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欠けた月の夢を見る  作者: 秋野
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2.日向かなめについて

 日向かなめはクラスの中で浮いていた。というより、虐められていた。


 何がきっかけだったのかは知らない。正義には女子の考えていることなどわかるはずもないし、女子同士の確執など考えるだけで頭がくらくらする。ドラマや漫画で女子のどろどろした陰湿な喧嘩を目にするたびに、自分は女子じゃなくてよかった、とほっとした。


 そう、だから日向かなめが虐めを受けていることに気づいたのも、きっとクラスでは遅い方だっただろう。正義は彼女が昼食を一人で食べているところを見ても、ひとりでいることが好きな子なんだろう、くらいにしか思わなかったし、休み時間にずっと本を読んだり、机に突っ伏して寝ているのを見ても、やっぱりひとりでいることが好きな子なんだろう、くらいにしか思わなかった。自分は呆れるほど鈍感なんだろうと思う。

 

 そんな鈍感な自分が、どうして彼女が虐めを受けていると気付くようになったのか。

それはおよそ二か月前、夏が終わり、皆が冬服を着始めた季節だった。場所は、駅のプラットホーム。時間は、朝、七時を過ぎたころ。


 あの時のことは鮮明に覚えている。いつもより一〇分寝坊をした。だから、走って駅の階段を駆け上った。ホームに着き、膝に手をついて息を整えていた。寒いからマフラーをしてきたのに、走ったから熱くなってマフラーを外した。マフラーを鞄にしまって顔を上げた時、視界の端で正義と同じ学校の制服の少女が立っている姿を見つけた。


 遠目で顔ははっきりと見えなかった。ただ、その立ち姿になぜか違和感を覚えた。


「黄色い線の、内側までお下がりください」


 毎日聞きすぎて、雑音の一部と化しかけているアナウンスが流れる。正義は確認するまでもないことなのだけれど、無意識に、自分が黄色い線の内側に立っていることを黙視した。その時、視界の端で何かゆらりとするものがあった。何だろう、と思って、そっちを見た。さきほどの女子生徒の身体がふらふらと揺れていた。彼女は、どさっと鞄を落とした。明らかに様子がおかしかった。具合が悪いのだろう。正義は、声をかけるべきだろうか、と感じてそわそわと周りを見回した。


 その女子生徒の近くに数人、スーツ姿の男性が立っていたが、皆、携帯か文庫本に目を落としていた。危なっかしい動きをする女子生徒のことは気にも留めていない。


 あんなに、プラットホームの端に立っていたら危ない。しかも身体がふらふら揺れている。正義は、心配のあまり、女子生徒に近づいた。近付いて初めて、彼女が同じクラスの日向かなめだと気が付いた。遠くの電車が近づいてくる音がした。焦った。視界の端、電車の先端が見え始めた。日向かなめの足は前に動いていた。正義は走り出した。心臓が口から飛び出しそうだった。


 日向かなめの細い足がすっと前に出る。あと一歩踏み出せば、ホームから落ちる。電車が近づいてくるガタンガタンという音がホームに響きわたる。


 卓球部で鍛えた反射神経が役に立ったのかもしれない。それに彼女の動きが緩慢だったことが救いだった。


 日向かなめの右手を掴んだときには、その体は完全に、ホームから落ちそうなほど、前に傾いていた。正義はそれを思いきり後ろに引っ張った。ドシンと尻もちをつき、電車が物凄い音を立てて目の前を通り過ぎた。背中は冷や汗でぐっしょりと濡れている。ほっと一息つくと、足ががたがたと震え始めた。「大丈夫?」ときこうとして、日向かなめが隣で死んだように仰向けに横たわっていることに気づいた。彼女はただ眼を不自然に見開いて、宙を見ていた。


 正義は不安になって、「大丈夫?」ともう一度きいた。日向かなめは死んだように虚ろな瞳で空を見ていた。それから、くしゃりと顔を歪めた。彼女は起き上がり、膝を抱えた。そして大声で泣き始めた。子供のように声を上げて泣いた。正義は、どうしていいか分からず、途方に暮れるしかなかった。大人たちが集まって来て、日向かなめを介抱した。


 正義の目には、耳には、今目にしたばかりの日向かなめの様子が鮮烈に焼き付いていた。ホームから落ちようと傾いた身体、華奢な右腕、虚ろな瞳、くしゃりと歪んだ顔、幼い子供のような泣き声――。

それがおよそ一か月と半月前の出来事だった。今でも時々思い出す。目の前で人が飛び降りようとしている恐怖を思い出して、ぞっとする。


 その一件は特に学校の生徒に知らされることはなく、だから、そこでできた田中正義と日向かなめの繋がりも、周りの生徒の知らない事実となった。だから何事もなかったかのように毎日は続いた。日向かなめが学校を欠席したのは、その一件があった日だけで、翌日から普通に登校した。駅で大泣きしたとは思えない、平然とした顔をしていた。少なくとも正義にはそんな表情に見えた。


 もし助けたのが正義でなかったら、例えば、お調子もので女子にも気安く話しかけられる青田だったならば、廊下ですれ違った時に何か気の利いたことを言えたのかもしれない、と思う。しかし、自分は何を話しかければいいのか全く分からなかった。いっそ、駅でのことは全く触れずに、いきなり天気の話でも持ち掛ければよかったのかもしれない。また駅で出くわしたときに、何気なく「今日は寒いね」とか何とか。ただその時、正義は、自殺をしかけたクラスメイトにどう接していいかまるで分らなかった。


 それでいて、それまで気にも留めていなかったのに、日向かなめのことがやたらと気になるようになった。無意識に、目で追うようになった。日向かなめは小柄で、色が白く、アーモンド形の綺麗な目をしていた。さらさらの髪は肩につくくらいで、他の生徒に比べ茶色がかっていた。染めているのかもしれないと思った。落ち着いていて、どこか大人びた雰囲気があった。


 日向かなめが一人でいることが多いことは前から知っていた。唯一、持っていた印象が、『一人でいるのが好きな子』だった。駅での一件以来、その印象が変わった。日向かなめは一人でいるのが好きなのではなくて、ある女子のグループから露骨に除け者にされているのだと知った。クラスで一番目立つグループが、昼休みにあたりをはばからない声で、陰口をたたいて盛り上がっていた。卑猥な単語もいくつか聞こえた。そんな時に、たまたま廊下を歩いてきた日向かなめが、その陰口を聞いて足を止めた。そして、足早に通り過ぎると、ロッカーの方に向かって歩いて行った。教室に戻ってきたとき、彼女の目の縁は少し赤くなっていた。


 正義は、『正義』という大そうな名前を持っていながらも、こんな時に、どうすればいいのか分からない腑抜けだった。


 駅での一件から、二週間くらい経って、たまたま二人きりになる機会があった。放課後、部活に行く前、忘れ物をしたと気付いて正義は教室に戻った。教室に入ると、そこにいるのは日向かなめだけだった。彼女は窓の外を見ており、こちらには背を向けていた。その姿を見て、正義は少しドキリとした。足音を聞いた日向かなめが振り向いた。目が、合った。


 「や、やあ」


 沈黙するのもおかしいなと思って、何が「やあ」なのか分からないが正義は挨拶をした。


 日向かなめは黙って、じっとこちらを見ていた。自分は何かしくじっただろうか、と正義は内心焦った。「やあ」なんていう挨拶、ダサすぎただろうか。


「もうしないよ」


 日向かなめは言った。陽の光を背にした彼女は、いつにも増してきれいに見えた。その茶色の髪と、窓との境のところがきらきらと黄金色に光っていて、見惚れてしまった。正義がぽかんとした表情をしていると、彼女は言葉を重ねた。


「飛び降りると思ったんでしょう? ここから」


「え? こ、ここから?」


 日向かなめは窓の近くに立っていた。そうか、自分が彼女を見た時にどきりとしたのは、それが原因か、と初めて気づいた。


「もうしないから、安心してよ」


 日向かなめが言葉を発しているところ――「はい」とか「どうぞ」とか、授業中の「わかりません」とかそういう言葉以外で言葉を発しているところを初めて見た。こんな話し方をするのだ、と思った。意外とさばさばした、どこか気の強そうな喋り方だった。


「そっか。それは……うん、安心したよ」


 正義はとりあえず笑っておこうと思い、へら、と笑みを浮かべた。


「ねえ、まだお礼言ってなかったよね」


「い、いいって、そんなの」


「ありがとう」


 日向かなめは正義の眼を見てそう言った。少し微笑んでから、眼を伏せた。正義はどう言葉を繋ごうかと考えた。正義は女子を相手にすると、途端に口下手になる。正義がまごまごしていると、彼女はまた身体を窓の方へと向けた。


「時々ね、無性に飛び降りたくなるの。身体がふわっとして気持ちいいかなあって。でも、もう辞める。うん。……それに、ここからの高さだと、ただ怪我するだけだね」


 独特な話をする子だと思った。正義はとりあえず調子を合わせる。


「うん、ここは二階だから。僕が飛び降りるんなら……屋上に、行くかな」


「ふうん。でも屋上って鍵かかってるってきいたよ。どうやって行くの」


「鍵なら職員室にあるし。部活で使ってる倉庫の鍵を取りに行くふりして、屋上の鍵をとってもバレないよ」


「へえ、田中くんてワルなんだ。意外だな」


 こちらを振り返った、彼女の目と口元が茶目っ気を帯びる。田中と名を呼ばれたことに、どきりとした。名前を知ってくれていたことに、少し驚く。いや、クラスメイトだから当たり前なのだけど。


「ワル? いや、ワルじゃないよ。え、ワルに見える?」


 正義はあわあわと言葉を返す。『見えるはずないだろ』と自分に突っ込む。かなめは、くすりと笑って視線を再び窓の方へとむける。


 沈黙が落ちる。何か言おう、と思う。でも何を言えばいいのだろう。ここでいきなり天気の話をするのは変だろうか。変だろう。かなめはしきりに窓の外を見ている。「何かおもしろいものあるの?」ときこうか。いや、何か面白いものを見ているわけじゃなかったら、その後の会話が続かない。正義は、女子を相手にするとこんなふうに、まごついてしまう。


「あの噂ね、本当のことじゃないから」


「噂?」


「うん、あたしが二股してたって噂。あれ、嘘だから」


 正義が友人から聞いたのは、『三股してたらしいぜ。自業自得だよな』だったが、もちろんそんなことをわざわざ教えたりしない。


「ああ、あれね。うん……ちょっときいたことあるけど、信じてないよ。下らない噂だよ」


 正直に言えば、正義がその噂を始めて聞いた時は、信じかけた。確かにかなめはよく一人でいることが多いが、綺麗だったし、他の女子生徒に比べて大人びていたから。なるほど三股していたのか、と思った。まるで自分とは違う世界の出来事だ、と感じた。しかし、そんな風に思っていたのは、あの時の前の話だ。駅のホームから飛び降りようとしているのを見てからは、そんなふうには思わなくなった。


 正義が、クラスの女子たちを観察していて感じたのは、日向かなめに対する女子の嫉妬だった。日向かなめももしかしたら、何かちょっとした間違いをしたのかもしれない。そのあたりのことは知らない。しかし、そのちょっとした間違いに、汚い尾ひれをいくつもつけて言いふらす、その背後にあるものは女子の嫉妬なのだと正義は気が付いていた。


「あのさ、なんていうか……クラスの女子はきっと、日向さんに妬いてるんだと思う。その、なんていうか、日向さんって特別な感じがするから」


「特別?」


 かなめが振り向く。黄金色の髪が風でふわりとふくらんだ。アーモンド形の綺麗な瞳が正義のふらつきかけた瞳をとらえる。その瞳に見とれて、正義の口は勝手に動いた。


「うん、日向さんは、うちの学校で一番、綺麗だから」


 言ってから、数秒経って、自分の言った言葉の意味に気が付いた。驚愕した。

口下手は度が過ぎると、極端なことを口走ってしまうらしい。正義は自分が言った言葉の始末がつけられずに、ただ茫然としてかなめのことを見つめていた。もちろん思考は停止している。


 日向かなめの頬がさあっと赤くなった。それを見て、我を忘れていた正義の頬にもぐんぐん血が昇り始める。


 かなめが赤い顔のまま、目を細めて笑った。「田中くんて、面白いこと言うんだね」と言って笑った。その笑顔を見て、正義の顔はますます赤くなる。始末がつけられないほど、赤くなる。


「え、面白い? 面白いことを言ったつもりは」


「面白いよ。じゃなきゃ変。変だよ」


「変かな」


 会話はいったん途切れる。かなめはまだ少し赤い顔をしている。正義はもっと赤い顔をしている。むずがゆいような時間が流れ――かなめが口調を少し変えて言った。


「あたしって変人だって知ってた? よく言われるの、変わってるって」


 正義は少し戸惑った。そんな言葉は変化球だった。


「……でも僕だって、メガネとかオタクとかいろいろ言われるよ」


「メガネオタクよりは変人って言われる方がましって思う?」


「うん、ましだよ。全然まし」


正義の顔は大まじめだった。かなめはそんな正義の顔を愉快そうな眼をして見つめた。


「なんかちょっと元気出たかも」


 かなめは、そういって目尻にくしゃりと皴を寄せて笑った。子供のように無邪気な笑顔だった。こんなふうに笑うのだと思った。心臓を射抜かれたような気持だった。


 その無邪気な笑顔を見せてから今日まで――まだ二月も経っていない。

その二か月足らずの間に正義とかなめは何度か会話をした。かなめは漫画が好きだと知った。ホラー映画が好きだと知った。マイナーな古いゾンビの映画を、正義もかなめもたまたま最近見ていたことを知り、意外な共通点だねと盛り上がった。正義の姉が毎月読んでいる漫画雑誌を、かなめが毎月読んでいるということに気がついた時も、お互い驚いて笑った。


どぎまぎと緊張することがあっても、なぜか話していて飽きることがなかった。日向かなめは意外とよく喋る子だった。何度か会話を重ねていくうちに、「正義って名前、変わってるね」とか「その眼鏡ちょっとださいと思う」とからかわれることもあった。正義はいやな気持になることもなく、「そうかなあ」と顔をほころばせてこたえた。それから、かなめの茶色い髪は染めているのではなく、地毛なのだということも知った。「昔、水泳やってたから塩素で色が抜けちゃったみたい。よく染めてるって誤解されるんだ」とかなめは教えてくれた。


もっと彼女のことを知りたいと思った。

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