25
生物室の中に、がたがたとケージを用意する音がする。
俺は〝通常〟のマウスの世話をしながら、宗像が電流ケージの準備をするのをそっと眺めていた。
押し殺した息をついて、首元のネクタイに指をやる。巻き付いた細い布地は、なんとなくまだじっとりしていた。シャツは昨日と違うのを着たけれど、スラックスはアイロンを当てたのにいまだに湿っぽい。
昨夜は帰ってすぐ布団にもぐりこんだから、朝起きてびしょ濡れで皺まみれの脱ぎ散らかしたスラックスを見つけた時は、心底うんざりしたものだ。
寝不足の腫れぼったい目で三回くらいアイロンを当て、時間ぎりぎりに死にそうな思いで走ったおかげで、なんとか遅刻せずに済んでいた。
眼鏡を外し、目元を揉む。じいんとした、痛いようなだるいような感覚。まとわりつくような眠気。
でもたぶん、いま布団に入っても絶対に眠れないだろうという、身体的な確信があった。神経が変な感じに昂ぶっている。落ち着かない。
ため息混じりに、かち、とフレームを掛けなおしたとき、ぼそりと宗像が言った。
「そろそろ、ちゃんとストレスかかってるか確かめないとな」
「確かめるって、どうやって」
俺の問いかけに、宗像はとてもあっさりと言う。
「一匹解剖して、胃潰瘍ができてるか調べる」
「っ……」
ぴくっ、と肩が跳ねた。
解剖。初めてこの部屋に来た時に見たものが思い出される。規則的に並べられたマウスの脳と脊髄。
そういえば、あのころ宗像はまだ、実験を始めてもいなかった。
あれは──なんのための解剖だったのだろう。
宗像の目がすっと動いて、思わず黙り込んだ俺を見た。その横顔が、申し訳無さそうな表情になる。
電流ケージの蓋を閉め、宗像はこちらに向き直った。
「大丈夫か」
「だ、大丈夫……」
そう言うしかない。だって俺は、宗像の前で、大丈夫だと約束したのだから。
うっすらしめったネクタイの胸元をぎゅっと握りしめ、俺はもう一度大丈夫、と繰り返す。
宗像は少しだけ黙っていたが、そうか、と短く言うと、バッテリーの準備を始めた。俺はもそもそと健康なマウスの床敷を取り替える。
かしかしとペレットをかじる、一方的な平和の音。鼻をひくひくさせ、マウスが俺を見上げてキイと鳴く。片方のストレスマウスはというと、もう鳴くこともほとんどない。
(なんか……)
この男の懐に近付いて、閉じたドアの前でじっと待っているうちに。ずいぶん異質なところまで来てしまった気がする。
それでも、引き返すことができない。どうしてかはわからない。
ぼんやりと手を動かしているうちに、ショック行為はすでに始まっていた。マウスの悲鳴が聞こえてきて、俺は慌てて通常のマウスを飼育室代わりの準備室に避難させる。
ケージをエアコンの風の当たらない棚に戻し、生物室に戻る。
ドアを開けたとき、宗像は長い脚を組んで、淡々とボタンを押しているところだった。かすかにケージが揺れる音。鳴き声は聞こえない。
色のない目、あのよくわからない眼差しをした横顔が、静かにケージを見つめていた。
俺はそっと歩み寄り、机に戻ろうとした。そのとき。
「……なんか反応悪いな」
ぼそっ、と宗像が呟いた、と思った瞬間。
──ガンッ、とものすごい音がした。
一瞬でびくッ、と身体がこわばる。
マウスの悲鳴。反射的にこみあげる、恐慌に似た感覚。
(な、な、なに……?)
呆然と目を見開く。宗像の様子を見た。
握った拳が机の上に置かれている。宗像がケージの横、机の天板を殴ったのだ。それも思いきり。
「む、宗像……?」
呼びかける声は掠れていて、喉の奥がひりひりと乾いた。
俺の呼びかけに、宗像がゆっくりと振り返る。
視線が、交わった。
俺の正体を見留めた瞬間、宗像の表情にかすかな変化が訪れる。
どうしようもなく俺の情動を呼び起こす、あの、明言できない瞳の色。流星が落ちながら、俺の内側をこすっていく音がする。火花のようにちかちかした感覚。
ありとあらゆる複雑な感情が彼の目の上に現れては消えていって、よくわからない美しい剥き出しのなにかが、俺の目の前に晒される、たった一瞬。
共鳴のように呼び起こされた強烈な感覚が、酩酊じみたしびれを伴って胸の底を揺らした。
じいん、と心臓の奥がふるえて、こくりと喉が鳴った。生きていると思った。
(もしかしたら、今なら、掴めるんじゃ──)
そう思った瞬間。宗像がふっと下を向いた。きれいだった表情が隠れて、俺は自分の内側から、狂熱じみたものがすうっと去っていくのを感じる。
すっと顔を上げた宗像は、まったくいつも通りの顔に戻っていた。
なぜだろう、妙にがっかりしている自分がいた。
「……悪い。びっくりさせたな」
「あ……、うん……」
ああまた消えてしまった。あと少しだったのに。
もどかしい。あとほんの一秒でも、あの瞬間が長かったら。
そしたらきっと、俺は。
ぐるぐると回る情動の余韻、ほとんど未練めいた感情に翻弄されていると、宗像が心配そうに俺を覗き込んだ。はっとする。
「……三島? 大丈夫か」
「え、えっと……うん、平気。本当に」
「ならいいけど。最近おまえ、ちょっと顔色悪いぞ」
「そ、そう? 気のせいだろ」
自分ではそんなことわからない。思わず頬をぺたりと触ると、宗像が笑った。
「ははっ、触ってわかるもんなのかよ」
「わ、わかんないよな……」
「そりゃそうだろ」
笑み混じりに言う宗像だったが、俺が首をかしげていると、ふっと真剣な顔になった。
がた、と椅子を鳴らして立ち上がり、長身がゆっくりと近づいてくる。
俺は宗像の手がゆっくりと伸びてくるのを、ぼうっと見ていた。
「……っ」
ぺたり、と額にてのひらが乗せられる。ひんやりしていて気持ちよかった。
「ちょっと熱いか? いやでも誤差かな……」
宗像が考え込むようにぶつぶつつぶやく。その視線は不自然に斜め下あたりを向いていた。
なんとなく、俺の耳元を見ないようにしているのかな、と思った。どうしてそんなことを思ったのかはわからなかった。
俺は静かに手を持ち上げて、何気ない仕草をよそおって、そっと耳元の髪に触れた。手が勝手に、そういうふうに動いていた。
ゆっくりと指先が動く。髪がどけられて、俺の耳があらわになる。
そのとたん宗像はぴくっ、と眉を動かして、
「大丈夫そうだな。……じゃ、俺作業に戻るわ」
さっと身を翻してしまった。
大股が遠ざかり、がたっ、と椅子に座る音。脚を組む気配。
かち、とボタンの通電音、かすかなマウスの悲鳴。揺れるケージ。
「……」
なぜだろう。がっかり、していた。かすかな落胆が、俺の背中を少しだけ涼しくする。
だけど同時に、安堵もそこには確かにあって、怖いような心許ないような、なんとも言えない感覚も混ざっていた。うまく説明できない。
(……なんか、本でも読も……)
この感覚を、深く追求してはいけないような気がした。
俺は宗像の正面に座ると、使い古したタブレットを取り出した。
ゲーテはじわじわだが進んでいる。母を殺してしまった少女が未婚ながらに子を孕み、殺人と淫蕩の罪で処刑が決まったところだった。
すっ、と指先でページをめくる。読みにくくて意味がわからず、何度か前のページに戻る。
背景では宗像がボタンを押す音と、弱々しいマウスの叫び声。漏れ出した糞尿のかすかな悪臭。
なにも聞こえない、感じないふりをして、俺はひたすらタブレットを操作した。
生研部はいつも通りに終了し、俺と宗像は同じ電車に乗って、途中で別れた。
この日を最後に期末考査前のため、部活動は当面、禁止になった。




