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欠けた月の夢を見る  作者: 秋野
9/13

9.『かなめ』さがし

 正義は、はっと目を醒ました。いつもより硬い感触の枕に違和感を覚えた。見慣れない天井と壁紙が目に入る。そうして、昨日の奇妙な体験をいっぺんに思い出した。


 のっぺらぼうの女の子を追いかけたこと、道行く人が奇妙なお面で顔を隠した通りに出たこと、天狗のお面をつけた男に連行されそうになったこと、『すなねこ』という少年のような少女のような人物に助けられたこと。そして『すなねこ』が言った言葉。



――この土地に来る人は、皆――自殺をした人たちだ。


 

 正義は、クラスメイトの日向かなめのことを思った。つまり、かなめを――正義がプラットホームで手を差し伸べて、助けることができたと思っていたかなめを自分は助けることができなかったのだ、という苦しい気持ちが胸のうちにじんわりと広がっていく。


 体を起こして窓の外を見た。まだ暗かった。窓を開けると、ベランダに出られることに気が付き、出てみる。空には丸い月があった。それ以外は暗くて特に何も見えない。正義はすでに頭が冴えてしまったことを感じていたため、昨日、『すなねこ』から渡されていた服に着替えると、廊下にでた。階下で陽気な音楽が流れているのが聞こえてくる。


 特に深い考えもなしに、音に誘われるようにして階段を降りる。音は食堂の方から流れていた。扉を開けるとがらんとしている。誰もいない。ただテーブルの上には、なぜか、コップが五つも置かれている。その五つの透明な水の中に何かピンクのものがプカリと浮いている。そして、相変わらずどこからか陽気な音楽が流れている。


 正義は人影が動くのを感じて、中庭に続いている食堂の硝子戸を見た。近付いてみると、白くなり始めた空の下、中庭に人影がある。人影が五つもある。音楽のリズムに合わせて、その五つの人影がおかしな動きをしている。両手を大きく空に突き上げる。風にそよぐように斜めに体を傾ける。かと思うと、上から押し潰されたかのようにくしゃりと膝を曲げる。そしてその顔は一様に、三日月形の目に、ナイフで口角を引き裂いたかのような口をしている。不自然なほどににっこりと笑ったつるつるすべすべの顔を貼り付けた五つの人影が、リズムに合わせて伸びたり、縮んだり、異様な動きを見せている。


 正義はくらくらするものを感じた。これは――これはラジオ体操だろうか。その不気味な光景に圧倒され、近くの椅子に倒れ込むように座った。五つの影は、すーはーと大きく息を吸って吐いての動きを何回かくりかえすと、どやどやと硝子戸を引いて食堂へ入ってきた。


「月曜の朝は、最高の気分じゃ。お面がぴちぴち言うとるわい」


「やはり金色に光るなんとかの姫様は偉大じゃ、偉大じゃ」


「うつし世ではこんなに空気が上手いとは思わんかったのう」

「まさに天国じゃわい」


 五人のお面男は全員、お面をぱっと取り外して、テーブルにゴロリと置いた。テーブルの上に、五つの剥がれ落ちた人の顔がころころと乱雑に転がる。正義は目を背けた。

お面の下から現れたのは、どれもしわくちゃの顔だった。そして、しわくちゃの顔の人たちは皆、テーブルの上のコップに手を突っ込んだ。その中から、何かピンク色のものを取り出して、口の中にいれた。そこで初めて、正義はプカリと浮いていたそれが老人の入れ歯だったことに気が付いた。


「おや、見ない顔じゃな」


 ぼんやりしていたら老人の一人が近づいてきて、声をかけた。正義の前に座った。


「お前さん、ちょいと匂うな。土臭い」


 すると残りの老人たちも正義に近づいてきて、座った。


「なんだお前さん、いつからここにおる?」


「お前さんはいくつじゃ」


「こんな若えのは、『すなねこ』ちゃん以来じゃないか?」


「お前さんは、なんでやったんじゃ?」

 その問いで老人たちの質問攻めがいったん途切れる。老人たちの目が、ただ正義に注がれている。正義は戸惑いつつも、口を開いた。


「やったって何がですか?」


 正義は、問いの意味が分からなかったので、問いかけた老人の顔を見ていた。老人は、ただ哀れなものを見るような目で正義を見ている。


「まだそんなに若いのに、どうしてやったんじゃ?」


まだ若いのに、という言葉を聞いて、ああ、そうか、と気が付いた。


「いや、えっと、俺は違います。俺は……ここには友達を追って来たんです」


「友達を?」


「はい。同じクラスの子で」


「へぇえええええええええええええええ」


 老人の一人が、ため息とも嘆息ともつかない、奇妙に長く伸びた声を漏らした。


「痛ましいことじゃ痛ましいことじゃ」


「その子のことが好きなのかえ?」


「青春じゃのう」


「なんだ、恋か? お前さん、恋しとるのか?」


「しかし恋は禁物じゃ。金色に光る姫様に見つかったら舌を抜かれる」


「何言うとるか。あの蛇に骨までしゃぶられる」


「しかし、ここは若者にはつまらん土地じゃろう。じじいには極楽じゃが」


「ここに来てから、手の震えが止まったからのう。ご飯が進むわい」


「お前さん。この土地でも昔は城に桜が咲いてたんじゃよ。城には行ったことがあるか?」


「えっと、はい、昨日少し」


「あそこの桜が散ったり咲いたりしてなあ。綺麗じゃった」


「あれが一年の唯一の楽しみじゃった」


「今はいつ見ても桜の木が枯れておる」


「ところでお前さん、この宿にはどうやって来た?」


「昨日、『すなねこ』って言う男の子に連れてこられて」


「なに? 『すなねこ』ちゃんに?」


「お前さん、あの子は女の子じゃよ。女の子じゃ。騙されたじゃろう」


「女の子?」


「ある日いきなり、髪をばっさり切ってのう。ここじゃ伸びることもないというのに」


「ところで『すなねこ』ちゃんは、どこか旅に出るって言ってなかったかえ?」


「だいぶ前から、行く行くいってるけど、なかなか行かないようだねえ」


「へぇええええええええええええええ」


「ところでお前さん、まだ随分と若く見えるのう」


「何で自殺なんか」


 正義はここで同じ質問を繰り返され、この老人がぼけていることに気が付き、急に恐ろしくなった。


「じいさんたち、何話してんの?」


 見れば、昨日正義を助けてくれた少年が立っていた。腕を組み、目を細めてこちらを見ている。いや、と思い直す。先程、老人の一人が、少女と言っていたか。


「おはよう、『すなねこ』ちゃん。『すなねこ』ちゃんも一杯やらんかね?」

 といって、老人の一人がテーブルの上のお面を手に取って、ひらひらとさせた。


 『すなねこ』は、「大丈夫だよ。間に合ってるから」と苦笑しながら老人たちに言うと、「用意できたなら、行くよ」と正義に声をかけ、背を向けた。正義は五人の奇妙な老人たちに別れの挨拶をする余裕もなく、慌てて『すなねこ』のあとを追いかけた。


 なるほど確かに言われてみれば、『すなねこ』は確かに女の子だった。声も高いし、男にしては体格が華奢だった。どうして少年だと勘違いしたのだろうと正義は歩きながらぼんやりと考えた。その作業着のような服装のせいだろうか。自分のことを「おれ」と言うからだろうか。――胸がぺたんこのせいだろうか。


「あのじいさんたちは、みんな迷子でたまたま来た人だよ」


「迷子?」


「そう。この土地が、居心地よくて住み着く人もいるって昨日言っただろ。ああいう、じいさんたちがそうさ」


「へえ」


「この土地じゃ、身体の不具合が治るから、じいさんには天国に思えるんだってさ」


 『すなねこ』は、歩きながらまたこの土地のことを少し教えてくれた。そうして、二人並んでぼろ屋が立ち並ぶさびれた道をしばらく歩いた。


やがて、大きなカリフラワーのような、おかしな木が立ち並んだ場所の前で『すなねこ』が立ち止まった。


「これは、なんじゃもんじゃの木だ」と『すなねこ』が言った。


「なんじゃもんじゃ?」


「そう、ここがあの宿から一番近い地下への入り口だ」


 『すなねこ』は、木の太い幹の間をすり抜けて、一番大きな、なんじゃもんじゃの木の前で立ち止まった。その幹にはよく見ると、ぽっかりと人が入れそうな穴が空いている。『すなねこ』はそこに潜り込んだ。そして、なぜか、驚くことに、ひょいと方から下が地面に潜り込んだというような姿勢で、頭だけを出し、正義を見た。そして手招きした。正義はおそるおそる、中を覗いた。ぱっくりと口を開けた空洞の中を覗くと、その下は、真っ暗闇になっていた。ぽっかりと人一人を下に吸い込むような得体のしれない穴が空いているのだった。そして下に降りられるような梯子がついていて、『すなねこ』はその梯子につかまって、正義のことを見上げていた。


「おれ先に降りるから、あとからついてきてくれ」


 『すなねこ』に言われるまま、正義はその、なんじゃもんじゃの木の中に入って、梯子を下りた。下りながら尋ねた。


「本当にちゃんとしたところに出るの?」


「うん。これは地下街に繋がってるんだ。地下街は城下街の下にちょうど蟻の巣みたいに広がっていて、闇屋が商売してたり、賭博が行われてたりする。あとは都の連中、天狗とか城に仕えてる奴らから離れたい訳ありの人たちが集まる場所さ」


「訳ありって何?」


「犯罪すれすれの行動をしてるってことだよ」


「そこに何があるの?」

「人探しの達人がいるから会いに行く」


一〇分ほどはそうして梯子を下りていただろうか。掌がひりひりとして限界を感じ始めた頃に、やっと足がついた。地下に降りて感じたことは、ひんやりとした寒さだった。地上では、少し暑いくらいに感じていたのに、少し肌寒い。


降りてみると、木の中を下って来たとは思えないほど立派な空間が広がっていた。真夜中の街と言う感じだった。電灯がたくさんあり、行き交う人の顔がちらちらと見える。昨日のように、奇妙なお面で顔を覆っている人は見かけなかったから、ほっとした。


『すなねこ』について歩く。


「ここには、うつし世の匂いをするものを売ったりする闇屋がいるんだ」


「うつし世の匂い?」


「そう。田中正義が持ってきた私物も全部売れるよ。あとで売りに来る」


「そんなもの買う人がいるの?」


「うん。うつし世を懐かしく思って買う人がいるんだろう。でも、本来都の掟ではそういうのは禁じられて

いるから、見つかったら厳しく罰される」


「罰される? どうして?」


「ここは、かくり世だから、うつし世にまつわるものは全て悪。それだけさ」


そんなことを話しながら歩いていると、先を歩いていた『すなねこ』がふいに足を止めた。


足を止めた斜め前あたりで、近くの電灯に照らされ、二人の人が座っている。赤いクロスを敷いた小さな卓をはさんで、女が男に向かって何か話している。顔を近づけ何かを囁いているようだった。正義の方からは、男が真向かいに見え、女の方は後頭部しか見えない。女の頭には、ぬっと突き出た奇妙な突起があって、うねうねと不可思議に動いている。なんだろうあれ、と正義はきょとんとした。


ふいに、真向かいに座る男が、わっと泣き出した。そうして、勢いよく立ち上がると、「いんちきだ!」と叫びながら暗闇に駆けていった。正義はただ呆気にとられた。

 

『すなねこ』は正義に「ちょっと待ってろ」と言うと、女の真向かいに座った。さきほど、男が泣かされた場所である。正義は、女の頭の突起物の正体がなんなのか気になって、女が正面から見える位置に移動した。


「二千金」と言って、奇妙な女が、すっと白い手を伸ばした。その掌は、何かをねだるように上を向いている。


「はい、どうぞ」と言って、『すなねこ』がポケットから金の硬貨をとりだして、女の手に握らせた。小さな金貨が一〇枚ある。一枚が一〇〇金らしい。


 正義は、その奇妙な女を見た。髪は可愛らしいお下げにして垂らしている。しかし、つけているお面が奇怪だった。顔を覆う部分はのっぺらぼうで真っ白く、目が覗くはずの二つの穴も開いていない。そうして、真っ白いお面から上の方に、ぬっとなにやら突き出たものがある。その突起物には、大きな眼が一つ描かれており、まるで生きているかのように瞬きをした。よく見れば、白目のところにうっすらと赤い筋がいくつも、浮き出た血管のように張っている。

不気味なのは、その突起が動くということだった。てっぺんに眼を付けたその突起はうねうねと動き、まるで意思があるかのように、『すなねこ』の方を向いていたかと思うと、ぎゅん、と正義の方を向いたりした。女の頭から突き出た生々しい一つ眼に、じいっと見られて、正義の血の気が一気に引いた。これはさすがに幻覚だろうか。


「何を占いましょうか」


 不気味な女が『すなねこ』に問いかけた。その声は、意外にも細く、弱弱しかった。


「時ちゃん、おれだよ。『すなねこ』だよ」


「えっ、『すなねこ』さん?」


 女がお面をぱっと外した。その下から現れたのは、大人しそうな若い女性。髪をおさげにしているためか、実年齢より幼く見える。不気味なお面と不釣り合いな、その可愛らしい容姿に正義は戸惑った。


「『すなねこ』さん、早く言ってくださいよ。恥ずかしいじゃないですか」と言いつつ女は、頬をほんのり赤くした。


「だって、時ちゃん、役に入り切っるから。また、お客さん泣かせたの?」


「別に。本当のこと言っただけなんです。あの人、大袈裟だわ」


 先ほど泣きながら去っていった男のことを話しているらしい。


「時ちゃん、今日はちょっとお願いがあってきたんだけど。人を探してほしいんだ」


「ええ? 人探しですか? わたしでよければ……。たいしたことはできませんけど」


 時ちゃんと呼ばれた女性は、気の弱そうな話し方をする。そうして、脇に立っていた正義に初めて気が付いたようで、「あら」と声をあげた。


「どちらさま?」


「田中正義。昨日、こっちに来たばかりなんだ」


 時は、正義に軽く会釈をした。正義も会釈を返した。『すなねこ』が正義に言う。


「この方は、時ちゃん。占いをやってて、まあちょっと危ない感じに見えるだろうけど……実は、時ちゃんはすごい人なんだ」


 時は頬をほんのりと赤く染めた。「お時です」と自己紹介した。照れているのだろうか。『すなねこ』はつづけた。


「時ちゃんはな、千里眼なんだ」


 お時は、頬をますます赤くした。


「時ちゃんに、田中正義の探してる女の子の居場所を調べてもらう」


そう言って、『すなねこ』は人懐っこい八重歯を見せて、にっと笑った。 

 

 ◇


 城の地下、牢屋の一室。かなめは、掻き込むような勢いで食事を喉から胃へと流しこんでいた。一度、ここでのものを食べてしまえば、何故かもう不味いと感じなくなった。おいしいとも思わなかったけれど、ずっと食べるのを我慢していた反動で、なんだかどんどん食べられてしまう。かなめは空になった銀食器を食器専用の小さな戸口から出した。しばらくして、見廻りの看守がやってきる。


「なんだ、あんなに不味い不味いといっていたのに」


 偉そうな天狗の看守が小馬鹿にしたように言った。


「うるさいわね。いちいち口開かなきゃ仕事できないの?」


 かなめが噛みつくと、天狗は、「まったく調子に乗りやがって」と毒づきながら、去っていく。

かなめは、右腕を見た。蜘蛛の巣のような不気味な形の痣が、昨日は、手首から肘にまで広がっていた。それが今日では、一回り小さくなっている。あの機械人形のような男が言ったことは本当だったらしい。確かに、ここのものを食べると罪穢れは小さくなるようだ。


――うつし世のことを思い出すと、罪穢れは広がっていく。罪穢れは、うつし世の呪いだから。

あの男はそう言っていた。その脅しのような言葉を思い出す。この罪穢れがどんどん広がると、人に感染する。かなめ自身が処分されることにもなる。かなめは無意識に罪穢れをさすった。処分という言葉に少しだけぞくりとする。


鼠色の壁を見ながら、ぼんやりしていると、足音が聞こえてきた。顔を上げると、昨日のあの男だった。


「朝と昼、きちんと食べているようだね」


 禰木が、相変わらずのあの冷たい目で言った。かなめは、その冷たい目をちらと見て、また鼠色の壁を見つめた。この男の目つきは、かなめを不安な気持ちにさせる。


「そうそう、君の新しい名前だけれど」と禰木がかなめの態度にはお構いなしに話し始めた。分厚い目録のようなものを広げている。そこから名前を選べとでもいうのだろうか。新しい名前なんて、あみだくじで適当に決めてくれ、とかなめは思った。


「面倒だから、名前決めるあみだくじ作ってよ」


禰木はかなめの言葉を無視して、義務的な口調で、淡々と話しを続けた。

そういえば、会いたい人がいるんじゃなかったっけとかなめは思った。でもどうしてもその名前を思い出せなかった。下の名前の響きがすごく好きだった気がする。でも思い出せない。顔は思い出せるだろうか、と考えて顔もぼんやりとしか思い出せないことに気が付く。確か大きな眼鏡をかけていたような気がする。かなめは思い出そうと、少しの間、頭の中の記憶とにらめっこしていたが、大きな眼鏡以外には思い出せそうになかった。


なんだかばかばかしいと思った。どうして会いたいなどと思ったのだろう。


「――はどうかな」


 禰木が一つの名前を口に出した。かなめは名前などなんでもよかった。無感情に、「それでいい」と言った。禰木は義務的に少し微笑んで、「君もようやく自分の立場を理解してくれたようで、助かるよ」と言った。そして去り、かなめはまた鉄格子の奥に取り残された。


 灰色の空間の中で一人、暇を持て余し、新しい名前を口の中で転がす。転がしていくうちにその新しい名前も悪くないかなとも思えてきた。


 ◇


 『すなねこ』と正義は隣同士に座り、赤い卓をはさんで、お時が座っている。卓の上には、占い師を象徴するがごとく、丸い水晶がおいてある。一つ目が突き出た不気味なお面は、裏返しに置かれ、その存在感を消している。


「その探している子にまつわるものを何か持っていますか」とお時が静かな声で正義に尋ねた。


「えっと」と言いつつ、正義は身に着けていた小袋を探った。その中から、漫画を一冊取り出した。日向かなめから借りていた漫画だ。『すなねこ』が宿を出る前に、日向かなめに関係するものがあれば、持っていくようにと言ったから、鞄から取り出して持ってきたのだ。


「これは、とても高価な書物ですね」


 お時は正義が持ってきた少女漫画をなぜか感動したように眺めている。古いため絶版しているわけでもな

いし、有名な本の初版というわけでもない。本屋に行けば、五〇〇円くらいで売っている。


 うつし世のものは高値で取引されている、という先ほどの『すなねこ』の言葉を思い出した。

お時は、やがてこほんと咳ばらいをすると、


「それでは、その子のうつし世での名を教えてください」

 と正義に言った。正義は名を伝えた。お時は、「どんな漢字を書くのですか」ときき、手元の紙に、日向かなめ、と書いた。それから、かなめは独り言のようにぽつりと「美しい名ですね」と言った。そして、


「それでは、始めます」


 そう言うと時は、裏返しに置いてあったお面を手に取った。正義は背筋がぞくっとするのを感じた。お面を装着すると、お時はのっぺらぼうになる。頭の上では、お面から突き出した生々しい眼が、一つの生命体のように瞬きをし、正義のことをじいっと見つめている。


 千里眼とは、千里先までも見通すことのできる透視能力のようなものだという。正義もそのくらいは知っている。しかし、こんな化け物じみた行為が、千里眼の力の源になりうるとはしらなかった。お時は、漫画を両手でぐっと押さえたかと思うと、いきなり何者かに憑りつかれたかのようにばたりと後ろへのけぞった。両の手をだらんと下げて、意識まで失ったかのように見えた。対して、頭の上の一つ眼だけが気が狂ったかのように、ぎゅんぎゅんとあっちを向いたりこっちを向いたりしている。突起がちぎれるのではないかと心配になるほど、ぎゅんぎゅんと勢いよく回っている。それから、卓上の水晶の色が変わり始めた。透明から濁った灰色に変わり、ぐるぐると渦を巻き――


正義はこの恐ろしい光景を凝視していることができず、隣の『すなねこ』を見た。『すなねこ』は、背もたれに、背中を預け、全く余裕の表情で目の前の光景を眺めている。『すなねこ』にとってはこんなの日常の一コマだとでもいうような様子だった。


 お時が「あっ」と声をあげて、椅子から崩れ落ちた。『すなねこ』がすぐに立ち上がって、「時ちゃん!」と駆け寄った。正義も立ち上がった。倒れたお時は、傷をかばうかのように、右腕を抑えていた。その抑えた箇所から、なにやらしゅうしゅうと熱気のようなものが立ち上っている。


 お時は、『すなねこ』の手を借りて、椅子に座りなおした。そして、お面を外した。その下から現れた顔は、火照っている。先程のような羞恥の火照りではない。全力疾走のあとのような火照り方だ。息も荒く、額には汗がにじんでいる。


「時ちゃん、大丈夫?」


 『すなねこ』が心配そうに声をかけた。お時はうなずいた。しゅうしゅうと音を立てていた右腕は、見てみれば特に変わった様子はなく、もう落ち着いている。怪我をしたわけではないらしい。お時は居住まいを正し、前に向き直って、言った。


「目の前に……たくさんの黒い棒がありました。その向こうは薄暗くて、篝火だけがぼんやりと照らしています。そしてただ座っています。お尻は冷たく、手には小汚い毛布を握りしめています」


「黒い棒?」と『すなねこ』が眉をひそめて訊いた。


お時は頷いた。


「右腕を抑えてたけど……その子、怪我でもしてるの?」と『すなねこ』がさらに訊いた。


「右腕には」お時は、そこで、わずかに顔を歪めた。言いにくそうに、目を伏せた。「右腕には、罪穢れがあります」と続けた。


『すなねこ』が押し黙る。どういうことか理解が全く及ばない正義も、その雰囲気にのまれて、何も言えずに固まった。


「誰か人はいた?」と『すなねこ』がまた口を開いた。


「いいえ、人影は見えませんでした。寒くてじめじめしていて、ただ心細くって」


 お時の声は消え入りそうに細くなる。正義は、お時が伝えてくれているのは、どこかの光景らしいと気付いた。つまり、日向かなめの場所を調べてもらっているわけだから、かなめのいる場所を伝えてくれているのだ。


「そっか。罪穢れがあるっていうことは」


「ええ、囚われているかと」


『すなねこ』は落としていた視線を上げ、正義を見た。その顔は浮かない表情をしている。


「日向かなめさんは、都の地下牢だよ」と『すなねこ』は言った。


 お時は、申し訳なさそうに、肩身を狭くして、まだ視線を落としていた。正義だけが一人ぽかんとしていた。


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