7.忘れた名前
胃がよじれそうだ。意地を貫き通すのもそろそろ限界かもしれない。あの天狗の看守は未だにかなめが伝えた料理を持ってこないから、かなめは今朝から何も口にしていない。かなめがあまりに生意気な口をきくため、連中も「そんなにわがまま言うなら餓死すればいい」という考えにようやく至ったのかもしれない。それなら望むところだが。――望むところの、はず。かなめは唇をかんだ。小汚い毛布を握りしめた。でもやっぱりお腹がすいた。この空腹には耐えられそうにない。でも今更何でもいいから持ってきてください、なんて言うのは格好が悪すぎる。泣きたい。
こつこつ、と足音がした。やっと来たか。あのいけすかない天狗の看守がやっと来た。かなめは、虚勢を張る準備をした。全くむかつく天狗のお面の男だ。あの偉そうな喋り方がいけ好かない。
鉄格子の向こう、影が現れた。かなめは顔を上げ、固まった。
人の顔があるべきはずのところに白い頭骨があった。尖った二つの耳に細く長いその輪郭。人の頭ではない。犬とか、狐とかそういう獣だろうか。どうしてそんなものを顔に? かなめはぞっとした表情のまま、その異様な頭骨を見て固まっていた。
獣の頭骨がしゃがんだ。そして白い手が伸びたかと思うと、頭骨は外され、奥から男の顔が現れた。色の白い、ほっそりとした顔立ち。かなめよりも少し年上だろうか。端正な顔立ちだが、横に長く切れた瞳に冷たい光を感じて、かなめは視線を逸らした。
かなめと目線の高さを合わせたその青年が口を開く。
「ここの飯はそんなにまずい?」
想像していたよりは、優しい声音で青年が言った。かなめは言葉を返す。
「うん、まずい。すごくまずい」
かなめの率直な感想を、青年は黙って聞いている。かなめは続けた。
「げろみたいな味がする」
そう言って、ちらと見れば、青年はなぜか微笑んでいる。
「口が悪いね。あの看守が言ってた通りだ。わたしたちをわざと困らせてるんだろう」
やけに落ち着いた調子で青年はそう言った。どうも今までの天狗たちとは違う対応だった。今まで来ていた天狗の男だったら、「罪穢れのくせになんて口のきき方だ!」ときーきー声で言うにきまっていた。――なんとなく調子が狂う。
「……別に。本当にまずいからまずいって言ってるの。どうしてあたしが、食べ物を食べないと、困るの? あなたたちには関係ないことでしょう」
「関係が無かったら、こんなところに君を置いておくわけがない。でもまあそんなことより」
青年は言葉を切った。かなめは青年がじっと自分を見つめているのを感じ、落ち着かない気持ちになって赤い毛布を触った。
「先に空腹を満たした方がいい。そうしたら君の苛々も少しはおさまるだろう」
「イライラなんてしてない。お腹もすいてない」
かなめのつっけんどんな言葉を、青年は受け流し、言う。
「本当は、君が食べたいと天狗に伝えたものを持ってきてあげたかったんだけれど。きみが挙げた料理はわたしの知らないものばかりで、用意するのは難しくてね」
青年がそう言うと、ふいに食欲を掻き立てるいい匂いがかなめの鼻腔をくすぐった。お腹がぐうと鳴った。口内に涎が出る。ちらと鉄格子の向こうを見れば、どこから現れたのだろう、お椀から白い湯気が立ち昇っている。食器用の小さな戸口がぱたんと開き、こちらに差し入れられる。白いお粥の上、細かく刻まれた緑の葉と赤い香辛料が浮いていた。
今まで天狗が運んできていた、ぱさついた料理とは大違いだ。かなめは、礼も言わず、青年の顔も見ずに、お粥を手に取った。無心になって、お粥を胃の中に落とし込んだ。今まで口にした何よりもおいしい。ただのお粥なのに。いったいどんな調味料を使っているというのだろう。食べ終わると、身体がじんわりと温まった。
青年がこちらをじっと見ていることに気づき、かなめは少し恥ずかしくなった。あまりに食べることに夢中になってしまった。
「ありがとう」とかなめはぶっきらぼうに言って、食器を返した。
「あなたが料理を作ったの? そんな変な服装じゃ、とうてい料理なんてできそうに見えないけど」
かなめは、青年の奇妙な服装をからかいたくて言った。青年は、かなめが神社に行ったときに見るような、一昔前の偉い人が着るような白い着物を着ていた。
青年はかなめの言葉に、ぴくりとも表情を動かさなかった。まるでかなめの言ったことなど聞こえなかったかのように、ただ落ち着いた声で言った。
「右腕の痣を見せてごらん」
「どうして」
かなめは反射的に右腕を隠そうとする。なぜ、ここの人たちはこの痣にそんなに執着するのだろう。この痣が一体何だというのか
「その痣は悪化すると、君の命に関わるから」
命に関わる? かなめは、口元に薄笑いを浮かべた。
「そんなの嘘でしょう。信じない」
「嘘じゃない」
「嘘だ。あたしのこと馬鹿にしてるんだ」
「こんなことで嘘をついてこちらに何の得がある。それは罪穢れと言ってね、一種の病気なんだ。君をここに閉じ込めているのも、それが理由だ。罪穢れが大きくなると、君だけじゃなくて、周りにも悪影響を与える。だから、それが消えるまではこの牢屋から出してあげることができない」
青年の静かな、諭すような口調は、出まかせを言っているようにはきこえない。言っている言葉の意味も理解できる。しかし、まるで異国の言葉を聞いているように思えるのはなぜだろう。
悔しさからか、ふがいなさからか、かなめは泣きたくなるのを感じた。
「その痣は、ただの病気じゃない。うつし世の呪いなんだ」
「訳が分からないことばかり言わないで。うつし世って何なの」
「君がここに来る前にいた土地のことだ。愚かで、醜い、汚らわしいところだ」
青年の口調は相変わらず落ち着いていた。使う単語が激しい割には、あまりに落ち着きすぎていて奇妙に感じるほどだった。青年は広く開いた袖のうちで手を組み、かなめをじっと見ている。――その眼差しの冷たいこと。
『ここに来る前にいた土地』ときいて、かなめの胸の内に嫌な感情が湧く。嫌な情景が蘇る。確かに、今まで生きてきた人生、思い出したくないことはたくさんある。けれど。
かなめは熱を持った目を瞬いて、右腕の袖をまくり上げた。その不気味な紫色の痣は、右腕の手首から肘の辺りまで広がっていた。昨日はこれほど大きくなかった気がする。少しずつ大きくなっているのだろうか。かなめは不安げにその痣をさすった。青年がそれを見て、言う。
「それくらい大きいと、痣が消えるまで、少なくともあと十日はかかるかな」
「ふうん。じゃあ、あたしはあと十日間もここに閉じ込められるんだ」
正直、十日だろうと二十日だろうとかまわなかった。勝手にしろ、と思った。
「いや、早く落とす方法もあるんだ。君がここの食べ物を三食きちんと食べること。ここの食べ物には浄化作用があるから。あとは、そうだな」
青年は目線を一度落とし、何かを思案するような様子を見せると、またかなめと視線を合わせた。その冷たい光に、かなめは射すくめられるような気持がした。しかし、目を逸らすのも負けたような気がして嫌だった。
「君は、うつし世での名をまだ覚えているか」
「な?」
「うつし世での名前」
「名前? そんなの……もちろん、覚えてるに決まってるでしょう」
また馬鹿にされているのだろうか? 名前など忘れようがない。日向かなめ。
「両親の名前は?」
「馬鹿にしないでよ」
「じゃあ、君の友人の名は思い出せるかい」
「友人?」
かなめの胸に一人の男の子の顔が浮かんだ。知り合って日は浅いけれど、学校で一番心を許していたのは、確かに彼だった。それまで仲が良かった子とは皆疎遠になってしまったから。だから、彼だけが唯一話していて楽しいと思える相手で、朝起きて顔を洗う時も、今日は彼と話せるかな、と考えると少し気持ちが明るくなった。少し垢ぬけていないところがあるけれど、すぐ困った顔になったり、顔を赤くするところがかなめは好きだった。そう、彼の名前は――正義くん。格好いい名前だな、と話す仲になる前から思っていたのだ。彼の苗字は、
かなめの背筋がひやりとした。苗字は何だったろうと一瞬考えた自分がいた。そうだ、田中。ほら思い出せる。ちゃんと覚えてる。ほんの一瞬、あれと思っただけだ。
「……変なこと言わないでよ。忘れるはずがないでしょう」
「そうか。それは残念だ」
青年が目を細めた。かなめのことを冷淡に、観察している目だ。
「これは意識しようと思って出来ることではないから難しいけれど、なるべく早く、君自身の名を忘れるようにしないといけない」
冷たい目の青年は言った。
「名前は、君とうつし世との繋がりだ。その名前を思い返す度、君はうつし世のことを思い出す。その名前を人から呼ばれると、呼ばれる度に、うつし世のことを思い出す。うつし世のことを思い出すと、君のその痣は、罪穢れは少しずつ広がっていく。罪穢れは、うつし世の呪いだからね」
青年は、まるで常識を話しているかのように淀みなく言葉を繋げた。
「うつし世でのことは全て忘れないといけない。まずは名前からだ。そして、ここでは全く別の名前を名乗ることだ。ここのものは、皆そうしている」
かなめは青年の顔をまじまじと見た。その顔からは何の感情もうかがえない。顔立ちが整っているだけに、まるで機械人形みたいだ。
おかしい、とかなめは思った。やはりこの男もどこか狂っている。偉そうな天狗のお面の男と一緒だ。あの男よりは、穏やかな口ぶりで、話を分かってくれそうな気がしたけれど、気がしただけだった。名前を忘れろだって? そんなことやろうとしたって、できるはずがない。だって、その名前と一緒に十五年間、生きてきたのだ。
かなめは目に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。目を伏せたまま言った。
「そんなの、知らない。その訳わからない呪いが広がっても、あたしは構わない。ここにずっと閉じ込めておいたらいいじゃない。あたしが死んだって誰も悲しまないし」
青年は黙っている。かなめは顔を上げて、その表情を見る気になれなかった。どうせ感情のない人形のような表情をしている。しばらくして、青年が口を開く。
「すぐに受け入れるのは難しいだろう。だから少し時間をおいて、考えてみるといい。新しい名は、わたしの方で何か用意するよ」
青年は立ち上がった。なんとなく悔しくなって、かなめは呼び止めた。
「じゃあ、あなたも、本当の名前を忘れたの?」
「ああ、もちろんだ。うつし世での名は覚えていない。今は、禰木という名だ」
ねぎ? 変な名前、と思った。
「ださい名前」と言って、かなめは鼻で笑った。禰木というらしい青年は相変わらず、全く取り合う気色を見せない。かなめは食い下がった。
「そんなこと言っても、本当は覚えてるんじゃないの? 生まれてからずっと呼ばれていた名前を忘れられるはずない」
「いいや、覚えていない。そもそもうつし世のことは何一つ覚えていない」
「馬鹿言わないでよ。どんなに嫌なことがあったとしても……都合よくそんな綺麗に忘れられるわけない。まるでごみ箱に捨てるみたいにそんな簡単に」
青年の眉がぴくりと動いた。かなめは初めて、青年の反応に血の通ったものを見た気がした。
「じゃあ、本当に忘れたくないかどうか、君の胸のうちにもう一度聞いてみたらいい」
青年が突き放すように言う。胸のうちにきく? かなめはその言葉の意味を反芻した。それで言い返しそびれた。青年が続けた。
「君のその痣は呪いだよ。広がれば、君はもっと苦しむことになる。君だけじゃない。この土地の人々にとって、その呪いは毒なんだ」
青年は一呼吸おいて、さらに続けた。
「あまり脅すようなことを言いたくはないけれど、その痣があまりにも大きくなれば君は処分されることになる。あるいは処分されるよりももっとひどいことになる。それが何かまでは、言わないけれど。対処が可能なうちに私のいうことを聞き入れた方が君のためだよ」
言い返す言葉を思いつかずかなめはうつむいた。膝から下にまきつけた薄汚い毛布を握りしめた。青年が去っていく足音が聞こえる。感情のないその男の心が伝染して、かなめの心も空虚にむしばまれていくような気がした。気が付けば涙も引いていた。
◇
路地から出て、少し広い通りに出てからは、両手で顔を覆いながら歩いた。見廻りの天狗に見つかって、また表情のことでいちゃもんをつけられたら厄介だからと謎の少年が言ったからだ。
正義は謎の少年の後ろを歩きつつ、指と指の隙間からその奇妙な土地を観察した。車はない。個性のない民家が並んでいる。建物や人の服装からは、どことなく古い匂いがした。全体的に色味に欠けた、灰色と茶色の景色。緑は少なく、寒々しい枯れ木ばかり。そして時々すれ違う道行く人は顔を鎧で覆っている。正義の近くをすれ違った人の何人かが、両手で顔を覆う正義を不審そうに眺めるのを感じた。――鎧の奥で瞳だけが活きている。
謎の少年は『すなねこ』というらしかった。明らかに本名ではないけれど、この土地では、便宜上そう名乗っているのだという。『すなねこ』はこの奇妙な土地にもうずっと住んでいるのだと言った。帰ろうと思えば、帰れないこともないのだけれど、ある事情があって帰れないのだと『すなねこ』は言った。事情を聴こうとすると、彼は言葉を濁したから、その事情については詳しくきけなかった。
「でも、僕は崖から飛び降りたけど――自殺したわけじゃない」
「うん。まあ、たまにそういうやつもいるな。いなくなった誰かを追いかけて、気が付いたらここにたどり着いてたんだろ?」
正義はつばをごくりと飲み込んだ。この不思議な少年は何でも知っている。
「その追いかけてきた子って、好きな子とか?」と『すなねこ』が尋ねた。
「どうして分るの?」
「それくらい分かる。すぐ顔に出るからな、田中正義は」
『すなねこ』はなぜか、正義のことを「田中正義」とひとかたまりで呼んだ。不自然だけれど、訂正する必要も感じなかったからそのままにしておいた。黙って、『すなねこ』が怪我の手当てをしてくれるのに身を任せる。ちょっとした擦り傷なのに、ガーゼがぐるぐるとまかれた。
二人は小汚い二階建ての建物の一室にいた。その中に入って初めて、正義は両手で顔を覆うのをやめることができた。少年も涙の跡の残るねこのお面を外し、素顔をさらした。
その建物の柱はどれも黒ずみ、壁の塗装は半分以上が剥げている。半分以上が空室で、建物の主人も存在していないが、昔は宿屋として使われていた面影のある建物だった。『すなねこ』はここで寝泊まりをしているのだという。
少年はこの土地の仕組みのようなものについて簡単に説明してくれた。激しい感情を表すと、天狗に「表情罪」という罪で逮捕される。天狗は都で働く警察のようなもので、《金色に燦き渡る太陽の君》という人の命令に従っているらしい。《金色に燦き渡る太陽の君》は城のてっぺんに住んでいて、人々が平和に過ごせるようにいろいろなきまりをつくっているんだとか。
怪我の手当てが終わると、今度は、『すなねこ』は正義の鞄を物色し始めた。鞄は正義が逮捕されそうだった時に足元に転がっていたらしい。正義は鞄の存在などすっかり忘れていたが、『すなねこ』はしっかりとその鞄を掴んで走っていたという。気が動転していたため全く気がつかなかった。
「それって本当に何か役に立つ?」
「役に立つって言うか、お金になるんだ」
そもそも『すなねこ』が天狗の注意をそらし、正義を助けた本当の目的は、人助けではなく、正義の持っていた鞄にあったらしかった。
「人助けが趣味なんだといいたいところだけれどさ」と言って、『すなねこ』は笑った。笑うと、ぴょこんと八重歯が覗く。
「うつし世からの持ち物は、闇市で高く売れるんだ。一部のマニアが集めてたり、うつし世を懐かしく思う人が高く買いとったりするから」
『すなねこ』はうつし世から来た人の、私物を売ることで、お金を稼いでいるのだという。悪く言えば、泥棒だった。しかし、私物を売りさばく代わりに、うつし世から来たばかりで右も左も分からない人に食べものや宿を提供して帳尻を合わせているらしい。だから泥棒と言うのは言い過ぎかもしれない。『すなねこ』は、がそこそと正義の鞄の中を興味深そうにあさっている。
「あ! これは高く売れる!」
そう言って鞄から取り出したものは、漫画本だった。日向かなめから借りた少女漫画。返そうと思って鞄に入れたままだったのだ。
「そんなのが高く売れる?」
「うん。うつし世の漫画、特に少女漫画はかなり高く売れる」
「少女漫画が? どうして?」
「少女漫画には恋愛が描かれてるからさ」
正義が不思議そうに眉を寄せるが、その様子に『すなねこ』は気づいた様子がなく、まだがさごとそと鞄の中を見ている。そして一つずつ、床に並べ始めた。
「それにしても眼鏡を壊されたのは痛かったな」と『すなねこ』が独り言のように呟いた。
ハンカチ、ティッシュ、教科書、ノートというとりたててなんの面白みもないものたちが床に並べられた。『すなねこ』はまるで古代の遺物を見るかのようにしげしげと見ていたが、やがて満足したのか、暇そうにしている正義に向き直った。
「そのクラスメイトに会いに行きたいだろ?」
正義は、頷いた。「じゃあ、いくつか教えとかないとな」と『すなねこ』は続けた。
「なにより恐ろしいのはさ、時の流れだよ。ここは、独特な時間の流れ方をする。ここにいる間は成長しない。老けることもない。季節の移り変わりもないし、雨も雪も降らない。時が止まってるんだ。それなのに、一日いるだけで、十日もいるような感じがする。ここに長くいればいるほど、もといたところに帰ろうなんて言う気持ちは消えていく。お前が、その子を見つけ出したいという気持ちだって、たぶんだんだん薄れていく」
正義は黙って聞いていた。手の甲はまだところどころ赤く、つねった跡が残っていた。心のどこかでは、まだこれは夢なのではないかと思っている。
「おれは買っていた犬の名前を憶えていないんだ」と『すなねこ』が言った。
「犬の名前?」と正義がきく。
「うん。すごくかわいがっていた気がするんだけど、どうしても名前を思い出せない」
正義は『すなねこ』が帰りたいけど帰れない事情があるといっていたことを思い出した。そして、この土地に来た人は皆、自ら命を絶った人であるということを考えた。どうしてか、そのことをさらに追求するのはためらわれた。
「この土地には一日でも長くいたらいけない。帰りたいという気持ちなんてすぐなくなる。そういう変な空気が流れてるんだ」
『すなねこ』が強い口調でそう言った。正義の瞳をまっすぐ見て、そう言った。
「だから大切なことは、紙に書いておいた方がいい。その時の気持ちを、思い出せる記憶を紙にとどめておくんだ。ほらここにちょうど田中正義が持ってきたノートとかペンがあるし」
見れば確かに床に、ノートとシャープペンシルが並べられていた。
それから『すなねこ』はこの土地で生きていく上での注意点のようなものをいくつか教えてくれた。それから、明日はどこに行って何をするのかということも話した。正義はまだ夢なのか現実なのか半信半疑の気持ちで、『すなねこ』の話を聞いていた。――明日は、日向かなめを探すために、人探しをしてくれる人物に引き合わせてくれるらしい。
会話が終わり、『すなねこ』が出ていく。正義は一人部屋に残された。目をつむった。目をつむると、またあの情景を思い出す。
寒空の下、手を差し伸べた記憶。考えてみれば、あの日を境に自分の生活は変わったのだ。あの日を境に、自分の閉じられていた世界――虚構の世界に浸っていた自分は、周囲に開いていったのだ。人の痛みに、人の喜びに目を向けるようになった、そして、あの華のような笑顔を見た時から、それまで白黒だった世界にぱっと色がついたのだ。
正義はその感情を、紙に書いた。『すなねこ』に言われた通り、書き残しておいた。きちんと言葉にすることで、思いがふくらんでいくような気がした。
あの時、助けられたのは、かなめのほうではなく自分だったのかもしれない――そんな奇妙な考えを抱きながら、正義は夢の世界にいざなわれていった。




