眠っていたい。そのためにあの薬が役に立つことを、俺は心から祈った。
会計機に札を突っ込んで、三割負担の金額を払う。それなりの出費を覚悟したのに、思ったより金額は少なかった。
明細の項目を見ると、前回あった初診料の部分が消えている。そういうシステムらしい。
二度も病院にかかったのだ、ということが実感として落ちてきて、俺は小さくため息をつくと、明細や予約表を鞄に押し込んだ。
「……おまたせ」
「おう。行こうぜ」
「うん」
出入り口へ向かう人の流れに逆らって、宗像とふたり、病院の奥へ向かう。
エレベーターのボタンを押して、上の階へ。
痛いほど静まり返った清潔な廊下を抜け、俺たちはガラス戸の前までやってきた。
宗像がインターホンを押す。チッ、と通信が繋がる音。
『はい、七C病棟、精神科ナースセンターです』
「こんにちは。宗像静江の身内です。開けてもらえますか」
『ああ、わかりました。今向かいますね』
プツッ、と通信が途絶え、少しして看護師さんが中からやってくる。
ガラス戸を開けてもらって、俺と宗像は内側へ迎え入れられた。
看護師さんがちら、と俺を見る。誰だろう、という視線だった。
とりあえず会釈する。看護師さんも、正体のわからない俺にあいまいな会釈を返す。
普段なら俺を紹介するはずの宗像は、なにも言わないまま淡々と歩くだけだった。正直、ちょっと居心地が悪い。
「じゃあ、私は戻るので。なにかあったらナースコールすぐ押してくださいね」
そう言うと、看護師さんは去っていく。俺はその背を見送って、ずっと黙っている宗像の後に続いた。
白くて清潔な廊下だけど、そういえばどの窓にも格子が付いている。おそらくははめ殺しであろう窓なのに、ずいぶんな警戒具合だ。
それっぽさを和らげるためか、格子はきれいなデザイン状になっているが、設置の意図は明白だ。他の部分はまったく普通の病院廊下なだけに、その異質さが妙に目についた。
宗像がひとつの病室の前で立ち止まる。とんとん、とノックをして、返事はひとつもない。
それでも宗像は、入るよと一言呼びかけると、すらっとドアを開いた。
中にはベッドがあって、ひとりの女性が座っていた。なんとなくこわばった表情だった。
宗像に良く似ている。切れ長の目と、整った鼻筋。黒に近い焦げ茶の瞳。きれいな人だった。
一人部屋の中は広く、ものがほとんどない。カーテンがきっちり引かれていて、昼過ぎだというのになんだか薄暗かった。空気がこもった部屋特有の、かすかに甘ったるいにおい。
「……達也」
こちらをほとんど見ないまま、宗像の母親がつぶやく。宗像はうん、と言うと、俺に一つしかない椅子を勧めた。もちろん断る。ここに座ったところで、俺はただ尻の据わりが悪いだけだ。
宗像は俺の意図を組んだのか、さっと椅子を取ると自分で座った。かた、とベッドの傍に少し引き寄せて、母親の顔を覗き込む。
「調子はどう」
「……その人は? あいつらの仲間じゃないでしょうね」
「違うよ。俺の友達で、母さんのことを助けたいって」
(え……?)
そんなこと、聞いてない。
俺はうろたえたように視線を持ち上げる。宗像がちらと一瞬俺を見て、大丈夫、みたいな顔で首を振った。唇に指を当てる仕草までされたので、とりあえず黙っておく。
「もう一度聞くけど。調子はどう」
「……もうだめ。みんな幹人さんに取り込まれてる」
「父さんなら俺が見張ってるから大丈夫だよ」
「だめよ。今だって盗聴されてる。今朝もね、看護師の人、私が箸を置いた瞬間にドアを開けたの。盗撮カメラで見張ってるんだわ」
明らかに普通じゃない物言いなのに、宗像はそう、と返すだけだった。ゆっくりと立ち上がる。
「少し光でも入れようか。暗いままだと、気分も落ち込む」
宗像が立ち上がって、カーテンに手をかけた瞬間。鋭い声が降ってきた。
「──やめてッ!」
ぴく、と宗像が手を止める。ゆっくりと振り返ると、彼はごめん、と微笑んだ。母親が、こわばった表情のまま、布団をぎゅうっと握りしめる。椅子に戻った宗像に、引きつった視線を向ける。
「窓の外。見張られてるの。あいつら……いつもの集団ストーカーよ」
「……うん」
「ねえ達也。あなたも気を付けて。家の中も外も、みんな危険よ。私の息子ってことで、あなたまで危険な目にあったら」
「俺は大丈夫だよ」
「でも。今だってきっとここ、盗撮されてるわ」
宗像がかすかに息をついた。切れ長の瞳がちら、とこちらを向いて、大きな長身が立ち上がる。近付いてくる気配。宗像の母親が、彼を視線で追う。
宗像は俺の隣に立つと、とん、と肩に手を置いた。思わず見上げる。こちらを見ないまま、彼は母親に向かって、大丈夫だよ、と声をかけた。
「こいつ、連れてきたから。母さんがひどい目に合ってるって聞いて、俺たちのこと手伝ってくれるって」
「え、あ、えっと──」
「だよな、三島」
わずかに語尾を強くされ、まっすぐな目で見つめられる。
今は話に乗ってくれ、というはっきりした意志を感じ、俺は思わず頷いていた。宗像の母親が、じっ、と俺を見つめる。
「……そうなの? 達也のお友達?」
「は、は、はい……友達、です。三島です」
一度も言ったことのない、むしろ抵抗のあるはずの言葉だったのに。思ったよりずっとスムーズに口から出た。
母親は、そう、と言うと、辺りをそわそわと見回した。
「この部屋も安全じゃないわ。三島くんも気を付けて」
「は……はあ」
「大丈夫。俺たちがなんとかするよ」
宗像はそう言うと、すっと俺を見た。俺は謎の緊張を感じて、うん、と頷く。
なにか一言でも間違ったことを言ってしまえば、事態がとんでもないことになってしまうのじゃないかと思って、怖かった。
宗像は俺の肩からそっと手を下ろすと、促すような視線でベッドの傍を見る。俺は促されるまま数歩前に歩み出て、途方にくれて宗像を見上げた。
「こいつ、盗聴器とか、カメラとか、見つけるのうまいんだ。な?」
「え、あ……は、はい」
こくこく頷く。宗像は淡々と母親の方に向き直り、俺たちで探してみるよ、と言った。
大きな手が、ほとんどなにもない室内を指差す。
「おまえ、あっちの方な。俺はこっち探すから」
「わ……わ、かった」
極力余計なことを言わないよう、ぎくしゃくと従う。
床に這いつくばったり、意味もなく壁をぺたぺた触ったり。正直、こんなことで何が見つかるわけでもないと思う。でも、何もしないわけにもいかない。
しばらくごそごそやっていると、宗像がすっくと立ち上がった。
指先に、なにか黒くて小さいものをつまんでいる。それを軽く掲げて母親に見せつけると、
「あった。壊しておく」
ぼそっ、と短いつぶやき。コン、と黒いものが床に落ちる。
宗像のスニーカーが、即座にそれを踏み砕いた。ぱきっ、と小さな音。
宗像の母親が、はあーっ、と息を吐いた。
俺はしげしげと、宗像がスニーカーをどけたあと、踏み潰された黒いものを見る。
砕け散った、黒と透明のプラスチックのパーツ。短いコードは雑に切られていて、どこにも繋がっていない。これがカメラ本体、なら記録媒体とか、電波を飛ばす機械とか、そういうのに繋がっているはずだ。
俺はかすかに首を傾げ、でも、なにも言わなかった。
宗像が椅子に戻る。潰された黒いものを手のひらに乗せて、ほら、と言った。
「ちゃんと部屋中探したら、あったよ。きちんと壊したから」
母親が手で顔を覆う。絞り出すようなささやき。
「……よかった……」
「これでしばらくは大丈夫だと思う。もう一度仕掛けるにも、こういうのって絶対に手間かかるし」
「そう……そうよね。少しの間だけど……よかったわ」
そろそろと顔を上げ、宗像の母親がぼんやりした目で俺を見る。
ひくっ、と肩が引きつって、謎の緊張感が俺を捉えた。
「三島くん、でしたっけ。ありがとう。助かったわ。おかげで今夜は、少しは眠れそう」
「そ、そ、それは……よかった、です」
俺の言葉に、宗像の母親がにこり、と微笑む。初めて見る、普通の表情だった。笑ったときの目元が宗像に良く似ていた。
さて、と宗像は床に置いていた鞄を取り上げる。
「俺ら、そろそろ帰るよ。父さんに見つかったらまずいから」
「そう……そうね。幹人さんには気を付けて。達也、本当にひとりで大丈夫?」
「大丈夫だよ。父さんも、俺にはなにもしてこないから」
「……だといいけど……三島くんも」
「へっ、は、はい」
唐突に水を向けられて、俺はびくっ、と裏返った返事をする。
宗像の母親はとても真剣な顔で、いい、幹人さんには気を付けるの、と言った。おそらくは宗像の父親のことだろう。
「あの人はね。言葉巧みに人を取り込んで、私のことをずっと見張ってる。色んな人に、私とすれ違いざまにああ言えこう言えって命令したり、電波で眠りを邪魔しろとか、カメラを仕掛けろとか、開発途中の機械で私の頭の中に声を飛ばせとか、窓から監視しろとか。たくさんの人を利用して、集団ストーカーの悪事に引き込んでる。言葉巧みで、私の言葉なんて誰も信じてくれない」
まくしたてるような早口に、俺はそうですか、と引きつった声を返すしかできない。
宗像がやんわりと、そのへんでいいだろ、と言った。そうねと母親は引き下がる。
「とにかく。三島くん。達也のこと、よろしくおねがいします。幹人さんから守ってあげて」
「は……はい」
こんなことを頷いていいのだろうか。そう思いつつ、否定すれば多分大変なことになるだろうとわかる。だからはいと言うしかない。
宗像は棒立ちのままの俺に近付くと、行くぞ、と短く言った。こくこく頷く。
「じゃあ、母さん。今日から数日間は大丈夫だから、その間だけでもゆっくり休んで」
「本当に、いつもありがとう。達也だけよ。私のことを信じてくれるのは」
「また来るよ。元気で」
「ええ。気を付けてね」
来た時より少しだけやわらいだ表情で、宗像の母親は手を振った。
俺は慌ててぺこりと頭を下げると、ドアに向かう宗像に続く。
最後にドアの隙間から見えた彼女は、とてもほっとしたような顔をしていた。
ぱたん、とドアが閉まる。
俺は宗像が黙ったまま大股で歩いていくのを、小走りで追いかけた。
ナースステーションにありがとうございましたと一声かけて、看護師さんの付き添いでガラス扉の外に出る。
淡々と歩いて、エレベーターのボタンを押して。すうっと開いた個室に入ってようやく、宗像が口を開いた。
「……で。うちのは、こういう〝お見舞い〟なわけだ」
「う、……うん」
うまい返事を思いつかない。いわゆる『病気のお母さんへのお見舞い』という言葉から連想されるものと、今見たものは、あまりにも乖離していた。
宗像は言葉を失っている俺を見て、かすかに笑った。それだけだった。
軽いGとともに、エレベーターが静止する。
開いたドアの向こうから、行くぞ、と宗像が声をかける。
その顔はやっぱり、逆光でうまく見ることができなかった。




