4.現れたノッペラボウ
誘拐されたのだと思った。ここは怪しげな教団のアジトか何かで自分は人質だか生贄だか何だかで――それで囚われているのだ。ただおかしいのは、身体のどこも痛くないということ。怪我をしていないということ。血が出た痕跡も何もないということ。おかしいなと首をひねる。
確かに自分は飛び降りたのに。足を踏み出した時の、もう引き返せないという気持ち。安堵と後悔がごちゃ混ぜになった気持ち。そして風を切った感触。空が遠のいて、地面が迫って来ると感じた時にはっきりと思った。――あーあ。もう少し頑張ればよかった。
静寂を破って、かつかつと足音が響いてきた。気分が沈んだ。またあいつがやって来たらしい。あのいけ好かない、天狗のお面をつけた看守が。
「おい、罪穢れ! お前、また飯を全然食ってないじゃないか」
そいつは鉄格子の向こうで立ち止まり、きーきー声を出した。彼の足元には、かなめがほとんど手を付けていない料理が銀食器にのっている。
かなめは顔を上げて、その看守を睨みつけた。なぜかこいつはいつも顔にはおかしなお面をつけている。赤く、鼻がぬっと棒のように飛び出ている奇妙なお面。たぶん、天狗。
そういう決まりのある、いかれた団体なのだろう。
「だって食欲がないの。それにまずいし」
かなめは、疲れからか、投げやりな気持ちからか、普段以上に強気にこの天狗に対して接していた。
「いちいち、食べたかどうか確認しに来るのやめてくれる? あなたたち変なにおいがするの。ひょっとしたらそれで食欲が落ちるのかも」
鉄格子の向こうで天狗が地団太を踏んだ。
「その口のきき方は何だ。そこから出てきたらおぼえてろよ。まあその前にこのままだと、ここで飢え死にするだろうがな」
天狗はそう言ってせせら笑うと、鉄格子の隙間から食器を回収した。かなめは、視線を壁の方に向け黙っていた。
「おい、お前、何なら食べられる? 言ってみろ」
かなめは、壁の方を向いたまま、素っ気なく答えた。
「何もいらないって言ってるでしょ」
天狗が舌打ちする音が聞こえた。それからしばらくして、言った。
「おい、お前のために言ってやってる。何か食べないと大変なことになる」
かなめは壁の方を向いたまま、横目でちらりと看守の方を見た。天狗の面に覆われているから、その表情は見えない。ぬっと突き出している長い鼻が、嘘つきのピノキオの鼻のように思えて、腹が立った。こんな訳の分からない男、信用できるはずがない。
「大変なことになるってどういうこと? あなたがなるの? あたしがなるの?」
「お前が、に決まっているだろう!」
「大変なことって、どう大変なの。あたしがただ餓死するだけでしょう」
「うるさい、いい加減にしろ! 罪穢れのくせに」
「教えてくれたっていいじゃない。ねえ、さっきから罪穢れって何なの?」
「やかましい! そんなことお前に説明する気はない。ただお前が、これなら食えるという飯があるなら言ってみろと言っている」
かなめは少し黙って、考えた。正直に言えば、腹ぺこだった。しかし、お腹がすきすぎて、胃がねじれているような変な感じで、不思議と食べ物を見ても食欲がわかない。いつも鉄格子の向こうから出される食事は、一口か二口しか食べずに突き返していた。まずい、というのも本当だが、それより、食べないことによる抵抗の意味もあった。自分が食べないとなぜか天狗の看守たちはこうして困ったような反応をするのだ。抵抗して何の意味があるか分からないが、まあ、しないよりはましだろう。
「おい、どうだ。何か食いたいものがあるのか」
天狗がせっついた。せっかくだからこの天狗を困らせるようなものを、適当に注文してやろう。
かなめは思いつく限りの贅沢な料理をいくつか挙げた。高級料理店で一度食べたことがあるような、テレビで有名人が口にしているのを見たことがあるようなそんな料理の名前を挙げた。
自分で言っておきながら、本当に出てきても、わたしの方が戸惑うだろうと思った。
「は? なんだって?」
「なに? もう言ったでしょ。メモができたら、さっさと上司に伝えてよ。好きなもの何でも注文していいって言ったのはあなたでしょ」
天狗は小声で毒づくと――なまいきな女だ、罪穢れのくせに、とかなんとか―大人しく、去っていった。
天狗が去り、かなめは灰色の四角い空間に、また独りぼっちになった。右腕をさする。そこには、不気味な紫色の痣があった。蜘蛛の巣のような、不気味な形の痣だった。数日前、その痣は右腕にいきなり浮き出てきたのだ。そしてそれは一向に消える気配がなかった。
罪穢れ。天狗のお面の看守たちが忌々しくそう言う時、彼らはこの痣を見ている気がする。なんなんだろう、これ。気持ち悪い。病気か何かだろうか。わたしはこの痣のせいで死ぬんじゃないだろうか。天狗の言う、『大変なこと』って、この痣に関係することだろうか。
かなめの思考は、あまりまとまらずふわふわとしていた。どうしてここに来ることになったのか全く分からない。ここに来てから、いったいどれくらい時間が立ったのかも分からない。少なくとも二日はいる。今日で三日目かな。真四角の灰色の小部屋に閉じ込められていると、時間の感覚もなくなってくる。ここには、小汚い寝床と、生きていくのに最低限の用を足せるもの以外、何もない。
涙も出てこなかった。このままでは、あの天狗の言う通り、最終的に自分は餓死するのだろうけれど、それもいいかな、と思う。別にやりたいこともないし。つまらない、惨めな人生だった。
かなめはひざを抱え、薄汚れた毛布に包まる。明らかに使い古した、ところどころ穴の開いた毛布だ。汚らしくて、初めは触るのも嫌だったが、一度それで身をくるんでしまうと気にならなくなった。そうして、かなめはある男の子のことを考えた。彼は、かなめに救いの手を差し伸べてくれた唯一の人物だった。冴えない眼鏡をかけていて、気弱そうにこちらを覗き込むあの瞳。話す時はよく髪に手をやって、自分が話した後にごまかすようによく笑った。一緒にいると不思議と心が落ち着いた。この人は絶対に、人のことを傷つけたりしないという安心感があった。
時々、話すような仲になってから、かなめは彼のことを、ずっと名字で呼んでいた。本当は、下の名前で呼びたかった。その名前は、少し変わっていたけれど、彼にぴったりだとかなめは思っていた。素敵な名前だった。心の中ではこっそり下の名前で呼んでいた。だから、そのうちさり気なく、「ねえねえ――くん」と、下の名前で呼んでみたいと思っていたのだけれど、いきなり呼び方を変えるのも変だし、と思っていたら結局呼べずに終わってしまった。
彼のことを考える時だけ、少し胸が苦しくなる。死んでもいいや、なんて思うことが罰当たりに思えてくる。彼も、少しは自分のことを思い出したりしてくれているだろうか。
会いたいな、と思った。右腕の大きな痣が、熱を持ったようにずきんと、疼いた。
◇
そう、正義は最近、つい二日ほど前から幽霊を見るようになったのだ。見るようになった、というか、つけ回されているのだ。幽霊でなければ、幽霊っぽいストーカーかもしれない。分からないけれど、とにかく尋常でない奇妙なものが正義をつけまわしているのだ。
初めて見たのは、部活の帰りだった。日が落ちる少し前、駅から歩いてしばらくたったころにそいつはやって来た。ぱたぱた、と足音がした。ちょうど、正義の家がある、住宅街に入る小道を曲がったところだった。足音に振り返ると、さっと何かが隠れる気配を感じた。気のせいかなと思い、無視をしてまた歩き始めた。
それから家に着くまでの間、その足音は二度、三度、聞こえた。振り向くと、きまって何かが隠れるような気配がするのだった。かろうじてとらえたその姿は、小柄で、茶色い髪をしていて、スカートをはいているように見えた。
それが起きたのは、奇妙な偶然かそれとも何か意味があるのか――日向かなめが学校を休み始めた日だった。
その次の日、昨日もそのおかしな現象は起きた。日が暮れる寸前、家に帰っている道のりでまた起きた。住宅街に入る小道を曲がる。ぱたぱた、と音がした。振り返った。前の日より、おそらく素早く、きっと振り返った。そうしたら、何かが見えた。そのストーカーのような幽霊のような者は、やはりスカートをはいている。茶色い髪をなびかせている。そして、顔は――顔だけはどうしても見えない。
正体を掴もうとして、そいつを追いかけた。それが逃げた方へと角を曲がった。正義が曲がった頃には、もうそこには誰もいなかった。
逃げ足の速いやつだった。
それから家につくまでの間に、再びその怪しい影は現れた。足音を聞いた。どうにかしてその姿を見極めようとした。三度目に振り返った時は、それまでで一番成功した。逃げ足の速いそれは、やはり少女だった。華奢な体、スカートの制服、そして肩にかかる茶色がかった髪。正義の知っているあの子に似ていた。今日も学校を休んだクラスメイト。
しかし、顔だけはやはりどうしても見えなかった。正義が振り向いた瞬間、少女は顔を両手でぱっと覆ったのだ。それからくるっと振り向いて、ぱたぱたと走り去ってしまう。曲がり角の向こうに行ってしまう。追いかけると、少女は煙のように消えている。
だからまあ、幽霊か、幽霊のような少女か、日向かなめとは関係ないストーカーなんだろう、と思った。
そんな出来事が二度もあったのだ。一昨日と、昨日。
このことは誰にも言っていない。誰かに話すには、奇妙で訳が分からな過ぎた。平凡な日常から逸脱していた。学校からの帰り道、自分のことをつけ回しているおかしな少女がいる。振り向くとさっと煙のように消える。顔は決して見せてくれない。けれど、あるクラスメイトになんとなく似ている気がする――なんて誰かに話せば、つまらない冗談だと呆れられるか、気が違ったかと恐ろしがられるか、のどちらかだろう。
正義は、その幽霊少女を今日こそ捕まえようと思った。だから、待ち伏せすることに決めた。一度目と二度目の遭遇のように、不意打ではなく、こちらが意図的に待ち伏せしてやるのだ。時計を見ると、時刻はまだ四時過ぎだった。大通りから小道に入ると、右手に公園があり、左手にテニスコートがある。そして、その向こうに、その少女が現れては消えるのを繰り返した住宅街がある。住宅街に差し掛かったところで、時間をつぶせばいい。小道を曲がったところは、少し坂道になっている。
その坂道をのぼりきったところで、正義はじっと立っていた。時々じっとしれいられず、うろついた。幽霊少女が現れるのを待った。
十分が経った。ニ十分が経った。一時間が経とうとしていた。何も起こらなかった。なにをやっているんだろうという虚しさが募った。
何が幽霊だ。馬鹿々々しい。最近、心が浮ついたせいでおかしくなったんじゃないか、と自分の頭が本気で心配になってきた。
諦めて、帰ろうかと思い始めた。今まで見た、と思い込んでいた幽霊は全部妄想だったのかもしれないな、と思った。
とぼとぼと歩き始めた。足元に視線を落として歩いていた。ふと誰かの気配を感じて、顔を上げた。子供連れの母親が向かいから歩いてくる。その先には、小型犬の散歩をしている白髪の老婆がいる。正義はどこを見るともないぼんやりとした視線を宙に浮かせたまま、彼女たちとすれ違った。それからしばらく誰ともすれ違わずに歩いた。学校の帰宅時間にしては、やけに通りがひっそりとしているように感じる。
角を曲がると、道路わきに、目を引くほど大きな黒い車が一台止められていた。見ようとも意識せず、なんとなくその車を見ながら歩いた。その車の後部に何やら大きな広告が貼ってある。バスケの試合の日付がかいてある広告。その広告の下、大きな窓には正義の黒い人影が反射して映り込んでいるのが見えた。正義がその車に近づくと黒い影は大きくなっていく。車の窓に、正義の顔つきまでぼんやりと映し出されてくる。ふと、その黒い頭の隣で何かが揺れていることに気が付いた。何かいる。丸い、ぼんやりとした、人の顔。
ぎょっとして振り向いた。
すぐ後ろに、いないいないばあをするかのように顔を両手で覆った女の子が立っていた。顔を覆う指先をきっちりそろえているため、目は見えない。肩にかかる茶色の髪、正義より頭一つ低い背丈。あの子に、似ている。
「タナカクン、ミィツケタ」
不思議な少女から、そう声が聞こえた。金槌で頭を殴られたような衝撃を覚えて、正義はその場に立ち尽くした。タナカクン――ミィツケタ。ミィツケタミィツケタ。
それから少女は、顔を隠していた両手をさっと外した。正義は叫び声を上げた。その下の顔には――目がなかった。鼻もなかった。口もなかった。不気味につるんとしていた。のっぺらぼうだった。
幽霊? いや、幽霊じゃない。なんだこれ? 足ががくがくと震えた。そのまま力が抜けて、ぺたんと尻もちをついた。
のっぺらぼうがくすくすと笑う気配がした。口がないのに、くすくすと肩を震わせていた。心臓が早鐘を打つ中、かろうじて、そいつを目で追った。それは軽やかな足取りで、正義を追い越して、坂道の向こうの角を曲がった。制服のスカートがひらと揺れた。正義は一つ深呼吸すると、立ち上がった。汗をぬぐった。なぜだか、逃げちゃいけないと思った。そののっぺらぼうの笑いは、まるで自分を試しているようだった。ついて来られるものならついてきてみろ、と試しているようだった。
追いかけた。のっぺらぼうがまた角を曲がる。必死についていく。時々、角を曲がったところで、のっぺらぼうがこちらを見てじっと立っている。まるで正義を待っているかのようだ。正義が追い付きそうになると、また軽やかにのっぺらぼうは逃げた。下校時間の住宅街なのに、なぜか人一人、見かけない。あるいは、正義が追いかけっこに夢中で気付かなかっただけかもしれない。のっぺらぼうとの奇妙な追いかけっこは、誰にも邪魔されることなく続いた。次第に息が切れた。目が回りそうになった。汗で眼鏡が幾度もずり落ちた。正義の家からも駅からも随分と遠いところに来てしまった。今まで、足を踏み入れたことがないような通りに入った。景色は相変わらず代わり映えしない田舎の住宅街だ。ずり落ちる眼鏡を直す正義を見て、のっぺらぼうは肩を震わせ、くすくす笑っている。
追いつけるものなら、追いついてごらん。そう言って、正義を試している。
どのくらい追いかけていただろう。知らない公園をもう四つくらい通り過ぎた。大通りを渡って、隣町の住宅街に来たようだった。空は未だにオレンジ色だった。なぜか日が落ちそうで落ちない。世界が止まっているかのようだった。ぜえぜえと息を吐く。
のっぺらぼうは住宅街からどこかへ続く、地下道に降りていった。正義もあとに続いた。トンネルの壁面には明るい顔をした子供たちが描かれている。こちらを見てにっこり笑っている。自分とのっぺらぼうの奇妙な追いかけっこを見て、にっこり笑っている。正義は苦しくて怖くて泣きそうになりながら、のっぺらぼうを追いかけた。トンネルを抜けると、右は細い砂利道で、左は雑木林だった。のっぺらぼうのスカートがひらりと待った。左の雑木林のほうへ消えていった。正義も急いでついていった。
どれくらい走っただろう。ここは自分の家からどれくらい離れた土地なのだろう。きっと帰りたくてももう自力で帰ることができそうにないところにいる。でも引き返すわけにはいかない。だって、あののっぺらぼうに聞かなくては。「日向かなめの居場所を教えてください」と聞かなくては。なぜだか分からないけれど、あののっぺらぼうは知っている気がする。知っていて自分をおびきよせているのだ。
やがて日が落ちた。暗い、夜の雑木林は信じがたいほど薄気味悪かった。あちこち無秩序に枝分かれしている木々が、幽霊の手のように映った。そんな暗い道を、のっぺらぼうがうきうきとした足取りで先を歩いている。もう走ることはやめて、時々立ち止まって、正義のいる後ろを振り返りながら歩いている。――正義をどこかに連れていこうとしている。
のっぺらぼうがまた、目のない顔で振り向いた。正義はその度にどきりとして心臓が止まりそうになるので、なるべく、それの足元を見るようにしながら歩いた。目のない顔で、そいつは正義がついてきていることを確認すると、また先を行く。
しばらくして木がまばらになってきた。枝に遮られない、広い空が見え始める。そうして少し歩くと、もう先へはいけないことが分かった。崖になっているのだ。
のっぺらぼうは崖の手前まで行くと、立ち止まった。目のない顔で、こちらを見ている。正義が近くに来るのをじっと待っている。正義は立ち止まった。気持ちの悪い風が吹いて、心臓がぎゅうと縮まった。――どうして崖に連れてきたのか。
思い出した。彼女がホームから落ちそうになっていた時のこと。手を伸ばしたら、細いその手を掴めたこと。まだ日向かなめを知る前のこと。
心臓がどくどくとなる。耳元で大きくなっている。のっぺらぼうは、両手を背で組んだ格好で、うつむきがちに、いじらしく正義のことを待っている。
助けたいと思った。助けなければいけないと思った。だって、彼女は正義にこう言った。正義という名が『似合ってるよ』と。そう。日向かなめは、信じてくれた。正義が自分を信じるよりも、正義のことを信じてくれたのた。だから自分は、逃げちゃいけない。
「日向さんのことを助けたい」
しわがれた、まるで自分の喉から発したとは思えないような声が出た。
のっぺらぼうは聞こえなかったのかふざけているのか、正義の言葉を聞いて首をかしげている。
「どうしたら、助けられる」
のっぺらぼうはまだ首をかしげている。首をかしげるのをやめると、うつむき、足元の砂を蹴った。ためらいがちに、正義のことを目のない顔で上目遣いに見た。正義は一歩近づいた。のっぺらぼうは、おびえるように一歩後ずさった。そのすぐ向こうには――崖がある。
のっぺらぼうがもう一歩後ずさった。正義は走り出した。のっぺらぼうの身体が大きく傾いた。正義は駆けた。手を伸ばした。のっぺらぼうも手を伸ばした。細く、白い手を掴んだ。その時には、もう正義の足は地面から離れていた。崖があると思っていた場所は、思った以上に底の見えない崖になっていた。掴んだ手をぎゅうと握りしめて、放さないまま、正義は頭から落ちていった。




