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欠けた月の夢を見る  作者: 秋野
6/13

6.崖の下の奇妙な土地

 カーテンの隙間から朝日が一筋差し込んで、眠る人影の頬に当たった。ベッドの中、少女がまぶしそうに顔をしかめた。身じろぎをした。むにゃむにゃと口が動き、その瞼が開いた。もう朝か、と思った。昨日と何も変わらない時が流れているのかを思うと胸の内が憂鬱な気持ちでいっぱいになった。

 

 ベッドから出る気にもならず、少女はぼんやりとしていた。男の子のように短い黒髪の少女だった。くりくりした大きな黒い瞳と血色の好い丸い頬のためか、実年齢よりいつも幼く見られる。口を開くと、ぴょこんと八重歯が覗くのも子供っぽくみられる理由の一つかもしれない、と少女自身は考えている。

少女はベッドから出ないまま、心地の良い夢を見ていたような気がするなと思った。親しいものと一緒にいたような温かい気持ちが胸に残っている。

 

 温かい気持ちをもう一度掴みたくて、夢の内容を思い出そうとしても、だめだった。伸ばした手からするすると逃げるように、夢は急速に色あせていった。ただ親しかった男の子が自分の名を――紫苑という名を呼んでくれたような、そんな気がした。

 

 心の中でため息を吐く。胸がぎゅうと苦しくなる。

 

 せっかくいい夢だったのに、と名残惜しくなって、もう一度布団をかぶって眠ってしまいたくなる。しかし、また眠っても同じ夢を見ることはできないだろうな、と思った。重い頭をおこして、ベッドから出た。陰鬱な気持ちを振り払うように、少女は頭をぶんぶんと振った。

机の上に置かれている、古びたノートをちらりと見た。そう言えば昨日、寝る前に、このノートを久々に読み返したのだった。それをリュック・サックにしまう。

 

 そのリュック・サックは背負うと少女の肩から背中全体を覆うくらい大きい。それがいまやものがいろいろと詰め込まれてぱんぱんになっていた。

 

 少女はかがんで、そのリュック・サックをがさごそと探った。このリュック・サックにはある峠を越すために必要なものがぎゅうぎゅうに詰まっている。


 まず、錆びた短剣がある。鈍い輝きを放つ刃。錆びのためところどころ茶色くなっているけれど、まだ切っ先は鋭い。指でつつくと、血が出そうだった。鞘にしまう。

それから、他には――継ぎはぎだらけの上着がある。かさばらないように丸めて、紐できつく縛ってある。一見汚らしいその上着を、顔に近づけて匂いを嗅いでみる。異臭はもうほとんどとれていることを確認する。

あと――手にごつごつした硬いものが当たった。取り出すと、黒い歪な形をしたマスクがある。これは瓦斯マスクというらしい。有害なものを肺に取り込むのを守ってくれるときいた。実際にかぶってみると、少し大きく首の上でぐらぐら揺れるのが不安だった。でも贅沢は言ってられない。


 それとあともう一つ。少女は手を伸ばし、奥の方に埋もれていた光るものを掴むと、掌にのせた。羅針盤。三日ほど前にゴミの中から見つけたのだ。黄金色の円の中で、針がゆらゆらと揺れている。少女はその針の揺れが止まるのを、ぼうっと見つめた。こんな小さくて綺麗なものが、行くべき場所を示してくれるとは、なんて心強いだろう。針が止まるのを見届けると――針は昨日と同じ窓の方向を北と指示した――羅針盤をリュック・サックにしまった。

 

 これで、準備は出来た。

 

 立ち上がり、かろうじて結えるくらいの髪を一つに束ねる。胸には白い布をぐるぐると巻いて固定した。そうすると少女はまるで少年のようになる。もともとやや凛々しすぎる眉の為か、「おれ」なんていう一人称を使えば、皆、少女のことを少年と間違える。そうして勘違いされても、少女は否定しなかった。少女でいるよりも、少年であることの方が都合のいいことが沢山ある。


 それから、ベッドの枕元に置いていたお面を手に取った。大きな耳がついていて、二つの目のところだけくり抜かれている。くり抜かれた二つの穴から、茶色い筋が涙の跡みたいに横に伸びている。『すなねこ』のお面。


 それは人に醜い表情を見せないために、つけるものだった。怒ったり泣いたりそういう醜い感情を外に出さないために付ける鎧だった。少女は軽い足取りで階段を降り、外に出た。明るい光に目を細める。『すなねこ』をつける。大きな二つの耳を揺らし、少女は歩き始めた。


 ◇


 母親を呼んでいる。「ママー」という声が聞こえる。「ねえ、ママー、見て見て」という無邪気な声が響く。いったい何を見せようとしているんだろう。

 

 温かい夏の日差しの中、正義は虫かごを覗いている。中には、大きな飛蝗がじっとしている。大きな黒い目と突き出た二つの長い触角が不思議だった。「ねえ、ママー、見て見て」と言っている。「ヒーローなのに全然格好よくないね」と不思議そうに母親に同意を求めている。母親は困ったように笑って、「格好いいからヒーローになれるわけじゃないでしょう」と言った。


 「ママー、ママー!」


 正義は目を開けた。なぜか自分の声のように感じていた「ママー」という声は――あたりまえだが自分の声ではなかった。正義のすぐ近くに男の子がいた。その幼い声は「ママぁ、これ、なあに?」と言っている。その男の子は、どうしてだろう、正義の眼鏡をつまんでいる。レンズの大きな黒縁眼鏡だ。――男の子の顔は歪なものに覆われていて、表情は見えない。


 意識が少しずつ覚醒してくる。どうやら自分はうつぶせに倒れているらしい。そして眼鏡を落として、それを男の子が拾ってくれたということだろうか。「これ、なあに」ときいているということは、男の子は眼鏡が何かも分からないということだろうか。


 男の子の視線の先には、女性が二人、話し込んでいる。どちらかが男の子の母親なのだろうが、どちらも男の子には注意を向けず、話に夢中になっている。


 奇妙だった。


 正義はまばたきをした。目を擦った。もう一度目をぎゅっと閉じて、開けた。相変わらず奇妙だった。男の子も、その視線の先の二人の女性も、顔に何かつけている。何を模しているのか分からないが、奇抜な――お面をつけているように見えた。そのため表情が一切うかがえない。


 正義は立ち上がって、周りを見回してみた。目の前には民家のようなものがいくつかあって、その間に露店が沢山並んでいる。「はーい! 寄っていらっしゃい見てらっしゃい!」という威勢のいい声が聞こえる。

 

 正義は道行く人々を見た。その顔を見た。皆、顔に何か歪な形のものをつけている。誰一人として表情が見えない。露店の人も露店を覗き込む人もただ歩く人も皆、顔に奇妙なものをつけている。それでいていたって平然とした様子でいる。


 今日は、この通りは――祭りか何かだろうか。


 今目の前を通り過ぎた人は口元のとがった黄色いお面をつけていた。頭の上に耳が二つ。その次に通り過ぎた人は、豚のような鼻をしたお面をつけていた。また、頭の上に耳が二つ。それに、その次の人の顔は――お面と言うのだろうか。頭のてっぺんからから顎のところまで真緑で覆われていた。頭の上に耳はない。奥の露店でしきりに声を張り上げている人を見れば、その人は、かろうじて人の顔をしている。けれどよく見ると、口が耳元まで裂けた口裂け女の顔をしている。やはり素顔を奇妙なお面で覆っている。

正義は呆然と見つめていた。きっと今日は、こういうふざけたお祭りなのだろう。お面をつけるのが習わしなのだろう。


 あれ、と思う。確かに自分は、崖から落ちたはずだった。こんなところで何をしているのだろう。いったいここはどこだろう。

 

 それに暮れていたはずの日が――まだ落ちていない。太陽はまだ空にある。

 

 胸がざわついた。まるで白昼夢を見ているような。


「ねえ、ママぁ、この人起きたよ」


 正義の眼鏡で遊んでいた男の子がそう言った。


「こら! 近づいちゃダメって言ったでしょう!」


 立ち話をしていた女性の一人がようやく男の子に注意を向けた。そして近づいてくると、子供の手をむんずとひいて正義から逃げるように去っていった。無機質な鎧の奥、唯一表情がうかがえる瞳は正義に対する敵意に光っていた。


 正義は訳が分からず、呆けたようにしばらくそこに突っ立っていた。状況が全く飲み込めない。こんなことは初めてだった。しばらく、目のまえの道行く人々をぼんやりと眺める。子供でもないのに、縁日で買えるようなお面を、大の大人がそろって顔に付けているのはやはりおかしかった。祭りでなければ、これは奇妙な宗教団体だろうか。


 不思議な足音が響いてきて、目を向けた。見れば――祭りの見世物だろうか。神輿がこちらへ揺られてくる。小さな子供たちに担がれて、揺られているそれは形と大きさを見れば神輿に見えるのだけれど、神輿にしては色が黒過ぎた。記憶の中の神輿は、確か金色に光っていたはずだからあれは神輿とは少し違うのかもしれない。


 黒い神輿がだんだんと近づいてくる。正義はその異様なものから目をはなせない。


 神輿の前後を挟むようにして、それを担ぎ上げる小さな子供たちが歩いている。皆黒い服を着て、顔をフードで覆っている。それもおかしかったが、さらにおかしいのは、その子供たちをさらに挟むように前に一人、後ろに一人、天狗のお面をつけた男が歩いている。真っ赤な顔の、鼻が細く飛び出たその顔は天狗にしか見えない。その天狗男が右手に黒い槍を持っていて、歩く度にそれが、かつんかつん、と鳴っている。


 いよいよ近づいてくる。かつんかつん、と音は大きくなる。道行く人々は特に気に留める様子もない。ただ黒い神輿が通れるように、道をあけるくらいである。黒い神輿はちょうど正義の目の前を通り過ぎようとしていた。神輿の中が見えた。それはやはり神輿などではなかった。黒い箱の両側は格子状になっていて、内部が見えるになっていた。

 

 神輿の中、両手と両足を拘束された男が一人、汚い身なりで座っていた。まるで罪人を見世物にしているかのよう。その男は、素顔をさらしていた。おかしなお面で顔を隠してなどいなかった。正義がじっと見ていると、男は顔を上げ、一瞬、正義と眼が合った。その眼には、悲痛があった。疲れが滲んでいた。助けてくれと言っていた。


 正義はこの奇妙な団体の中で、唯一、まっとうな人間を見つけることができた気がして、「あ」と声を発した。喉から勝手に音が漏れたのだ。

 

 かつんかつん、という音が止まる。神輿の動きが止まる。正義の目の前で、ちょうど止まった。後ろを歩いていた天狗の一人が「あ」の声の出どころを探るように、首を動かし、こちらをじろりと見まわした。急に心臓が早鐘を打ち始める。正義はうつむいた。天狗たちが立ち去る気配はない。


 顔を上げると、天狗の両目は、はっきりと正義のことを見つめていた。恐怖で喉がきゅっとしまって、頭が真っ白になった。

 

 異様な空気の中、槍を持った天狗男の一人がこちらに歩いてきた。道行く人の数人も足を止めて、正義のことをじっと見ている。無機質な鎧に覆われた奥、瞳だけが怪しげな光を放っている。怪しげな光たちは一心に、正義の顔へと注がれている。


 天狗男のお面は間近で見ると迫力があった。黒々とした太い眉、勢い余った太い鼻髭。そして唯一人間らしさが垣間見えるはずの、活きた瞳は、ぎょろぎょろと正義のことを上から下まで舐め回すように探っている。


「名前は?」


 天狗が声を発した。太く野太い声だった。


「え、えっと」


 答えなければいけないのだろうかと思い、正義は口ごもった。視線を天狗以外に目を向ければ、歩を止めた通行人たちが皆、相変わらず正義のことをじいっと見つめていた。首筋を冷たい汗が伝う。逃げられない。


「た、田中、正義」


 もう一人の天狗男が懐から紙を取り出し、何かをチェックし始めた。そして、田中正義という名前が見つからなかったのだろうか。首を横に振った。それを見て、もう一人の天狗男が地面に転がっている眼鏡を見ると――片足を上げ、その眼鏡を踏みつけた。ぱきん、という軽い音がして、足の下から、割れたレンズ、曲がったフレームが現れた。正義の顔が驚きと怒りで歪んだ。


「な、なにを……!」


「田中正義、貴様を逮捕する」


 感情のうかがえない機械のような声を天狗が発した。


「た、逮捕? 逮捕って……どうして」


「ヒョウジョウザイ」


「ヒョウジョウザイ?」


「イカリをアラワシタ」


「……は?」


「ゆえに、サイキョウイク」


「サイキョウイク?」


 いったい天狗男が何を言っているのかまるで分からない。分かったのは逮捕という単語だけだった。聞き間違いであってほしかったのだが、天狗男の手に持っている、銀色に鈍く光る丸い二つの輪っかを見る限り、聞き間違いではなかったらしい。天狗男が手錠の輪っかをぱかりと開ける。正義の両手首を力強く掴み、ちょうど手錠がかけられるように――


 どこかで悲鳴が上がった。ぱちぱちという火花の音がきこえた。見れば白い煙がどこからか立ち込めて、通りの視界を白く濁らせていた。


「何事だ?」


 二人の天狗男は煙が発生した方を振り向いた。男の手錠をかけようとした手が止まる。足を止めていた通行人も皆、顔をそちらに向けていた。完全に気を取られている。

 

 その時、正義の袖を誰かがひいた。耳元で声がした。


「こっちへ!」


 見れば、いつの間に近づいていたのか、見知らぬ少年が正義の服を引っ張っていた。「早く!」と再び小声で正義を急かした。正義が「君はだれ?」という間を与えずに、少年は正義の腕を掴み、無理やり走らせた。大きな通りからそれた小道の方へと正義を引っ張り込む。


「おい! 待て!」


 天狗男の一人が、正義が逃げたことに気が付き声を上げた。しかし正義を引っ張る少年は足が速かった。正義はほとんど引っ張られるようにしてついていった。足がもつれて転びそうになった。角をいくつも曲がり喧騒が遠のいていくのが感じられた。気が付けば騒がしい露店は消え、古びた民家が立ち並ぶ通りにいた。


 そうしてしばらく走り、薄暗い人気のない路地へと曲がったところで、少年が止まった。そこは家と家の隙間――人二人がやっと通れるくらいの細い隙間だった。なぜかひしゃげた提灯がぶら下がっていて、足元には枯れた植木が一つ転がっている。

 

 ぺたんと座り込み、荒い息を整えた。額に、背中に汗がじっとりと滲んでいる。足が馬鹿みたいに震える。


 正義をここまで連れてきた謎の少年の方を見れば、彼はしきりに通りの方を気にしていた。追手がやって来ていないかを確認しているらしい。


 立ち止まって改めてその少年を見る。正義より背が低い。細身で華奢な体躯。短い髪を一つに結っている。そして顔は――顔が見えない。先程の道行く人たちと同様、顔には無機質な鎧をつけている。頭には大きな三角の耳がついているから、ねこを模したように見える。正義がじっと見ていると、少年は振り向いた。穴の開いた目からは太い茶色い筋がすっと横に伸びていて、それがまるで涙の跡のように見えた。


「大丈夫? 怪我は?」


 謎の少年は尋ねた。


「怪我は……してないと思う」


 そう言った後で、自分の身体を見てみると、どこで怪我をしたのか、肘をすりむいていた。白いシャツに赤い血が滲んでいる。


「あとで手当てしてやる」と怪我を見た謎の少年が言う。怪我がたいしたことないと確認すると少年はまた通りの確認を始めた。追手が気になっているらしい。


「あの、どうもありがとう。助けてくれて」


 正義はお礼を言った。何から助けられたのかもよく分からないような状況だったけれど。しかし、あの奇妙な男たちは正義に向かって「逮捕する」という言葉を言っていたのだから悪い状況であったには違いない。勝手に眼鏡を壊されたりと散々だった。


 これは夢なんだろうか。現実のこととは思えないからきっと夢なのだろう。そうだ、だって眼鏡をしていないのに周りの景色がよく見えるからおかしい。やはり夢だ。それにしても夢ならそろそろ醒めていいはずなのになかなか醒めない。正義は目をごしごしとこすった。頬をつねった。手の甲の皮をつねった。


「何やってんの?」


 謎の少年が正義に尋ねた。


「いや、そろそろ醒めないかなと思って」


「醒める?」


「これ、夢だよね?」


「ユメ?」


 正義が黙っていると、謎の少年は「ああ、夢か」と呟いた。


「夢と思いたきゃ、そう思っててもいいけど。この夢からはなかなか醒めないよ」


「醒めない?」


醒めないとはどういうことだろう。謎の少年はそれ以上説明せずに、また心配げに通りの方を見つめ始めた。正義は視線を落とし、つねった手の甲の皮膚が痛々しく赤く変色しているのを見た。


「あの天狗のお面の人たちは警察みたいなものだ。お前が逮捕されそうになった理由は、怒りの感情を外に出そうとしたから。それもまあ、こじつけみたいなものだけど」


 謎の少年が顔を外の通りの方に向けたまま、そう言った。正義は黙って聞いている。今度は、左の掌の肉をつねってひねってみた。痛かった。


 「まず覚えなきゃいけないことは、この土地では、日の当たるところで素顔をさらしちゃいけない。怒ったり泣いたりの感情を表情によって表すことが禁じられているんだ。だから外に出る時は皆、お面とかで顔を隠すようにしている」


 つねったところで夢からは醒めないのだろう。夢の中で「痛い」と思って終わりだ。正義はつねるのをやめた。


「おかしな話だよな。怒った顔しただけで罰されるなんて」


 謎の少年が独り言のように呟いた。ふいにあのときの天狗の言った言葉がストンと頭に落ちてきた。ヒョウジョウザイは――そうか、表情罪か。その響きにぞっとした。


「お前、名前は?」


 名前を聞かれて、正義は謎の少年の方を見た。いつ外したのだろう。少年は無機質な鎧を外して、素顔をさらしていた。大きな黒い瞳に赤い丸い頬。少女のような可愛らしい顔立ちだった。声の高さからして、少年でなく少女なのかもしれないと思った。


「正義。田中、正義」


「へえ、せいぎってあの正義? 正義の味方の正義?」


「そう。その正義」


 正義はなんとなくばつの悪いような気持ちになって、視線を少年の瞳からそらした。


「すごく立派な名前だな」


 少年が追い打ちをかける。正義は名前の話はそれ以上したくなかったから、話を変えた。「ちょっと聞いてもいいかな」と言って、つづけた。


「これが夢じゃないなら、ここはいったいどこなんだろう」


「ここはある特別な人しか足を踏み入れることのできない特別な場所だよ」


 少年の言葉は要領を得ない。つまりどこなのだろう。地図でいうと、どのあたりになるのかが全く分からない。


「ここに来る前なにがあった?」


 少年が逆に尋ねてきた。


「何って、ある女の子を追いかけてて、その子にはなぜか顔がなくて、でもクラスメイトの仲がよかった子に似てて、それで」


「それで?」


「崖から落ちた」


「そう」


 正義の頭の中、一つの単語がぽんと浮かんできた。そうか。じゃあ、ここは――あの世。謎の少年が正義の心を見透かしたかのように、続けて言った。


「ここは、あの世じゃない。かといってうつし世でもない。かくり世って呼ぶ人もいるけど正式な呼び方は特にない」


「うつし世?」


「お前がここに来る前までいた場所のことを、現世とか、うつし世っていう」

 ウツシヨ。現世。正義は頭の中で繰り返したが、全くぴんと来なかった。本当にこれは夢じゃないんだろうか。それなりに面白かったけれど、いい加減醒めてほしい気がする。思いきりつねったため、痛々しい赤い傷がついた手の甲を見て、ぼんやりと言った。


「つまり……僕は死んだってこと?」


 少年は答えずに、少し笑った。乾いた笑い声だった。正義の首筋を嫌な感じのする汗がつうとつたった。


「まあでも、そんなに悲観することはないよ」


 正義の質問には答えず、謎の少年はただそう言った。追手が来ない、もう安全だと判断したらしく、少年は動き出す準備をしていた。正義もあとについていく用意をする。

歩き始めたとき、少年がふと「あ、そうそう。言い忘れてた」と言った。


「この土地に招かれる人にはある共通点がある」

 

 正義は黙って、嫌な予感を覚えつつ、言葉の続きを待った。


「この土地に招かれるのは、皆――自殺した人たちだ」


 その言葉は、どこか遠くから響いてきたようだった。そして、正義のことを頭からすっぽりと覆って重くのしかかった。寒空の下、ホームで手を伸ばしたときの、あの感覚を再び思い出した。掴んだと思った。引き上げようとして、手がするりと抜けた。あっと思って、さらに手を伸ばしても遅かった。日向かなめの小さな体がホーム下の闇にのまれていった。――正義はホームの淵に手をつき、ただ茫然と、真っ暗闇を覗き込んでいた。


 どこかで犬が吠えていた。はっとして、前を行く謎の少年のあとについていく。前を歩いていたから、その時少年がどんな表情をしているのか分からなかった。


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