5.すなねこの記憶-1-
手垢のついた古びたノートを開くと、そこには、ある少女の何気ない日常がつづられている。それは前置きもなく、こんなふうに始まっている。
六畳に満たない小さな部屋で、わたしは寝転がり本を読んでいる。その隣で、一人の男の子もまた、静かに本を読んでいる。男の子は、背をベッドにもたせて膝を伸ばして床に座っている。顔を真正面に上げると、その男の子の痩せた膝小僧が見える。斜め上に目をやると、親しい横顔が見える。あどけない、しかし年の割に大人びた眼差しの男の子だ。長い睫毛を伏せて、難しそうな本を読んでいる。休日だが、わたしの両親は二人とも出かけていた。わたしはその男の子と二人きりだった。
「ねえ、晃ちゃん」と呼びかけて、わたしは手を伸ばし、隣で本を読む男の子の袖を引いた。晃ちゃんと呼ばれた男の子は、ん、と返事をして、わたしの方をちらと見る。わたしは本に目を落としたまま、どれをきこうかな、と考える。晃ちゃんは自分が呼んでいる本に目を戻す。「ねえ、晃ちゃん」わたしは再び袖を引く。「何だってば」晃ちゃんは、もう一度わたしの方を見る。わたしは、晃ちゃんを見て本の上を指さし、「この漢字なんて読むの」ときいた。彼はちらと見て、その読み方を答える。「じゃあ、これは」わたしが別の漢字を指さし、きく。晃ちゃんがこたえる。わたしはページをめくる。「ふうん、じゃあこれは」「これは」「これもわかる?」わたしが指さす漢字に、晃ちゃんが淡々と答える。晃ちゃんが答えられなくて、困ったところが見たかったから、わたしは少しだけ面白くないと感じる。同時に、晃ちゃんはやはり物知りだなと感心する。わたしが知っている子の中で一番の物知りだ。
わたしの質問攻めが終わると、晃ちゃんはまた自分が読んでいた本に戻る。その本は、わたしが読んでいるものより、小さく分厚い。そのまま、しばらく、ぱら、ぱら、とページをめくる音だけがした。わたしは本を読むのに飽きてしまって、ぱたんと閉じて、そのまま瞳も閉じた。仰向けになって寝たふりをする。わたしは晃ちゃんと違って、細かい字を読む作業に慣れていない。すぐ疲れてしまう。辛抱が得意な晃ちゃんは、細かい字を飽きもせず、目で追っている。「紫苑?」と晃ちゃんがわたしの名を呼んだ。「寝たの?」わたしは返事をせず、寝たふりを続ける。しばらくしたら、勢いよく起き上がって晃ちゃんを驚かせてやろうと思いながら、寝たふりをする。部屋は冷房が効いていた。涼しくて気持ちがいいけど、少し寒い気もする。お腹が冷える。晃ちゃんが、どこからか毛布を持ってきて、それをわたしのお腹にかけた。わたしはなんだかくすぐったい気持ちがした。今にも、わっと飛び起きて晃ちゃんを驚かせてやろうか、と思いつつも、夢の国がわたしを吸いこもうとするのを感じていた。ぱら、という音がして、晃ちゃんが、また本を読み始めたのが、ぼんやりと分かった。
六畳に満たないその部屋は、まだ体の小さいわたしたちにはちょうど良かった。わたしと晃ちゃんは同い年で、最近、小学校に通うようになったばかりの年だった。窓からは、陽の光がさしこんでいる。その陽が傾くまで、わたしと晃ちゃんは、二人だけで時間を過ごしていた。
こんな日常があったことを、わたしは覚えていなきゃいけない。
このノートには、これからわたしの記憶をどんどん書き散らしていく。もしかしたら、ここに書かれたものの中には、正確でないものも少し交じっているかもしれない。残念だけど、わたしの記憶はあまり信用ができないから。
どうしてそんな風に思っているかというと、こんなことがあったからだ。
今日、わたしはたまたま道端で茶色い犬を見て、ああ、そういえばわたしもあんな犬を飼っていたな、と思った。確か小学校に入るころには死んでしまったけれど、確かに犬を飼っていたことを思い出した。白い犬だった。
その犬はアイスクリームが好きだった。散歩に連れていくと、草むらに顔を突っ込む癖があった。怪我して、一時期片足を引きずって歩いていたことがあった。そういったことを思い出せた。――けれど、その犬の名前を思い出せなかった。なんていう種類の犬だったのかも思い出せなかった。断片的に犬と過ごした情景を思い出せるだけだった。
今日たまたま犬を見るまで、そのことに気がつかなかった。だって犬を飼っていたという事実さえ忘れていたから。だから、犬のこと以外にも忘れていることがいっぱいあるのだと思う。でも、忘れていることに気が付かないから、何を忘れているのかわからない。
この世界にいると、記憶がどんどん抜け落ちていくみたいだ。わたしの記憶はきっと穴だらけだ。どう穴だらけなのかさえ分からないくらいきっと穴だらけだ。だから、ここに書く思い出は、きっとほんの一部だ。頭の片隅に残ったものを、ぽつぽつとまとめることしかできない。それでも、こうして書くことには意味はあるはずだと思う。なぜここに自分がいるのか、忘れちゃいけないから。




